助川城(すけがわじょう)
助川城の基本情報
通称・別名
- 助川海防城
所在地
- 茨城県日立市助川町5-10-4(助川城跡公園)
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 徳川斉昭
築城年
- 天保7年(1836)
主な改修者
- -
主な城主
- 山野辺氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、門跡
指定文化財
- 県史跡(助川海防城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
太田城(茨城県常陸太田市)[11.8km]
石神城(茨城県那珂郡)[13.3km]
山入城(茨城県常陸太田市)[14.4km]
久米城(茨城県常陸太田市)[14.8km]
額田城(茨城県那珂市)[15.6km]
松岡城(茨城県高萩市)[17.6km]
南酒出城(茨城県那珂市)[18.0km]
多良崎城(茨城県ひたちなか市)[18.7km]
瓜連城(茨城県那珂市)[19.4km]
那珂西城(茨城県東茨城郡)[25.5km]
助川城の解説文
[引用元:Wikipedia「助川城」の項目]
助川海防城(すけがわかいぼうじょう)は、常陸国多賀郡助川(介川)(現在の茨城県日立市助川町)に、江戸時代後期に築かれた日本の城である。
常陸沖に異国船が頻繁に出没したことから、海防目的に築城されたが、天狗党の乱の戦場となり焼失した。
城跡は茨城県指定史跡、茨城百景となっている。
築城の経緯
文化13年(1816年)徳川斉脩が水戸藩8代藩主に付いた頃から、常陸沖にイギリスの捕鯨船など異国船が頻繁に現れるようになり、海防配備が行われた。文政12年(1829年)に徳川斉昭が9代藩主に就くとさらに強化が図られ、天保3年(1832年)に海防係を設け、山野辺義観に海防御用係を命じた。さらに天保7年(1836年)に助川に城を築き義観に1万石を与え海防総司に任じ居城させることとした。本来一国一城令により新たに城を築くことは禁じられていたため、佐竹時代の古城、蓼沼館の修築として幕府に願い出て建造が認められた[1]。天保の大飢饉などの影響により工事は遅延したが、同年12月に義観は家臣247名を従えて入城した。築城工事は天保12年(1841年)までかかった。普請金は4000両[2]。
天狗党の乱と落城
元治元年(1864年)4月、水戸藩の支藩である宍戸藩第8代藩主松平頼徳は水戸藩第10代藩主徳川慶篤の命を受け、水戸表の騒乱の制圧に乗り出した際に、心ならずも尊王攘夷派の天狗党(筑波勢)と合流することになった。幕府は同年6月に筑波勢追悼令を発出、頼徳らは那珂湊(現在の茨城県ひたちなか市)で佐幕派の諸生党と交戦になり、同年8月助川海防城第3代城主山野辺義芸に来援状を送った。義芸はこれを受けて水戸へ進軍したが、諸生党に水戸城入城を拒まれ助川海防城に戻った。諸生党から報告を受けた幕府は、助川海防城へ討伐軍を送り、山野辺軍は応戦したが、同年9月に義芸は幕府軍に投降した[3]。城に残った残党が抵抗を続けたが、最後には城に火を放って逃走し、助川海防城は築城後わずか28年で灰燼に帰した[4]。
歴代城主
累代 人名 在位期間 備考 1 山野辺義観 天保7年 - 弘化2年(西暦換算:1836年 - 1845年) 斉昭と連座で譴責を受け隠居 2 山野辺義正 弘化2年 - 嘉永2年(西暦換算:1845年 - 1849年) 3 山野辺義芸 嘉永2年 - 元治元年(西暦換算:1849年 - 1864年) 天狗党の乱で家名断絶 城郭
多賀郡助川の大平山の古城跡に建てられた。本丸の標高約110m、海岸までの直線距離約2kmであり海防を指揮するに好適地であった。軍奉行山国喜八郎が設計監督に当たり、幕府に進達した設計書に記された建造物は、屋敷構、土蔵、穀蔵、長屋、表門、居宅入口門、柵門(裏口)、武器庫2棟、二階付遠見番所、居宅二階付物見、柵矢来[5]。更に、義観が養正館、鉄砲教練場などを設けて城郭として整えた。なお、ほとんどが天狗党の乱で失われてしまい、遺構として現存しているのは本丸表門の礎石と鳩石のみである。現在、本丸跡は城跡公園等、二の丸跡は日立市鳩が丘さくら福祉センター等、三の丸跡は日立総合病院、日立市立助川小学校等になっている。
養正館
天保8年(1837年)に、水戸の藩校弘道館に先立ち、家臣の子弟の教育のために開設された。館名は正道を修め養う意味で中国の易経に由来する。文武両道を教授したが、海防城の性質上特に武技に重点が置かれた。
現地状況
- 所在地
- 茨城県日立市助川町
- 交通アクセス
- JR東日本常磐線「日立駅」より茨城交通日立オフィスバス城南台行きで「鳩ヶ丘」下車。
- 常磐自動車道日立中央インターチェンジより10分
- 一般公開状況
- 助川城跡公園は無料で立ち入りができる。
参考文献
- 日立市史(日立市)
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助川城の口コミ情報
2023年08月11日 マグロ常陸介祐平
大窪城[助川城 周辺城郭]
奥州石川氏の子孫大窪氏が、佐竹氏の家臣として八代200年間この地を治め、16世紀の戦国期に築かれたお城です。大窪久光は関ヶ原の戦い後、佐竹氏の秋田国替えに反対して車斯忠と水戸城奪還を謀ったが失敗し処刑されたようです。
本郭は土塁に囲まれ、西側には7mの深さがある空堀が残ります。大変な土木量を感じるお城です。
本郭には、庶民も学ぶことが出来る水戸藩の郷校、暇修館が復元されており、初代館守は大窪氏の子孫の大窪光茂が就任しています。
詳しい解説は、先人様がこのお城と一体となっている愛宕山城・天神山城と三城の口コミを投稿されています。
2023年06月18日 マグロ常陸介祐平
助川城
水戸藩が江戸時代後期に海防の為、古城跡に築いた城で、天狗党の乱の為に築城後僅か28年で廃城になったようです。主郭周辺のが城址公園となっており、復元された石垣や曲輪群を見ることができます。
城主で水戸藩家老の山野辺氏(水戸黄門の第1話によく登場)は最上義光の子孫で石高1万石でしたが、落城謹慎のためか男爵にはなれなかったようです。墓は日立中央インターそばの東平山にあります。
2022年08月22日 水天一碧
相馬碑[助川城 碑・説明板]
相馬碑は永禄五年(1562年)八月、孫沢原の合戦で、相馬中村(福島県)の城主相馬盛胤が、佐武義昭の軍勢に敗れて戦死した相馬将士の供養碑であると伝えられています。江戸時代には街道(今の旧国道)の桜川沿いに建立されていましたが、道路改良などで2度ほど移動し、その後、昭和五十一年十二月二十七日にこの地に移設しました。表には、「金剛界五仏種子梵字」の五文字が彫刻されていましたが、現在では風化して明らかではありません。(中略)江戸時代には、相馬藩主が碑の傍らに彼岸桜を植え、参勤交代のためにこの地を通るときは懇ろに拝礼したと伝えられています。その折に「春くれば彼岸花は咲きにけり身のあわれさは孫沢にあり」と詠まれたとも伝えられています。(案内板より)
日立市の指定文化財でB級スポットじゃない!と思いましたが資料読んでくと疑問だらけになります。
要するに、佐竹領に攻め入って敗れた相馬氏側の戦死者の供養碑であり、参勤交代でこの碑の前を通る相馬藩主も懇ろに拝礼してきた…というのがこの案内板に書いてある事です。
でも、南奥や常陸の歴史を少しでもかじった方ならきっと不思議に思うはず。
「岩城領を抜けて相馬が攻めて来る?そんなに佐竹領欲しいか?」
山入の乱で弱体化した頃に奥州連合軍に攻め込まれますが合戦のあった場所はまた違うし、孫澤合戦自体もあったのか疑問…資料を見てもなんだか伝承がごちゃごちゃしてます💦
史料を雰囲気掴んだ超訳で2つだけご紹介🤣
①新編常陸国誌
『相馬氏が佐竹領に攻め入り、この孫澤原で合戦があったけど、奇策を用いた佐竹氏の勝利だった。これは敗れた相馬のお殿様の墓碑。でも、相馬氏の歴代の当主で常陸で戦死した人はいないし、多分、相馬氏一族で亡くなった誰かだったのかも。今も相馬氏はここを通る時に拝礼していくよ』
②水府史料
『往還道の東宿のはしっこにある。梵字しか書いてないから何の碑だかわからん。すっごく昔に相馬氏の名馬が亡くなってその埋葬地って伝わるけど』
他の資料にもやはり相馬氏にまつわるものとして記されています。相馬氏に関わる何かの碑である確率は高そう…かな…😂
常陸を出なくても会いに行ける(多分)相馬氏ゆかりの史跡です😊
2022年05月09日 水天一碧
天神山城[助川城 周辺城郭]
大久保三城のうち一番推せる横堀の城、天神山城です。既に出している大窪城と愛宕山城もご覧ください。
三城ともみんな違ってみんないい!って感じなんですけど、佐竹の城といったらやっぱり綺麗な横堀だと思います。この城の深くて綺麗な長い横堀はオススメです。
日立市に来たらここは絶対に外さないでほしいです。
天神山城の行き方です。
正伝寺を目指してください。駐車場がないです。軽自動車なら、もしかしたら正伝寺の墓地の駐車場(ロープで入れないようにしてありましたが)付近まで上がれるかも。でも軽自動車でもちょっと回すのは大変かも💦駐車場は大窪城のある暇修館がいいと思います。そこから歩きましょう。大久保三城は地図で見るよりも距離がめちゃくちゃ近いです。
①墓地を抜けたら土橋から入る。
②土橋から見る横堀。常陸の城はクソ藪ばかり。そう言われる皆さんの期待に応える1枚。でもこれはまだ輪郭がわかる。横矢かけた堀なのがわかります…よね?🤣
③〜⑥横堀の総延長は500mぐらいはあるそうで。もうちょっと長いような気もしました。いろんな位置から横堀を撮りました。堀底を歩く為の城です。
⑦土橋が綺麗。
⑧城内に入る前。正面の左寄りに大窪城が見えます。海も見えるし、風がある日はすごく爽やかです。
※横堀写真を口コミとは別に更に出します。そちらも見てください。きっと堀底を歩きたくなるはずです。
2022年05月07日 水天一碧
愛宕山城[助川城 周辺城郭]
大久保三城といわれるお城の一つです。大窪城が平時の居館、天神山城が詰め城、愛宕山城は砦ではないかと言われています。城主であった大窪氏については、既に出している大窪城の口コミをご覧ください。天神山城も出してありますから見てください。
駐車場がないので、大窪城のある暇修館を利用して歩ってくるのが無難です。大した距離ではありません。
①水道施設から道を歩いてきたら、この分岐を右に行きましょう。
②虎口。立派なやつがありました。
③ 土壇。郭内にいくつも点在。写真にならないけど、土壇の周りは堀がついていた感じ。郭内はあんまり平坦にはならされておらず、堀の感じはちょっと辿りにくかったです…
④二郭と三郭を隔てる堀。
これは、田渡城のクランクするあの堀の拡大版って言えば、行ってる人にはこの堀のヤバさが伝わるでしょうか。行ってない方には、田渡城にぜひ行っていただきたいですね。
⑤④の堀に下りてみた。普通にステキな堀です。常陸に来てもらったら、これぐらいはいつも見せたい。
⑥土橋。
⑦からの、竪堀。
⑧三郭東の堀。
2022年05月05日 水天一碧
大窪城[助川城 周辺城郭]
いわゆる大久保三城のうち、秒でキュン死、竹藪の堀にハズレなしの大窪城をご紹介。天神山城と愛宕山城も出していますから、併せてご覧くださいませ。
北から攻められた時に常陸太田城への重要な防衛ラインにある城です。めちゃくちゃよく掘ってます。佐竹氏の城、とにかく掘らせたら間違いない城をぜひお楽しみください。
日立市内のお城なら、大久保三城の他にも松岡城のリア攻めマップに入れてある山尾三城(櫛形城、友部城、山尾城)もぜひ見てみてください😄
大窪城への行き方です。
Googleマップは暇修館に設定してください。駐車場は、暇修館を利用しましたが、普通車寄せて3台ぐらいが限界かも。乗り合わせで来ると間違いないです。
天神山城と愛宕山城は駐車場がないから、ここから歩いたほうが無難です。この三城は本当に近いです。全部まとめて見てください。
①暇修館の裏の土橋から行きます。ここで誰でもいきなりキュン死。
②土塁も理想的。何回往復したことか🤣
③〜⑤竹藪の美しい薬研堀。お楽しみください。
⑥宅地に残る堀跡。撮影者立ち位置より宅地が低いのがわかります?堀跡はこれがまたでかかった!写真は宅地すぎて差し支えるからこれだけ出してますが、現地でぜひ確認してみて下さい😊
⑦暇修館の入口はここを左折。わかりにくいから気をつけて。
⑧暇修館。この建物の前に駐車できます。
以下、案内板より。
大窪城は治承元年(一一七七)平氏一族の大掾宗幹(だいじょうむねもと)が大窪郷の愛宕山に築いたのが始まりとされ、十四世紀ごろ奥州の石川冠者有光の十四世詮光(あきみつ)の三男茂光が、佐竹氏に仕えて初代大窪城主となりました。以後、大窪郷を支配すること八代二百年に及びました。
戦国時代の十六世紀頃、城は愛宕山・天神山に加えて現在の地へも造られ、地域支配と防衛の拠点となりました。今でも山頂から二重の壕跡(ほりあと、斜高四〜七m)や土塁跡(一〜二m)がその面影をとどめています。
暇修館は水戸藩の藩校で、天保十年(一八三九)に元の城郭の一部が藩に提供され、学問研修の施設として造られました。
水戸藩に設立された十五の藩校のうち五番目に古いもので、初代館守大窪光茂のもと、身分を分つことなく医学・剣術・弓術・射撃訓練などが行われました。
2022年03月29日 下野足軽
助川城
徳川斉昭公が 海上防衛のため築城した。弘道館の前駆でもある
2022年03月03日 つみえ
助川城
駐車場あり、城跡内には標柱、案内板が設置されトイレもありで気楽に見学できます。
2021年07月18日 十時下総守半睡
助川城
海防見晴からの太平洋の眺め最高!海風爽やか、暑さ感じさせず。駐車場有。
2021年04月03日 MY
助川城
小さいながらも公園として整備されていて、海防城の名の通り海が良く見えます。
2015年07月22日 太田大宰大弐道灌?!
助川城
国道6号線から入り、日立総合病院の方から助川城に行こうとすると、病院の駐車場待ちに巻き込まれます…ここはひたすら耐えましょう♪(笑)(^^)