多良崎城(たらざきじょう)
多良崎城の基本情報
通称・別名
- 足崎城、多良崎要害、多良崎館
所在地
- 茨城県ひたちなか市足崎字館990
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 吉田里幹
築城年
- 鎌倉時代
主な改修者
- -
主な城主
- 多良崎氏、足崎氏
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 市史跡(多良崎城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
石神城(茨城県那珂郡)[5.6km]
武田氏館(茨城県ひたちなか市)[7.5km]
額田城(茨城県那珂市)[7.7km]
南酒出城(茨城県那珂市)[8.7km]
武熊城(茨城県水戸市)[10.4km]
水戸城(茨城県水戸市)[10.4km]
祝町向洲台場(茨城県東茨城郡)[11.2km]
吉田城(茨城県水戸市)[11.2km]
長者山城(茨城県水戸市)[12.6km]
瓜連城(茨城県那珂市)[13.4km]
多良崎城の解説文
多良崎城の口コミ情報
2022年09月13日 里のシロクマ侍従
多良崎城
訪城は、2度目。2018年6月、15時過ぎ風があり曇り空でした。Ⅳ曲輪の狼煙台付近で杖をついたお爺さんとすれ違いました、突然の出現に驚いた思い出があります。室町時代、沼地の台地を利用し作られた城、I曲輪とⅡ曲輪の間、Ⅱ曲輪とⅢの間に、土塁と堀が確認できる。雰囲気のある土の城良いですね。
2021年04月13日 芝左衛門督陵太郎
多良崎城
城跡まで連続カーブは本当に危ないです。
また心霊スポットとしても有名なので合わせて注意して下さい。
2021年02月10日 副将軍お城エリコ
多良崎城
県道31号線北の勝田ゴルフ倶楽部西の舗装道路を北に行った峠に入口があり脇に石碑と説明板が有ります。そこから入って行くと「一の木戸」「二の木戸」があり、その先に大手門(虎口)から主郭に入り屋形跡も有ります。その先に二郭、三郭、四郭(のろし台)も有ります。
2021年02月07日 JUN
多良崎城
訪問するとしたら、やはり車でないと無理ですね。バスを利用するとかなり歩くか、もしくはレンタカーを借りるか?地方の城跡巡りは、都市部を除くと車を利用するのが基本だと再確認しました。
2020年06月21日 みかも内匠助48世
多良崎城
入り口の案内板を見たらワクワクしてしまいました。案内板通り歩を進めて行くとまずは木戸の跡の看板ですが虎口もなくよくわからないです。その先の1〜4の曲輪や土塁はまずまずの状態でした。何より手入れが良くこの時期でも気持ち良く拝見しました。中居城とかもこれくらい手入れしてくれないかなぁ(笑)。良い城跡だと思います。
2018年01月19日 【籠城中】下野守智ぞう
多良崎城
多良崎城に行く道はホントクネクネしたカーブ続いてます。運転には気をつけてください。
昔は沼に囲まれた半島みたいな所にあった城みたい。で縦長に城跡がありますね。
本丸、二ノ丸の土塁、浅いけど掘も良く残ってます。
多良崎城の裏の顔は県内有数の心霊スポットらしいです。
たしかに鳥一匹鳴いてない不気味さは感じましたかね。
案内看板の色も赤とか怖っ。
2017年07月25日
多良崎城
城跡への道は、急カーブの上、荒れ果てた印象。
案内板のある手前辺りに、車を置けます。
良好に整備され、遺構の保存状況もいい状態です。
2016年10月19日 まー刑部卿
多良崎城
ひたち海浜公園側から行くと県道247号線から国道245号線を横断すると県道31号線となる。しばらくすると右側に『勝田ゴルフ倶楽部入口』が見えるので右折すると急カーブの連続後、左手に『多良崎城跡』の石碑が見えます。説明板の看板は落ちて石碑裏にあります。駐車場はないため石碑前に一台、石碑から更に進むと水の手口の前に一台駐車出来ます。空堀や土塁が残っています。また三郭以外(一の木戸・二の木戸・水の手・大手門・本郭・屋形跡・二の郭・のろし台)は看板がある。二の郭と三郭の空堀はよく残っています。
2010年06月20日 半日皇帝下野守
多良崎城
ゴルフ場のすぐ西にある道をしばらく進んでいくと、石碑と看板があります。道は急カーブが続くので、車での行軍時はご注意を
市営高野墓地付近の大字足崎にこの時代の城館跡である「多良崎城跡」が所在している。
現在では水田を見下ろす台地上に位置しているが、もとは真崎浦と呼ばれた沼地が広がっており、天然の要害として適した地であったと考えられている。近年の研究によると、この城は鎌倉時代末期に、常陸大掾氏一族である吉田里幹の後裔が築城したとされているが、南北朝の騒乱で南朝方についた常陸大掾氏一族は没落してしまい、その後には北朝方についた那珂氏系の足立氏が多良崎郷の地頭となったようで、騒乱の内に支配者が入れ替わるなど争いの激しさが伺える。
また、足立氏については南北朝の騒乱が記録された『太平記』によると、足利尊氏の重臣である高師泰の軍に加わり勇猛な家臣として評価されていたようだ。
多良崎城跡は数百年経った現在でも残存状態がよく、虎口(入り口)、本曲輪、土塁、掘切、二の曲輪、三の曲輪、木戸跡、隅櫓跡などがほぼ完全な姿で残っており、当時の築城様式を知る上で重要な城跡であるため、昭和50年に市の史跡に指定を受けた。