石神城(いしがみじょう)
石神城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 茨城県那珂郡東海村大字石神内宿字本城(石神城址公園)
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 小野崎通老
築城年
- 延徳2年(1490)
主な改修者
- -
主な城主
- 石神(小野崎)氏
廃城年
- 慶長7年(1602)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 村史跡(石神城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
額田城(茨城県那珂市)[5.0km]
多良崎城(茨城県ひたちなか市)[5.6km]
南酒出城(茨城県那珂市)[7.5km]
太田城(茨城県常陸太田市)[8.8km]
久米城(茨城県常陸太田市)[11.3km]
瓜連城(茨城県那珂市)[11.5km]
武田氏館(茨城県ひたちなか市)[12.5km]
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水戸城(茨城県水戸市)[15.0km]
武熊城(茨城県水戸市)[15.1km]
石神城の解説文
石神城の口コミ情報
2024年04月25日 RED副将軍
石神城
周囲を大規模な空堀が巡る石神氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
1490年に小野崎通老により築かれたとされます。
1489年に伊達氏・葦名氏・白河結城氏が佐竹氏の常陸太田城へ侵攻。佐竹氏重臣の小野崎通綱は、主君の佐竹義治の身代わりとなり奮戦し討死したとされ、この功により子の小野崎通老は石神を拝領。石神城を築いて石神氏を称しました。
1535年には、石神通長が佐竹義篤に謀反を起こし、佐竹義篤は同族である額田城の額田盛通に鎮圧させたと云われます。
翌1536年にも額田城の額田就通と領地の境界争いとなり、額田氏に攻められ石神城は落城しました。
石神氏は没落しましたが、1558年頃に石神氏は帰城を許され、石神城を再建。
その後の石神氏は再度、佐竹氏に従い各地で転戦。
1584年、石神通信は佐竹義重に従い府中城の大掾氏を攻めるも討死しています。
1602年、石神通広は佐竹氏の秋田転封に従ったため石神城は廃城となりました。
見所
久慈川南岸の河岸段丘の北端に築かれています。
北東端から南西側に向かい遠見城、御城、二郭、三郭と連なり、御城が主郭とされます。
それぞれの郭は大規模な空堀により区切られています。
遠見城は物見かつ詰郭であったとされ、主郭側の高土塁は木橋で主郭と連結していた名残とされます。
主郭と二郭は土橋で繋がり、大規模な空堀とともに一番の見所です。
行き方は、北側麓に駐車場があり、石神城址公園として整備され遊歩道も付いています。
2023年06月18日 マグロ常陸介祐平
白方城[石神城 周辺城郭]
豊受皇大神宮が城址となります。平安末期から室町時代までこの地を治めた白方氏の館で、1305年と1389年に鹿島神宮の式年大祭で大使役を勤めたようです。
台地の先端に位置し、社殿の周囲を土塁が囲んでいますが、曲輪は狭く、元来神社のような感じです。
周辺は東海十二景・白方溜蛍影という景勝地になっていて散策が楽しめます。
2022年09月13日 里のシロクマ侍従
石神城
4年前に1度訪城、その時は遠見城は藪状態で入らず。台地の端部と久慈川を利用し作られた。台地続きの部分には、大きく深い堀と土塁で防御(これぞ佐竹)堀底に立つと小幡城を思い出します。行き方は住宅街の細い道に注意、民家の庭先に入って行くように進むので戸惑うかもしれません、駐車場は2カ所あり三の郭側の駐車場をお勧めします、遊歩道に標柱があります、外構えの土塁を過ぎ土橋から三の郭、三の郭から土橋を渡り実城へ、大土木工事に圧倒されます、トイレは実城側の駐車場に有ります。
2022年04月28日 つか征夷大将軍ぽ
住吉山長松院[石神城 寺社・史跡]
石神城城主の小野崎氏歴代のお墓や石神合戦の供養塔があります。
2021年12月03日 大膳大夫しろし
石神城
自然なカタチでの保存が素晴らしいです。公園化しすぎていないのがイイ。
2021年02月12日 副将軍お城エリコ
石神城
石神城址公園の駐車場から登り口が有りますが、Ⅲの虎口の土橋には大きな土塁と空堀に圧倒されました。ⅢとⅡの間の土橋と空堀にも感激です。遠見城、御城、Ⅲの曲輪全てに土塁と空堀に囲まれて素晴らしい城でした。
2020年08月10日 さーはる@ALL右京大夫
石神城
20数年振りに訪問。二の丸(Ⅲ郭)南西面の土塁(1mほど)がほぼ壊滅していることに驚きました。道路も付け替えられているようです。以前は農作業用の入口があり、中まで車で入れたものです。現在の入口は、二の丸西面の大手跡と思われる場所と、北側駐車場奥の所のみの様です。夏場の草刈りはされていない様でしたので、晩秋に再訪します。
2020年06月21日 みかも内匠助48世
石神城
本日拝見しました。綺麗に整備されています。一の曲輪はアプローチに苦労して流石に時期的に草だらけでしたが(笑)。堀も虎口も見事に残っておりとても良い所です。
2019年05月02日 真田「安房守」家康
石神城
郭の周りを空堀がぐるりと…
一見三日月堀にも見えます。
見応えあり‼️
2018年11月22日 【籠城中】下野守智ぞう
石神城
2018,11,21行きました!
一の郭、二の郭、三の郭、整備されてて土塁なども良好な状態でみられ、
これらをとりまく掘も深く素晴らしいです。一見の価値あり!
前に郭内に置いてあった放射性物質も完全にかたずけられており、その心配もいらないでしょう!
たぶん、茨城県指折りの状態良い城だと思いますよ!
お食事処ある、ひたち南ドライブインも5キロくらいの所にあり、城ハシゴするなら、10キロくらいの所の多良崎城もオススメです!
2017年05月08日
石神城
JR常磐線東海駅から徒歩25分くらい。これからの季節は、少し草深いかも。充分に見学可能なレベルだと思いますが。
茨城には素晴らしい城跡がたくさんありますが、その中でも、五指に入ると思います。
堀底を歩き回りたいなら、冬場をオススメします。
2014年02月02日 摩利支天
石神城
石神城址公園として整備され
駐車場やトイレも完備されてます。
遺構も状態良く残っていますが、
現在この場所は村で定めた
放射線量の基準値を超えているため
立ち入りは控えて下さいとの事。
計画的に除染を行ってるそうです。
ちなみに立入禁止ではありません。
位置
石神城は、標高19メートル、比高15メートルの台地端部に立地する。城の東側は、現在旧流路となっているが、久慈川が台地に向け大きく蛇行した部分にあたっており、要害の地形を一層強固なものにしていた。城の西側は広大な台地つづきとなっており、主たる防御施設も台地側を遮断することに向けられていた。歴史
城が作られた時期は諸説あるが、永享4年(1432)足利持氏感状に「常州石上城合戦」とあるため、この時期には築城されていたと思われる。『新編常陸国誌』によると、延徳2年(1490)頃に小野崎通老が石神の地に城を築き、石神氏とも称したとされている。天文15年(1546)頃、所領の境界をめぐってしばしば争いが起こっていた額田小野崎氏と石神小野崎氏の間で合戦になった。この結果石神小野崎氏は敗北し「石神没落」となり、石神小野崎氏は城から退去した。
しかしその後、佐竹氏への戦功により領地の維持と帰城が認められ、永禄1~3年(1558~60)にかけて石神外宿に3つの寺を建立し、石神城も再建され石神城鎮守として住吉明神が建立された。慶長7年(1602)佐竹義宣の秋田移封に従ってこの地を去り、石神城は廃城となった。
構造
中心の構造は、3つの郭からなっている。「遠見城」と呼ばれるⅠ郭、「御城」と称されるII郭、そしてII郭のさらに西側に連なるIII郭である。遠見城は、御城に対してより優位な曲輪として機能しており、遠見城は城内第一位の曲輪であった。御城は、中心の曲輪群のなかではもっとも大きな面積を示した。III郭は、石神城の主要部のなかでもっとも西側に位置した曲輪で、御城についで大きな面積を占めた。主要部の遺構の保存状況は、茨城県内の中世城館跡と比較してもっとも良好なものに属している。
変遷
石神城はすでに発掘調査が行われており、御城と呼ばれる中央の曲輪からは、ひときわ大きな竪穴建物が発見された。しかし、長期間生活した様子はなく、戦いの際に人々が臨時的に避難したものと考えられる。つまり石神小野崎氏は戦いの際、地域の人々とともに城にこもったと推測できる。しかし、城の性格は戦国時代の終りごろに大きく変わり、現在見られるように堀や土塁を大きく改修し、軍事性を大幅に高めている。石神城は地域住民との共同の逃げ城から、領主の城へと性格を変えたのである。参考文献
・齋藤慎一・向井一雄著『日本城郭史』(吉川弘文館,2016)・千田嘉博「住民の城から領主の城へ-石神城の縄張りを読む」『常陸国石神城とその時代』(東海村教育委員会)2000年
・千田嘉博「石神城の謎を解く」『ふるさと歴訪』(東海村教育委員会)2009年
・高橋裕文「中世領主と石神氏」『常陸国石神城とその時代』(東海村教育委員会)2000年
・星龍星「石神城そぞろ歩き-発掘調査報告書の成果を参考に-」『常陸国石神城とその時代』(東海村教育委員会)2000年