赤見城(あかみじょう)
赤見城の基本情報
通称・別名
- 町屋城
所在地
- 栃木県佐野市赤見町
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 足利俊綱
築城年
- 治承2年(1178)
主な改修者
- -
主な城主
- 足利俊綱、戸賀崎義宗、赤見氏
廃城年
- 慶長6年(1601)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(水堀)
指定文化財
- 市史跡(赤見城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
佐野城(栃木県佐野市)[5.6km]
唐沢山城(栃木県佐野市)[6.0km]
岩井山城(栃木県足利市)[7.5km]
足利氏館(栃木県足利市)[7.5km]
足利城(栃木県足利市)[7.7km]
植野城(栃木県佐野市)[8.1km]
椿田城(栃木県佐野市)[8.1km]
高松城(栃木県足利市)[8.7km]
鶉古城(群馬県邑楽郡)[11.4km]
館林城(群馬県館林市)[12.3km]
赤見城の口コミ情報
2025年09月23日 マグロ常陸介祐平
正光寺城[赤見城 周辺城郭]
正光寺の裏に位置するお城です。須花城から東に約700m、かつては「悪戸城」と呼ばれ、須花城の出城と考えられているようです。周辺は、佐野氏と足利長尾氏の戦場となった場所で、お城の手前には討死した佐野家当主佐野宗綱と将士の墓が並んでいます(写真8枚目)。
崖となる北側を除き三方を空堀が囲み、南側中央に土橋がついており、砦というよりは典型的な方形の居館タイプに感じられます(写真1~6枚目)。24m四方とかなり狭い郭ですが、西側は二重土塁となっています。また、お城の南西には、物見に使用されたかもしれない、天満宮の祠が建つ古墳が見られます(写真7枚目)。
個人的な感想ですが、正光寺城が古くに築かれた居館で、須花城はその詰めの城のように感じられました。遺構の保存状態は良好です。
2025年09月22日 マグロ常陸介祐平
須花城[赤見城 周辺城郭]
佐野国綱が築城したとされています。戦国期になると足利長尾氏の支配下となったようです。
天正10年織田氏の家臣滝川一益が上州入を果たすと、佐野氏は一族の天徳寺了伯の斡旋もあり織田氏に従いますが、本能寺の変で信長が討たれると一益は関東から撤退、佐竹氏等と組み北条氏と戦うことになりますが、北条方の長尾顕長に、ここ須花坂の戦いで敗れ、当主佐野宗綱は討死しています。その後宗綱の養子として佐野氏を継いだのは、宗綱より年長の敵方北条氏康の6男氏忠でした。
お城には先人様の登城口が見つからず、工場向かいのゴミ回収ボックスと地蔵が並ぶ場所から入りました。細い道を入り、30m程にある墓地脇を城に向かって進むとピンクリボンの巻いた木のある分岐があり、右側に進むとすぐに堀切に当たります。目の前は主郭の切岸ですが、武者走り風の滑りやすく歩行注意の道がついており、登ると主郭東側の郭の堀切の脇に出られます。4つの郭で構成されており、それぞれの郭を堀切で分断、主郭と西の郭の各西側には土塁、西側の郭の尾根道の先にも堀切が見られます。
堀切の規模など、土木量が多いとは言えませんが、保存状態は良好で見応えはありました。駐車には難儀しますが、この時期でも支障なく探索可能で、登城口からは15分程で主郭に到達出来ます。
2025年09月21日 マグロ常陸介祐平
南氏館[赤見城 周辺城郭]
足利氏の重臣南氏の居館です。南氏は高階氏の一族で、尊氏の元で活躍した宗継は高師直の又従兄弟の関係となります。宗継は、新田勢に敗れて九州へ下った尊氏の使者として、少弐貞経を味方に付けるなど活躍し、室町幕府が成立すると、侍所頭人、三河国守護、備中国守護を務めています。宗継の後も南氏は存続していますが、歴史の表舞台からは遠ざかっています。
古河公方家の家臣の南氏や戦国期に長尾顕長分限帳に見られる南掃部之助(名草村300貫文)は子孫と思われ、館跡に建つ金蔵院は永享元年(1429年)に南氏館跡の開山と伝わるのでなんとも言えませんが、館は鎌倉時代から戦国時代末期まで南氏が居住したかもしれません。
館の北西約800m程には詰城の名草城、南西約1kmには来歴不明の石尊山城、南東約800mには窪田図書とも小木曽筑前守の城とも云われる本覚山城、北東約2kmには佐野氏が築城し、戦国時代は足利長尾氏の支配下となった須花城と、四方に山城が存在する立地です。
以前は土塁がよく残っていたようですが、現在はお寺の西側に土塁の痕跡が見られる程度になっています。本堂の手前右側には、宗継の孫の宗氏の墓があります。
2025年09月20日 マグロ常陸介祐平
横小路城[赤見城 周辺城郭]
登録城である赤見城主赤見伊賀守とその子勘解由は、永禄2年(1559年)佐野泰綱への元日拝賀参集に応じず、主君泰綱に赤見城を攻められ、母方の常陸に逃げるも、永禄6年に佐野昌綱により許され、このお城もしくは大門館(北に200m程の距離にある現在は公園、遺構なし)に居住したとされます。
赤見城から北東に600m程に位置しています。2021年に先人様が大門館とともに口コミされた時点で、ソーラーパネルが設置されており、遺構が消滅することを気にかけられていましたが、県道沿いの土塁は健在でした。
2024年05月12日 DAI.上野介
赤見城
築造された土塁が道路沿いによく残っていました。道路沿いの土塁最南端に城趾碑と名蹟杭が建っています。城趾中心部は地元の保育園敷地になっているようです。
2023年05月25日
赤見城
涌釜神社お隣り出流原弁財天さまで古地図の掲載されていて見つけました。お城の水堀は出流川から引いていると思っていました。そうではなくて実際は北部、西部の丘陵地からの豊富な湧水のようで。赤(閼伽)の名のとおりに、利水に恵まれた土地、と思いました
2023年05月25日
藤宮神社(足利俊綱最期の地)[赤見城 寺社・史跡]
石塚大橋から旗川の下流(渡良瀬川の方面)を眺める。左岸堤内に藤宮神社、別々の場所にあったものを合祀?か当初よりか、境内に「生馬(生駒)大神」の碑もありました。旗川と出流川が縦貫して渡良瀬川に着くまでの間には細かく水路が「島」をつくり「駒場」等の字や町名の残ることから安足とも良好な牧が多かったことを思わせます
2022年10月20日 【鮭】近江守Silvine
赤見城
以前の口コミにある主郭内の保育園ですが、統合により閉園となっているようです。
2022年07月25日 マグロ常陸介祐平
赤見城
二重の土塁と水堀がよく残っています。戦国期の平城としては大変な土木量ではないでしょうか。
2022年04月01日 ya田
赤見城
保育園の囲むように遺構があり二重堀も確認できしかも土塁ウォークができます。
2021年04月17日 ssac 日向守
赤見城
ほぼ方形単郭の本丸部が土塁と堀に囲繞された形で残っているが、本丸内は保育園となっているので内部には入れない。しかし、高さのある土塁上を歩ける様になっており、堀の周囲も観て廻れるので十分に見応えのある遺構だが、城址の中心が保育園で周囲は住宅地が近接しているので、住民の方に迷惑がかからない様に気をつけて見学をして頂きたい。
2021年02月22日 [銀英1]唐沢山下野守秀郷
須花城[赤見城 周辺城郭]
1335年佐野国綱の築城と言われています。代々唐沢山城の支城でしたが、1558年足利長尾方に渡り、樺崎山城同様長尾氏の対佐野氏への前線地となります。
1585年佐野宗綱は須花坂の戦いでこの地で討死、弟の岩崎重久や福地慶久等数多くの忠臣を失い佐野家衰退の一因となりました。
今日は北側県道208号から南へ。途中に路駐し(道が狭いので要注意)大きい立派な民家の塀と石垣の間を抜けて山道へ。
尾根づたいに山頂へ、20分位で本郭に到着します。二重堀を含めて大きいな堀は3本しっかり残っています。郭は本郭の東に二つ、西に一つ計四つでしょうか、本郭はそこそこ整備され、小さい祠がありました。ただ、備えは西側の方が堅固で佐野氏の面影が伺えます。
祠後ろにある杉の大木、よくみると中が炭⁉️落雷から祠を守った❗️しかも生きています、ちょっと感動しました。
登山入り口にある大きく立派な民家、石垣の北側にはこれも立派な墓所と神社が、きっと須花城と何か深い関わりがあるのではと勝手に思っています🎵また、塀と石垣の間は当時へタイムスリップしたようで、とても風情を感じました☺️
2021年02月22日 [銀英1]唐沢山下野守秀郷
田沼城[赤見城 周辺城郭]
1248年佐野実綱の子重綱(田沼九郎山城守)の築城と言われています。その後田沼氏は宗家は断絶、庶流相良田沼家は佐野家を含めたびたび主君を変え各地を転々としますが江戸中期、紀州徳川家に仕え田沼時代15代意次へと繋がります。
平成18年の発掘調査では、堀、土塁などが確認されました。しかし、埋め戻された今は私有地なのでしょう、住宅が建ち、隣接する幼稚園の公園に⁉️僅かに公園内に土塁の面影を感じますが、寂しい限りです。
2021年02月20日 [銀英1]唐沢山下野守秀郷
田沼家墓所[赤見城 碑・説明板]
田沼宗家は1585年須花坂の戦いで当主綱重が主君佐野宗綱と共に討死、断絶となってしまいます。詳細は説明板の通りです。墓標は二つ、田沼家祖重綱公、相良田沼家祖光房公。
田沼意次の子若年寄田沼意知は1784(天明4)年、江戸城内で襲われその後死亡。そしてその加害者は佐野善右衛門政言(田沼家の主筋佐野家の末裔)原因は諸説あるそうですが寂しい限りです。
田沼時代(意次、意知)はいずれ違った見方で見直されることを願っています。明智十兵衛しかり、剣客商売のごとく(^-^)
2021年02月13日 [銀英1]唐沢山下野守秀郷
鳩の峰山頂[赤見城 関連施設]
赤見駒場城の北にある高い山です。立派な神社がありましたが、今は崩壊❗️無惨な姿でした。パノラマ360°見張り台、狼煙台には最高ではないかと。
2021年02月13日 [銀英1]唐沢山下野守秀郷
赤見駒場城[赤見城 周辺城郭]
城跡の西側尾根が今は足利市と佐野市の境界になっていますが、以前は足利領域。対佐野氏の見張り台⁉️大きな堀切が3本そして、結構広い本郭、館があったとしても不思議ではなさそう。西下に樺崎山城がありここは出城の可能性も。
実際、北にある、鳩の峰砦?の山頂にはかなり大きな神社が在りました。
2021年02月13日 [銀英1]唐沢山下野守秀郷
大門館跡[赤見城 碑・説明板]
横小路城同様、赤見氏の居館だったと言われています。住宅地になってしまいましたが、縄張りからすると結構大きいです🎵この公園は本当に小さくて可愛い🎶
2021年02月13日 [銀英1]唐沢山下野守秀郷
横小路城[赤見城 周辺城郭]
1559年佐野家家臣、赤見城城主赤見伊賀守は主君佐野泰綱に背き、夜襲を掛けられ常陸に逃れるが昌綱の時代に赦され帰郷。そして、ここ横小路に館を構えたと言われています。
見事な土塁です🎵が、ソーラーパネルが設置され、いずれ失くなってしまうのかなぁ💦
2021年02月11日 [銀英1]唐沢山下野守秀郷
トトコチ山古墳(足利俊綱の首塚)[赤見城 寺社・史跡]
不動明王様が凛々しい🎵ここは私有地です、駐車、散策には十分注意を✨私はちょっと遠くに路駐、南の畑の方から攻めました。
2021年02月10日 [銀英1]唐沢山下野守秀郷
藤宮神社(足利俊綱最期の地)[赤見城 寺社・史跡]
野木宮合戦、志田義広に与し敗れた俊綱、忠綱父子、忠綱は平家が残る西海へ逃れ俊綱は赤見城から桐生城へ。
家老の桐生六郎の裏切りで赤見城に戻った後殺害された場所と言われています。
俊綱の首は忠臣、石塚牛兵衛が密かに鎌倉より持ち出しこの地に丁寧に埋葬し霊を弔ったと言われています。
本殿の彫刻が一枚しかありません、盗難?不届き者め😔俊綱公の天罰が降るぞ❗️
鳥居の向こうの山は唐沢山です🎵
そして、俊綱の首を懇ろに葬ったとされるトトコチ山(古墳)は少し北にあります。
2019年03月09日 【籠城中】下野守智ぞう
赤見城
↓唐揚げ屋さんで城見学メンバー全員に試食振る舞ってくれる大盤振る舞い。ご丁寧にお茶まで!これは財布の紐も緩むなあ~
2018年04月09日 リュウト安房守
赤見城
先の口コミにもありましたが、駐車場はありません。ただし、城の対面に唐揚げ屋さんがあり唐揚げを注文してから揚げてくれます。その間に城を見ることが、できます。唐揚げもあつあつでおいしいです。
2016年01月01日 まー刑部卿
赤見城
赤見城保育園がお休みの時は駐車場可能です(前回保母さんから聞きました)。保育園のグラウンドが本郭跡。道路には堀跡があり更に先に進むと土塁と堀跡があるところに進めます。二重堀も見ることが可能。犬が吠えるので驚かないで下さい。またお社があるところに『青木家』と銘打ったお墓有り。日曜日に行かれることをオススメします。
2015年12月28日 まー刑部卿
赤見城
夜が更けて到着。駐車場はありません。少し進んだ右手に唐揚げ屋がありました。たまたま保育園の保母さんと話して年末年始の休みの間は保育園の駐車場を停めてもいいと言われました。たまに巡回目的で見回りするとのこと。ワイパーのところに城跡めぐりとでも書いておこうかと思います。再訪します。
2015年08月13日 Midori琉球守
赤見城
土塁前には「子ども飛び出し注意」と共に「駐車禁止」の看板あり。目の前にある唐揚屋さんの駐車場に車を停め、僅かに購入したあと城址見学中の駐車を申し出ると、快くOKしてくれました。その店はお手頃価格の上、無料麦茶・椅子・日除けテント・灰皿等もあって、小休憩も可能です。
石碑脇の階段から、保育園の園庭を囲むように存在する土塁上へ。ほぼ1周できますが、園舎に突き当たって行き止まりとなるためUターンが必要です。ゆっくり歩いても所用時間は10分程度。土塁を降りたら左手に回り込んで、下からも見学されることをお勧めします。
2013年01月13日 Dr.K佐渡守
赤見城
本丸土塁のなかに保育園があり、土塁の上は一周回れました。