上三川城

(かみのかわじょう)

通称・別名

所在地

栃木県河内郡上三川町上三川(上三川城址公園)

城郭構造
平城
天守構造
築城主
横田頼業
築城年
建長元年(1249)
主な改修者
主な城主
横田氏、今泉氏
廃城年
慶長2年(1597)
遺構
曲輪、土塁、水堀
指定文化財
再建物
石碑、説明板
周辺の城
中村城(真岡市) 4.8km
児山城(下野市) 5.8km
薬師寺城(下野市) 6.0km
刑部城(宇都宮市) 6.5km
横田城(宇都宮市) 8.3km
概要
鎌倉時代から安土桃山時代まで、上三川の地は宇都宮城に本拠を置く宇都宮氏の所領の南端に位置していた。上三川城が築かれた理由としては、宇都宮氏が鎌倉時代の初め、必ずしも幕府との関係が良好ではなかったことがあげられる。1247年、幕府の実権を握った北条氏に、宇都宮氏と関係が深かった有力御家人・三浦氏が滅ぼされたことから、南方の守りを固めるために築かれたといわれる。

ここ上三川の地は、結城と宇都宮を結ぶ交通の重要な場所だった。このことは上三川城の城主に宇都宮宗家・宇都宮頼綱の次男・横田頼業が任命されたことからも分かる。以後、上三川城は頼業の子孫達が代々城主となった。

防衛上の重要な城であることから、何度も戦火に巻き込まれたほか、宇都宮氏が関わる戦いには必ず上三川城の軍勢も従軍し、数多くの戦いをくぐり抜け、宇都宮氏家臣団の中でも、上三川城主の位置付けは高いものであったといえる。

広さ
ほぼ方形状に土塁と堀をめぐらす本丸跡と、その北方約370mの地点の土塁との間に複数の郭塁跡が知られ、本丸の南方約300mに「武の内」「倉の内」の地名があり、東西約500m・南北700~800mと推定される。東は県道158号線、北は長泉寺の南側、西は正清寺、南は真岡バイパス(県道47号線)付近までの範囲と考えられる。

城の造りは、本丸の周囲にいくつかの郭塁が作られた複郭と呼ばれるもので、本丸の北部100~150mの地域に方形状に土塁をめぐらす郭を、堀の東西、南北に配して三箇所以上確認されていることから、本丸址の東・西・南側も同様の郭塁が想定される。

施設
1.本丸(上三川城址公園)
東西約86~93m・南北91~93mの土塁が方形状にめぐり、その外側に上幅11m・深さ3mの水濠が囲む短郭式で、発掘調査では、南西部分を拡張している様子が確認された。城主の居館のほか、政治・外交向きの部屋、重臣たちとの評定の間、勤番の兵士の詰所などがあったと考えられる。堅固に構築されている南西隅(高さ7m)は物見台と考えられる。建物の詳細については不明で、現在は公園として町民の憩いの場となっている。

2.二の丸(未確認)
本丸を守備するための櫓や塀などがある。

3.三の丸(未確認)
城主の一族や重臣たちの屋敷で構成されている。

歴史
(1)宇都宮氏の出現と上三川城・多功城の成立
宇都宮氏は、1184年に宇都宮二荒山神社の社務を監督する役職につき、それとともに周辺に支配地を確保した。宇都宮氏は神官的な立場で御家人としての基盤を確保した。

この後、奥州藤原氏征討(1189年)に従軍したことにより、他の下野国御家人とともに、源頼朝にとって軍事上無くてはならない存在になった。これにより鎌倉幕府の御家人としての権力を強化するとともに高級官僚となった。下野の宇都宮を中心とした所領以外にも、伊予国(愛媛県)・美濃国(岐阜県)の守護を務める。この後、下野国内は小山氏を筆頭に、宇都宮氏・足利氏・那須氏を中心にグループが編成された。

しかし、幕府の執権北条氏による有力御家人の排除の流れの中で、宇都宮氏にも危険が迫ったことから、領土の南端に城を築き、万一に備えた。(上三川城〔1248年〕と多功城〔1247年〕の成立。)

上三川城と多功城は、宇都宮氏にとって重要な城であることから、宇都宮氏五代当主頼綱の次男頼業に上三川城を、4男宗朝に多功城を任せた。その後、上三川城主は横田を、多功城主は多功を名乗ることになる。

(2)下野国の雌雄を決する戦い
鎌倉幕府の滅亡(1333年)から室町幕府の成立(1336年)とその後の鎌倉府による関東地方支配の確立の時代である。室町幕府は関東を支配するために鎌倉府を置き、足利氏が長官である鎌倉公方を世襲した。そして、補佐役の執事(後の関東管領)は斯波・高・上杉・畠山氏の交代制だったが、1363年以降上杉氏一族が独占的に就任するようになる。

鎌倉府は次第に室町幕府とは独立した体制を敷き、各国の守護職を上杉氏が就任するようになるが、下野・常陸・下総の三国は旧族の勢力が強く、鎌倉府にとっては目障りな存在だった。

特に小山氏は反鎌倉府のシンボル的存在であり、鎌倉府は何とかして倒そうと画策した。

その手始めとして、下野国守護職は小山氏が就いていたにも係わらず、宇都宮氏も事実上下野国守護職を務めた(半国守護)。これは、ライバル関係にある両者を戦わせる鎌倉府の策略だった。そして両者はついに戦うことになった。

この戦いは、裳原の合戦(1380年)と呼ばれ、現在の宇都宮市茂原において小山義政と宇都宮基綱が決戦を行い、宇都宮勢は基綱が討死するなど大敗し、宇都宮氏の勢力が弱体化した。上三川城主横田師綱も重傷を負った。

結果として、鎌倉府の思惑通りとなり、小山義政は鎌倉府に攻撃される口実を与える結果となり、1382年に小山義政が自害し、小山義政の子息若犬丸も1397年に自害し、ここに関東における鎌倉府の支配体制が確立した。

(3)戦国時代の上三川
裳原の戦い以降の宇都宮氏は、1454年に関東一円を巻き込んだ戦乱である享徳の乱では、対立する幕府方・鎌倉府方の間を渡り歩きながら切り抜けた。

しかし、宇都宮氏の勢力は徐々に弱くなり、一族による権力闘争(宇都宮錯乱:1512年等)が更に拍車をかけた。しかし、上三川城主今泉氏と多功城主多功氏は、主家宇都宮氏に忠実に従い続けた。

これに追い討ちをかけるように、勢力が強大化した北条氏や上杉氏が下野国内へ進出を開始し、危機的な状況となった。北関東の戦国大名は、常陸の佐竹氏を中心に宇都宮・那須・結城氏が団結し、反北条氏に対する戦線を張った。宇都宮氏の最前線となる、上三川城・多功城には北条氏・上杉氏の軍勢が何度も押し寄せ、そのたびに、何とか城を守りきった。

しかしその後、北条氏よりもさらに勢力を持つ豊臣秀吉が迫り、宇都宮氏は危機に陥った。

(4)宇都宮氏の改易と上三川城と多功城の廃城
1590年に北条氏を倒すために豊臣秀吉が小田原に軍を進めると、宇都宮国綱はいち早く多功城主・多功綱継と真岡城主・芳賀高武を派遣し、秀吉の許しを得て、領地を安堵さた。その後、宇都宮氏は秀吉の朝鮮出兵にも従うなど一時期安定した。

しかし、1597年に宇都宮氏内部で後継者争いが発生し、真岡城主・芳賀高武が上三川城を攻め、城主・今泉高光一族を滅ぼしてしまう。このことが、豊臣秀吉の怒りを買い、宇都宮氏は領地を取り上げられてしまった。これによって、上三川城と多功城も廃城となり、350年も続いた歴史があっけなく幕を閉じることになった。

情報提供:上三川町教育委員会生涯学習課


上三川城口コミ情報

まさ大膳大夫猛虎 様[2017年06月02日]
城へは、県道35号線《宇都宮~結城線》が良いかも?近くには役場も有ります。駐車場は、車が10台置ける位、その奥にトイレ有り。

宇都宮城の支城、昔の城域は、俗に上三川街道と言われる県道沿い《城周辺部が、開発で切り取られた》迄。現存は、本丸とその周囲の堀のみ。

大手門の石垣が、来城者を御迎えしてくれます。本丸には、銀銘水《井戸》があり、また、時姫神社が祀られてます。時姫は、落城時の戦で片目に矢を受け、堀に身を投じた。以後、片目のドジョウ伝説が有ります。
本丸は、大きくはないが、4~5M高さの土塁に囲われてます。その回りには外堀があり、ほぼ一週出きる遊歩道が整備されています。
こじんまりと、まとまっている印象です。

土塁ルイ様[2017年05月11日]
駐車場は、城址南の〈城址公園通り〉にある入口を入ったところにあります。
西側から公園通りに入って歯医者さんが見えたらそのすぐ先です。

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