水戸城(みとじょう)

水戸城の基本情報

通称・別名

馬場城、水府城

所在地

茨城県水戸市三の丸1他

旧国名

常陸国

分類・構造

連郭式平山城

天守構造

三階物見[3重/1609年築/焼失]、独立式層塔型御三階櫓[3重5階/1766年再/焼失(空襲)]

築城主

馬場資幹

築城年

建久年間(1190〜1199)

主な改修者

佐竹義宣、徳川頼房

主な城主

大掾氏(馬場氏)、江戸氏、佐竹氏、徳川氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

曲輪、門、藩校、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

国特別史跡(藩校)、県史跡(水戸城跡(塁及び濠))、県指定文化財(旧水戸城薬医門)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

武熊城(茨城県水戸市)[0.9km]
吉田城(茨城県水戸市)[1.8km]
武田氏館(茨城県ひたちなか市)[3.3km]
見川城(茨城県水戸市)[3.5km]
河和田城(茨城県水戸市)[6.2km]
長者山城(茨城県水戸市)[6.2km]
加倉井館(茨城県水戸市)[9.7km]
多良崎城(茨城県ひたちなか市)[10.4km]
祝町向洲台場(茨城県東茨城郡)[10.8km]
松川陣屋(茨城県東茨城郡)[11.1km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

14 水戸城

設置場所

弘道館料金所窓口[地図

水戸城の解説文



水戸城(みとじょう)は、常陸国茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市三の丸)にあった日本の城である。

江戸時代には、徳川御三家の一つ水戸徳川家の居城で、水戸藩の政庁が置かれた[1]。茨城県指定史跡。三の丸にある藩校・弘道館は国の特別史跡。

概要 

水戸市の中心部、水戸駅の北側に隣接する丘陵に築城された連郭式平山城である。北部を流れる那珂川と南部に広がっていた千波湖を天然の堀としていた。台地東端の下の丸(東二の丸)、から西に向かって本丸、二の丸、三の丸が配され、それぞれが空堀で仕切られていた。城郭は主に土塁と空堀で構成された戦国期東国の典型的な城である。

城の歴史は平安時代まで遡り、当初は馬場氏の居館が現在の本丸付近にあったと考えられている。その後、馬場氏を追いやった江戸氏が水戸城を居城とした。江戸氏の時代には二の丸か築かれ、現在の本丸が内城、二の丸が重臣の屋敷地などになったとされている。1590年、小田原参陣の功により所領安堵を得た佐竹氏は水戸城を強襲し、江戸氏は滅亡した。佐竹氏は本拠を太田城から水戸城に移し、水戸城は常陸国主佐竹氏の居城となる。佐竹氏時代に、三の丸、二の丸、本丸、下の丸が連なる、現在の縄張りの基礎ができたと考えられている。佐竹氏は関ケ原の戦いで中立を守ったことで秋田に転封となり、徳川家の城として水戸城には武田信吉が封じらた。しかし信吉は翌年嗣子なく急死した事から、徳川頼宣が封じられ、以後御三家(水戸徳川家)の居城として明治を迎える。同じ御三家の尾張藩の名古屋城、紀州藩の和歌山城と違って戦国遺風が濃い連郭式の城である。水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸定府大名であったため、水戸城が藩主の居城として使われることは少なく、城内の建築物は質素であった。

江戸時代の御殿は、二の丸に現在の茨城県立水戸第三高等学校と茨城大学教育学部附属小学校・附属幼稚園にまたがる形で存在した。三の丸には藩校などがあり、本丸は主に倉庫として使用されていたとされる。本丸を中心として使用していたのは江戸氏の頃とされる。江戸近隣の城は江戸幕府に憚り天守建造はしないが、それは御三家の水戸も例外ではなかった。しかし、外見は三層、中は五階建ての御三階櫓と称す大型の櫓があり天守閣の代用とされた。御三階櫓は明治の解体を免れたが、太平洋戦争時の水戸空襲で焼失し、以後再建されていない。

三の丸付近が城址として整備されており、土塁・空堀が現存している。三の丸には水戸藩藩校であった弘道館(国の重要文化財、特別史跡)が現存しており、弘道館の西側には旧茨城県庁舎が建っている。また、薬医門(茨城県指定有形文化財)は銅板葺に変更されたものの現存しており、現在は旧本丸にある茨城県立水戸第一高等学校・附属中学校に移築されている。この門は佐竹氏時代の建物と言われており現存する水戸城の建物で最古のものである。

現在の城跡は文教地区となっており、立ち入り禁止のエリアが多い。水戸一高の他、水戸三高、水戸市立水戸第二中学校、水戸市立三の丸小学校、茨城大附属小・幼稚園が建っている。三の丸小学校は校門や塀、校舎の多くを和風にしている。

明治期に二の丸と三の丸の間の堀は道路用地(県道232号市毛水戸線)、本丸と二の丸の間の堀は鉄道用地(JR水郡線)になった。

御三階櫓

水戸城の御三階櫓の初代は「三階物見」と呼ばれる三重櫓であり、1764年(明和元年)に焼失した当時は銅板葺であったが、以前は茅葺であり極めて簡素であったという。焼失後、1766年(明和3年)に再建され三階櫓という実質上の天守となった。2代目の御三階櫓は、外観3重内部5階の最上重の入母屋以外の破風のない層塔型で、櫓台はなく、地面に敷かれた礎石の上に建っているものであった。下の部分、一階二階部分は海鼠壁であり、三階四階五階部分が白壁で、外見は三層、中身は五階であった。昭和戦前期までは残っていたが、1945年(昭和20年)8月2日の水戸空襲により焼失した。なお、空襲等太平洋戦争の戦災で焼失した天守相当の建築のうち再現されていないのは現在は水戸城だけである。

歴史 

馬場・佐竹時代

築城は古く平安時代末期まで遡る。常陸国の大掾であった平国香の子孫である馬場資幹により建久年間(1190年 - 1198年)に築かれたとされる。以後、大掾氏(馬場氏)の居城となった。このため、佐竹氏が入城するまで「馬場城」と呼ばれていた。

1416年(応永23年) 室町時代に入り、上杉禅秀の乱で、当主の大掾満幹は上杉禅秀側に加担したが、足利幕府側についた江戸通房に敗れた。これにより、代わって江戸氏が新城主となり、その支配は以後7代(約170年間)続いた。以後、江戸氏は度々主家である佐竹氏と対立する。

  • 1427年(応永34年)[2]大掾満幹が鹿島社の青屋祭に奉仕するために常陸府中(石岡)に向かった隙を突いて、江戸通房が水戸城を占拠する。
  • 1510年(永正7年) 通雅・通泰の父子は主家と同格の地位を得た。
  • 1590年(天正18年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際に江戸重通は北条氏側に加担し、逆に佐竹義重・義宣父子は秀吉軍に参陣した。これにより佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石を与えられた。義重・義宣は江戸氏の籠城する馬場城を攻め、1594年(文禄3年)に重通を敗走させた。

義宣はそれまでの居城であった太田城から、水戸城を重要な拠点と定めここに本拠を移した。義宣は入城するとすぐに城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めた。ところが、佐竹義宣は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは曖昧な態度で終始したため、1602年(慶長7年)には徳川家康によって水戸から追放され、出羽国秋田に転封させられた(久保田藩)。

同年に家康は、奥州を睨む好地として五男の武田信吉を15万石で水戸に入城させたが、翌1603年(慶長8年)に嗣子無く没したので、十男の徳川頼宣を20万石で入城させた。

徳川時代

1609年(慶長14年) 頼宣には駿府藩50万石を与え、末子で十一男の徳川頼房が下妻城より25万石で入城して以降、廃城まで水戸徳川家の居城となった。頼房は城と城下町を拡充して二の丸に居館を構えた。天守と称するものは幕府に憚って構えず、破風などのない、巨大な三階櫓(内部は5階建て)を二の丸に建造した。また、櫓・多聞(長屋)も極端に少なく塀を多用したが、この質朴さは水戸徳川家の家風をよく表している。藩校の弘道館は1841年(天保12年)に9代藩主の斉昭によって開かれた(斉昭は翌年の1842年(天保13年)に日本三名園の一つである偕楽園を城の西部に開いている)。

幕末には水戸藩の藩論が分かれ、改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起きた。1864年(元治元年)、遂に天狗党が筑波山で挙兵して天狗党の乱が起こった。この対立は明治維新まで続き、1868年(明治元年)には水戸城下で戦闘が行われ、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃した。この際に城内の多くの建物が焼失した。

近現代

水戸城は1871年(明治4年) の廃藩置県により廃城となった。翌1872年(明治5年)7月19日に東京鎮台の歩兵2個小隊が駐屯し、東京鎮台の第4分営となった[3]。同年に放火事件が起こっており、他藩出身者の入城に反発した犯行とみられ(容疑者として江橋厚が挙げられたが釈放された)、犯人も捕まえられていない[4]

  • 1945年(昭和20年)8月2日 水戸空襲により三階櫓を焼失。
  • 1952年(昭和27年) 弘道館が国の特別史跡に指定される。
  • 1964年(昭和39年) 弘道館正庁、至善堂、正門および塀が国の重要文化財に指定される(塀は附(つけたり)指定)。
  • 1967年(昭和42年) 土塁と空堀が茨城県の史跡に指定される。
  • 1983年(昭和58年) 薬医門が茨城県の指定建造物となる。
  • 2006年(平成18年)4月6日 日本100名城(14番)に選定された。

復元整備事業

平成に入ってから水戸市によって大手門や二の丸角櫓などの整備計画が策定され復元などが進められており[5][6][7]、大手門は2020年2月4日に復元式典が開かれた[8][9][10]

大手門復元では2015年(平成27年)、寄付を募る「一枚瓦城主」が始まった[11][12]。同年4月には三の丸「杉山門」が復元され周辺も整備された[13]。大手門復元に向けての「一枚瓦城主」は、2018年(平成30年)6月30日をもって終了した。復元する二の丸角櫓の屋根に使用する瓦の寄付を募る「一枚瓦城主」の募集は2020年(令和2年)3月31日まで継続する[14]。 大手門復元工事に先立つ発掘調査では、門と土塀の間に瓦と粘土を交互に積み上げた練塀が確認され、門と共に復元されている。また、木造復元による二の丸角櫓および鉄筋コンクリート製の二の丸土塀は、2021年6月27日より一般公開が開始されている。

現地状況 

所在地
  • 茨城県水戸市三の丸
交通アクセス
  • JR常磐線水戸駅から徒歩約8分
一般公開状況
旧水戸城の城郭は、見学できる場所とできない場所に分かれている。
  • 旧本丸 - 茨城県立水戸第一高等学校・附属中学校の敷地になっており、見学目的での立ち入りも可能。
  • 旧二の丸 - 道路以外の学校敷地内には立ち入りができない。
  • 旧三の丸 - 水戸市立三の丸小学校を除き、弘道館は有料で、その他の敷地は無料で立ち入りができる。

参考文献 

  • 『太政類典』。国立公文書館デジタルアーカイブ(https://www.digital.archives.go.jp/)を閲覧。
  • 【書籍】「定本 日本城郭事典」
  • 清水 哲「水戸城跡 一般県道市毛水戸線道路改良事業地内埋蔵文化財調査報告書」『茨城県教育財団文化財調査報告 329』(http://sitereports.nabunken.go.jp/10483)財団法人茨城県教育財団、2010年。

水戸城の口コミ情報

2022年06月12日 RED副将軍【新宮党】
水戸城



偶には100名城を投稿
大掾氏、江戸氏、佐竹氏、水戸徳川氏と続いた国内最大級の城跡です。

1193年に桓武平氏の庶流である馬場資幹によって築かれた館が始まりと云われます。以後、馬場氏の居城となります。馬場氏は大掾職であったことから後に大掾氏と呼ばれ所領を拡大しました。

1427年、大掾満幹が府中城に赴いた留守中に河和田城主の江戸通房が隙をついて水戸城を占拠。その後の約170年間、7代に渡り江戸氏が居城とします。1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に際して、江戸重通は北条氏側に付きます。敵対する佐竹義宣は秀吉軍に参陣。

1594年、佐竹義宣は籠城する江戸氏を敗走させ、水戸城を奪い、大改修を実施し居城としました。しかし、1602年に佐竹義宣は関ヶ原の戦いにおいて曖昧な態度であったため、徳川家康により出羽国久保田に転封。代わって、徳川家康五男の武田信吉が入封するもすぐに病没。続いて家康十男の徳川頼宣が入封します。

1609年に徳川頼宣が駿河国府中へ転封となると、家康十一男の徳川頼房が入封し、以後、明治まで御三家として水戸徳川家の居城となりました。

見所
本丸は水戸第一高校、JR水戸線が本丸と二の丸の間の空堀、二の丸は学校敷地、県道232号線が二の丸と三の丸の間の空堀、三の丸は現存する藩校である弘道館とそれぞれなっており、国内最大級の城郭でした。

復元された大手門は、木造2階建て、高さ 13.34 m、幅 17.18 mの櫓門で国内最大級です。三ノ丸歴史ロード沿いには整備された三の丸の空堀と土塁が残ります。唯一の現存建築物である薬医門は本丸の橋詰御門だったと考えられ、現在は水戸第一高等学校に移築されています。夜の徘徊、もといパトロールにて。

2022年05月08日 ひ〜ふ〜
水戸城

三の丸の弘道館から、大手門を通って二の丸に入ると、水戸城二の丸展示館が左手にあります。あまり大きくはないですが、水戸城全体の模型や資料を係の方が、親切に教えて下さいます。

2022年04月13日 どんぐり
水戸城



令和3年6月27日からは一般公開が始まった二の丸角櫓です。

2022年01月27日 弾正少弼しろし
水戸城



城跡は学校だらけ。でも最近水戸市が根性出して大手門、二階隅櫓など復元しているので楽しいです。本丸入口は、高校の入口ですがちゃんと桝形になってます。

2021年06月28日 疲れた人
水戸城



二の丸隅櫓の公開が始まりました。
大手門を過ぎ、薬医門方面へ向かう途中に入り口があります。

二の丸隅櫓は内部は資料館になっており、パンフレットが置いてあり、資料映像も見ることができます。

以下、二の丸隅櫓のパンフレットより。

【開館時間】午前9時30分から午後4時
【休館日】12月29日から1月3日
【入館料】無料

新型コロナウイルスの感染拡大により、開館日時は変わることがあるかもしれません。ご来訪の際には、念のため、開館状況をご確認ください。

2021年05月05日 織田上総介晃司
水戸城

水戸城周辺にはコインパーキングや立体駐車場が多く、停める場所には困らないと思います。
今回朝駆け(5:30)で水戸城リア攻め開始したので弘道館見学者用駐車場を間借り致しました。

城内に小中高と学校が存在するため、全てをくまなく、というのは無理ですが最低限のものは見学しました。

現在、隅櫓への見学道(城内)を作ってます。
ただ場外から隅櫓のビューポイントが少ないので
外側からの見学場所も整備して欲しい。

水戸徳川家で名君といわれる方は2人います。

1人目は「水戸黄門」で有名な徳川光圀
大日本史の編纂や生類憐れみの令に抗議するため将軍・綱吉に犬の毛皮を送りつけるというはなしがありますが、
若い頃は相当なかぶき者で暴れん坊だったそうです。
「水戸黄門」がない今「暴れん坊副将軍」のドラマを作っても面白いかも…

もう1人は徳川斉昭
実践で役立つ人材を育成するため弘道館を設立。
医学・薬学・天文学・数学・蘭学など多岐にわたる。
また尊王攘夷論者で幕府の開国に反対。
それにより大老・井伊直弼より隠居させられる。
後の脱藩した水戸浪士による桜田門外の変へとつながる。
斉昭の七男が徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜である。

2021年05月04日 岩代守 世之介
水戸城

御城印は弘道館の売店で買えるが入館料400円必要
水戸駅の観光案内所でも買えるとのこと

2020年12月29日 ターちゃん山木登サル
水戸城



大きさに圧倒され、当時の様子を思い浮かべると大きな敷地に大きな建屋が優然と建っていたんだと思うとすごいと感じた。おっきな池と武家屋敷など考えると凄いと思う。

2020年10月08日 武蔵守かわせれいと
水戸城



水郡線にて堀切を渡りました。通常は上から見下ろすところですが、列車で通り抜けるのもまた良いかと。水戸城堀切、上から見るか、横から見るか。

2020年09月22日 生駒備前守江現蔵
水戸城



三の丸はとても広く学校が多いです。二の丸の現存の薬医門は水戸第一高校の門です。今年4月に大手門が完成しました。

2020年06月07日 Jedi常陸介Master
水戸城



水戸城の大手門を見てきました。とにかくデカイ😅駅構内の観光案内所は閉鎖してました。

2020年05月23日 野呂利左衛門督休三
水戸黄門神社[水戸城  寺社・史跡]



徳川光圀の出生地を記念して三木之次の子孫によって建てられ、水戸徳川家から贈られた光圀像が祀られているそうです。
こちらは三木邸から外れているそうですが水戸市の説明板が立てられています。

すぐ背後に二の丸の崖線を見ることができる位置にあります。

2020年05月23日 野呂利左衛門督休三
水戸黄門誕生の地[水戸城  碑・説明板]



讃岐松平家初代の松平頼重と水戸徳川家二代の徳川光圀が生まれることを、父の水戸徳川家初代の頼房は認めていませんでしたが、その母を預かった水戸徳川家の重臣の三木之次は内密にその命令に背きました。
頼重は江戸の三木邸で生まれましたが、光圀は水戸の三木邸で生まれました。

この場所は三木邸のほぼ北端にあたります。三木邸の中心はもう少し南の線路の辺りだったそうです。その南側は千波湖だったようです。三木邸は元禄十(1697)年頃に水戸徳川家の中御殿となり、代わりに北三の丸に替地が宛がわれています。

碑の上部にあるのは水戸城三階櫓のオブジェです。

(参考:Wikipedia「三木之次」)

2020年05月16日 野呂利左衛門督休三
弘道館[水戸城  遺構・復元物]



徳川斉昭が開いた水戸藩の藩校。天保十二(1841)年に仮開館(安政四[1857]年に本開館)し、明治五(1872)年には閉校と短い期間ですが幕末史の重要な舞台です。
現在は正門と正庁のみしか建物はありませんが、かつては文館、武館、医学館、調練場、鹿島神社からなっており、敷地も今の県庁三の丸庁舎や県立図書館、水戸警察署、三の丸小学校を含むものでした。なお現在の弘道館公園は弘道館の正門と正庁、文館跡、鹿島神社から成ります。

弘道館の失われた建物の内、鹿島神社の建物は昭和二十(1945)年の水戸空襲で焼失しましたが、それ以外は明治元年の弘道館戦争での焼失です。
戊辰戦争で越後や会津を転戦した諸生党は会津藩降伏後、再起を図り後方で手薄となっているであろう水戸に戻ってきますが、水戸城占拠を果たせず、弘道館に立て籠ります。翌日の戦闘で諸生党は退却しますが、この戦闘で多くの建物が失われ、正門には弾痕が刻み付けられることになります。

なお、諸生党の名称は弘道館の書生が多かったことに由来しますが、面々の多くは斉昭の藩主就任で割を喰った門閥保守派です。

2020年05月16日 野呂利左衛門督休三
弘道館北柵御門[水戸城  遺構・復元物]



弘道館には正門と南北2つの柵門(弘道館の図面「弘道館全図」の表記)がありました。ここは北側の柵門で、2019年に再建されたものです。
弘道館の文館(学習の場。出版施設もあった)と調練場の境にありました。調練場は今の県庁三の丸庁舎や茨城県立図書館、水戸警察署に当たります。
北柵御門は枡形の中に土塁が張り出した形状で門を入ってから土塁に挟まれた右左左と曲がる通路を進むことになります。
現在、北柵御門の虎口土塁は東側の弘道館公園部分のみの復元なので通行することはできません。
弘道館の北と南には二の丸の堀と三の丸の堀を結ぶように土塁と堀が延びていました。
ここから東(二の丸方向)に延びる土塁と堀は当時のものです。

2020年02月02日 もっちん上総介
水戸城



水戸の城下町MAP-幕末版-が、水戸駅構内改札口並びの観光案内所、弘道館内の売店等で、一部100円で売られています。
現在の水戸市街地図に、嘉永〜文久頃の水戸城及び水戸城下の地図を、重ねたものです。
双方の地図を見比べながら、水戸の町を歩いて観るのも、面白いかとおもいます。
是非ご購入下さい。

2019年09月29日 まさある甲斐守
三ノ丸駐車場[水戸城  駐車場]



三ノ丸駐車場。
庁舎前ですが、どなたでも駐車可能。
1時間300円。

2019年09月29日 まさある甲斐守
弘道館駐車場[水戸城  駐車場]



弘道館駐車場。
10台ほど駐車出来ます。
無料ですが、弘道館見学者用です。
見学してから散策しましょう!
大人200円。

2018年11月08日 さーはる@ALL左衛門督
水戸城

旧三の丸に復元工事中の大手門。11/7に上棟式が行われました。完成お披露目は来年9月を予定しています。


2017年05月08日 能登守せんとくん
水戸城

水戸駅から、弘道館の前の大手橋を渡り、水戸第一高校にある薬医門を目指して行く途中に、模擬塀と杉山門が再建されてました。
杉山門の予備知識がなかったので驚きました。
杉山門を通過し、水戸第一高校に着く前の橋の下に、水郡線の線路があったが、昔は堀だったのでしょう。
水戸第一高校の校門を入ってすぐに、薬医門があります。
徳川御三家の城に相応しい立派な門です。

2014年04月26日 ジャミ伊賀守
水戸城

車ではじめから水戸城を目指して来ると何処に車を停めていいのか?どう見ればいいのか?わかりずらかったです。
弘道館を目指して無料駐車場(現時点13台分)に駐車し、水戸城跡通りをみて回ると見易いと思いました。

2013年03月10日 大田原釆女正資清
水戸城

弘道館、2013/03/09現在、孔子廟が拝観可能になっています。
正庁等は震災復旧の為、工事中でした。



2013年02月19日 まさっち参議
水戸城

JR水戸駅より徒歩10分。
現存する建物は薬医門のみ。水戸一高の敷地内にありますが、見学者は門のところまでは入れます。
城らしさを感じるのは大手門跡。門は現存しませんが土塁が往時を偲ばせます。
大手門の正面には藩校の弘道館があります。こちらは建物も現存しているのですが、震災被害を受けており現在は修理中。敷地内には入れますし、工事用のフェンスは一部に透明のアクリル板が使われているので、そこから覗く事は可能です。

2012年07月25日 徳川内大臣源朝臣康武
水戸城

藩校弘道館、今現在も入館無料でした。あちこちが修理工事中で、幕囲いばかり^^;

2012年05月07日 傾奇揚げ仙兵衛
水戸城

薬医門の写真を撮りに行く時 場所が高校なので挙動不審だと変質者に間違われ通報されないようにコソコソするのは辞めましょう。

2012年02月26日 しまさ左大臣
水戸城

「100名城スタンプ情報」
弘道館料金所窓口で訪ねると出してくれました。
(2012/2/19時点)

2011年10月14日 サムライ陸前守はる
水戸城

震災の影響で閉鎖されていた藩校弘道館が先週から部分公開中です。正庁などの建物の中は見学出来ませんが、震災当時のまま修復が必要な部分も多々ある模様。
公開時間は9:00〜16:30までで入館料は無料ですが無料の期間は不明。
弘道館前の道路は一方通行。しかも駐車場は数台程度しか置けないので、でお越しの際は近くの三の丸かJR水戸駅の駐車場をお勧めします。

2011年09月27日 サムライ陸前守はる
水戸城

震災から半年が過ぎましたが水戸城三の丸にある弘道館は今も閉鎖中国の重要文化財でもある正庁・至善堂は外壁・屋根損傷、塀の瓦も大部分が落下し、警鐘は全壊したままでブルーシートが掛けられたまま・・・修復作業は始まっている様子ですが再開はいつになるかはわからず

2010年09月20日 天神
水戸城

弘道館はすばらしい。あんな所で勉強すると身に付くのも早いだろうなあ〜

水戸城の周辺スポット情報

 三の丸空堀(遺構・復元物)

 本丸空堀(遺構・復元物)

 弘道館(遺構・復元物)

 二ノ丸大手門(遺構・復元物)

 二ノ丸土塁(遺構・復元物)

 柵町坂下門(遺構・復元物)

 杉山坂(遺構・復元物)

 杉山門(遺構・復元物)

 弘道館北柵御門(遺構・復元物)

 紀州堀(遺構・復元物)

 堀跡(遺構・復元物)

 薬医門(遺構・復元物)

 二の丸隅櫓(遺構・復元物)

 西の谷公園(水戸城の外堀)(遺構・復元物)

 弘道館正門(遺構・復元物)

 安神車(遺構・復元物)

 本丸(遺構・復元物)

 二の丸(遺構・復元物)

 三の丸(遺構・復元物)

 大日本史編纂の地碑(碑・説明板)

 徳川斉昭像(碑・説明板)

 二の丸御殿跡(碑・説明板)

 弘道館医学館跡(碑・説明板)

 水戸黄門誕生の地(碑・説明板)

 徳川斉昭公像(碑・説明板)

 千波公園西の谷の歴史(碑・説明板)

 徳川頼房公像(碑・説明板)

 水戸黄門神社(寺社・史跡)

 水戸東武館(寺社・史跡)

 弘道館鹿島神社(寺社・史跡)

 水戸東照宮(寺社・史跡)

 神崎寺(寺社・史跡)

 弘道館料金所窓口(スタンプ)

 弘道館駐車場(駐車場)

 三ノ丸駐車場(駐車場)

 偕楽園(関連施設)

 徳川ミュージアム(関連施設)

 常磐神社(関連施設)

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