細井城(光明寺城)
細井城(光明寺城)([壬生城 周辺城郭])
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細井城(光明寺城)の口コミ情報
2025年11月19日 マグロ常陸介祐平
小山氏の家臣細井駿河光明により弘治2年(1556年)に築城され、永禄3年(1560年)に壬生義雄に攻められ落城したと伝わります。白川結城文書に、文明3年(1471年)小山下野守持政は白川直朝に都賀郡家中郷大和田村細井中務丞知行分を与えるとあることから、細井氏は早い時期にこの地に居住していたと思われます。また、壬生義雄により落城したとされる永禄3年時は、義雄は家督も相続していない満8歳の少年で、同時期に成立した関東幕注文には小山衆細井伊勢守とあり、お城の来歴は信ぴょう性に欠ける感じがします。また、文禄の朝鮮出兵では宇都宮氏の幕下芳賀衆として細井左京亮と細井安芸守が見られるようですが、一族かもしれないようです(埼玉苗字辞典)。
城址に建つ光明寺は、延喜3年(903年)観賢法師開基の真言宗のお寺で、天正期に細井光明の菩提を弔うために光円寺から改称され、城址である現在地に移転したとされます。
お城は、単郭に感じられる居館的な構造で、高い土塁に囲まれ、東側を除き空堀もよく残っています。土塁の北東の角は櫓台になっていますが、南東、南西の角も広さがあります。堀は2重になっていたようですが、北東部分に一部残る程度となっています。西に隣接する小学校の校庭の西側道路沿いに、水堀の痕跡のような構造が見られ、城域は広いものだったのかもしれません。
2022年05月30日 国府左京大夫城介
小山一門の細井光明が築いた平城
【歴史】
弘治2年(1556)に、小山高朝が細井光明に命じて築かせた。しかし、永禄3年(1560)に壬生氏に攻められ、細井光明は戦死し、落城した。天正年間に、光明の菩提を弔うために跡地に光明寺が建立された。
別名:光明寺城、家中城
【遺構】
壬生城から西に3.4kmに位置する方形の平城で、現在は光明寺となっている。主郭を囲う土塁に、その外側に空堀が掘られている。主郭の北東隅には櫓台がある。往時は更に外郭があったようだが、東側から北側にかけて残っているのみである。また、外郭の外側にも空堀が一部残っている。
【感想】
典型的な平地にある平城で、廃城後は寺院に転用されたパターンです。主郭周りの遺構は破壊されたところもありますが、概ね良好に残っています。外郭部は小学校や農地開発により半分以上なくなっていますが、残っている部分の外縁部には土塁もしっかりと残っています。
城の構造としては、主郭・堀・外郭・堀となっており、二重堀で守っていたようです。ただ、城の南側にある道路に接する部分で城側が若干低くなっている場所があり、もしかすると、更に外郭がもう一重あったのかもしれません。個人的な意見ですが、現状の遺構の規模だと、少なくとも宇都宮氏や壬生氏と対峙するために小山氏が築城させたにしてはあっさりとしすぎのような気がします。しかし、歴史的な事実としては、築城して四年で落城しているので、この位の規模でもおかしくはないかもしれませんが。
【アクセス】
東武日光線家中駅から徒歩15分。
光明寺の駐車場を利用可能。
【写真】
①光明寺正門
②主郭西側の空堀
③主郭北側の空堀
④櫓台
⑤主郭(光明寺)
⑥外郭
⑦外郭の空堀









