山入城(やまいりじょう)

山入城の基本情報

通称・別名

国安城、高館

所在地

茨城県常陸太田市国安町

旧国名

常陸国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

西野温通

築城年

延元年間(1336〜1340)

主な改修者

主な城主

西野氏、山入氏

廃城年

遺構

曲輪、腰曲輪、櫓台、堀切、竪堀、土橋

指定文化財

市史跡(山入城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

久米城(茨城県常陸太田市)[5.5km]
太田城(茨城県常陸太田市)[7.0km]
瓜連城(茨城県那珂市)[10.9km]
額田城(茨城県那珂市)[13.0km]
南酒出城(茨城県那珂市)[13.4km]
野口城(茨城県常陸大宮市)[13.9km]
助川城(茨城県日立市)[14.4km]
石神城(茨城県那珂郡)[15.7km]
那珂西城(茨城県東茨城郡)[16.9km]
月居城(茨城県久慈郡)[18.8km]

山入城の口コミ情報

2026年03月26日 里のシロクマ木工頭
山入城



3月23日訪城 昨年6月に縄張り図作成の為訪城来たが下草、倒木、藪の為断念。今回こそ縄張り図作成の為リベンジとして訪城。

まず西曲輪群の案内板のある駐車スペースに駐車、1台の車が止まっており年配の方2名がちょうど日吉神社方向へ歩いて行くところでした。

駐車場下の南東曲輪群の輪郭を見ておこうと来た道を戻り道路沿いに、説明板にあった「本城跡」を見てまわるも畑に転用された跡にしか見えない。駐車場に戻り、説明板にあった西曲輪跡を左手の山道を進む。

この城の見どころのひとつの土橋のある堀切にでる、土橋の向こうは山道が左右に分かれるが、先ずは右手の山道で「詰めの城」の主郭へ進む、左手にいくつかの段曲輪が続くが藪に覆われている。程なく主郭が見えてきた。昨年は下草に覆われていて櫓台に登るしか出来なかったが今回は郭の隅まで輪郭が掴め地図に落とし込む事ができた。櫓台の裏側に進み、斜面の下の堀切に降りる、足場が悪く登るのは大変だな!
と思う。降りた後、北に続く尾根を進むとかなり埋まってしまった堀切にでる。そのまま尾根を進むと尾根の方向が西側に向かう小さなスペースになる、東曲輪へ降る分岐点になっている、過去この場所が分からず尾根道を彷徨った場所だ!今回は尾根道を進み北端と思われる堀切へ進む、堀切の先は急な降り道となっている。

主郭へ戻り西曲輪へ降りる。土橋のある堀切の分岐を西尾根へ進むが途中から道が消える、崩れやすい足場、枝を掴み、枝をかき分け進むと半ば埋まってしまった西尾根の堀切に出る、西尾根を降り曲輪の先に二つ目の堀切を確認するがその下は藪となっている。西尾根の遺構を地図に落とし込みこの後は東曲輪群へ向かう。

駐車場所に戻り日吉神社への道を進む。要害山の山裾をトラバースする様に道は幾分か下る。要害山山頂と東尾根との鞍部に行き着く。昨年はこのまま段曲輪へ進み下草や枝、倒木に悩まされ力尽きた所だ!

今回は東曲輪の主郭へまず登ってみる、思っていた程藪になっておらず踏み込まれた山道が上に続く、主郭は適度な広さがあり周囲はきちんと切岸になっている、主郭を降り山道はさらに東へ続き広く削平された曲輪となり東側は一段高くなっている。南側を見下ろすと木々の間に段になった帯曲輪が見える、尾根道を進むと東曲輪最初の堀切に出た、この堀切はしっかりと作られていて堀切の向こう側に何故か斜めになった幅も高さもある土塁がある、この尾根は南側に折れ、先に進む程細くなってくる、この先には尾根を断ち切る様に二つ目の堀切があり、まだその先に三つ目の半ば埋まってしまった堀切がある、尾根を進むと見覚えのある小さな岩山が見える、岩場を利用した二重堀切となる、その先に日吉神社の屋根が見える、岩場を慎重に降り日吉神社に参拝する。日吉神社の下にはいくつかの曲輪が続くが時間切れと体力切れ、これまでの道程を地図に落とし込み終了とする。今回の東曲輪群は主郭から尾根道を使う事で城巡りが出来た。城跡巡りは、やっぱり山城がいいですね❣️

2026年03月21日 くろちび上野介
武生城へのルート(階段)[山入城  関連施設]



武生城は佐竹氏の本城がある常陸太田から10キロ。佐竹氏9代貞義の子義篤と義春が布陣していました。同じく本城から10キロの西金砂城には貞義が布陣しており、互いに連絡を取り合って瓜連城攻略のための軍略を練ったそうです。
南北朝建武3年1336年2月に瓜連城攻撃が始まり、貞義の子義冬が戦死しますが、12月に瓜連城は落城します。
瓜連城は後醍醐天皇率いる南朝の楠木正家が陸奥支配の為に築城した城。佐竹氏が本領とした奥7郡(今の日立市、高萩市、北茨城市、常陸太田市、大子町、那珂市、常陸大宮市、ひたちなか市、水戸市)の那珂市にあり、佐竹氏にとってこの城を落とすことが避けて通れない課題でした。
現在武生城へ行く武生林道-奥久慈グリーンラインは道路改良工事が進められていて、武生城への道路は立ち入り禁止になっています。また、竜神大橋への登り坂途中に城に入る階段があるのですが、城の中への立ち入りも禁止になっています。
竜神大橋を渡った対岸の山が城のある武生山です。その奥に本丸など主要な遺構があるようです。
武生山を縦走した山レコを見ると、竜神ふるさと村から尾根伝いに山頂上-本丸へ行かれたようですが、痩せ尾根で、山の周囲を見てもわかるようにかなり垂直に近い断崖を歩くようです。現在ふるさと村は閉鎖中、ロープが張られていて、周囲も荒れています。

2026年03月20日 ドラねこ勘解由長官少納言
武生城へのルート(階段)[山入城  関連施設]

武生城への入口となる階段があります。2026年3月20日現在、工事による立ち入り禁止の看板があり、奥へは行けません。

2026年03月17日 くろちび上野介
金砂山城[山入城  周辺城郭]



金砂城が関わった戦いは3回あったそうです。①頼朝と佐竹氏の戦い②南北朝時代の瓜連城を舞台とした楠木正家と佐竹貞義との戦い③1407年に始まる佐竹家相続問題を発端とする宗家と庶家山入氏の紛争です。(山入一揆)

このうち、頼朝と佐竹氏との戦いは富士川の合戦(水鳥の羽音を聞いた平氏が戦わずに逃走した1180年10月18日の合戦)のすぐ後にありました。頼朝の重臣達は京都迄この勢いで攻めようとする頼朝に佐竹氏討伐の重要性を説いたと言われています。300騎の兵で戦って敗れた8月の石橋の戦いの後安房に逃れた頼朝が(上総の)上総の介広常、下総の千葉常胤を主とする20万の東国武士を従えて鎌倉に戻ったそのタイミングで関東を制圧すべき、そのためには常陸で勢力をもち、同じ源氏の血筋の佐竹氏を排したほうが得策と考えたと思われます。11月14日頼朝軍は西金砂山山麓に布陣しました。

佐竹氏ですが、京都に出仕していた二代目隆義が清盛から厚い信任を受けており、後白河法王から頼朝追悼の院宣を受けて、兄忠義(子がいなかったので家督を譲っている)に出兵の指令を送っています。国元では家中の意見が分かれ、隆義嫡男義政は頼朝に恭順、弟秀義は交戦を決めます。(佐竹家に上総の介広常が説得に出向いています。)

頼朝と佐竹氏は源頼義を祖とし、頼朝は頼義-義家~頼朝、佐竹氏は頼義-義光-義業-初代佐竹昌義と続く同じ源氏の家系。
佐竹氏が常陸に来たのが義業のときで、義家から源氏代々の馬の飼料地-馬飼地であった太田郷(奥久慈七郡)を譲り受け土着しています。京都から常陸介として常陸に戻った昌義は今の佐竹郷にある天神城(馬坂城)を大掾致幹、清幹親子(昌義の妻は清幹娘)の援軍を得て落とし、ここを居城とします。この戦いのとき戦勝祈願をしたのが金砂権現で、以降金砂社は佐竹氏の守りの社(開運)となり、後年(慶長7年1602年)佐竹義宣が秋田移封になったとき秋田に遷座しています。天神城攻略後、太田城城主太田通成(後の小野崎氏)が城を明け渡したので、隆義が移り住み、防衛拠点として金砂山の金砂神社に城を置きました。

頼朝に恭順を決めた義政は太田通経他39人の家臣を連れ常陸国府(石岡)にいた頼朝に平服、非武装で会見に行きますが、国府手前の大谷橋で広常の兵に矢を射かけられ、義政他多くがその場で死亡。現在国道355線新大谷橋(小美玉市大谷)に義政の首塚があります。生き残った3名は傷を負いながら金砂城迄逃げ秀義に状況を伝えています。

金砂山は標高412m。頼朝側にとって城を容易に落とせない状況が続いた2日目、頼朝の重臣(その一人が湯河原の土肥城城主土肥実平、石橋の戦いで頼朝を土肥城にある窟-しとどの窟に匿い、安房迄逃走の手配をしています)が秀義の叔父義季(過去に賄賂で問題を起こしている)を懐柔、道を知る義季の手引きで城に兵を率入れることに成功し、金砂城落城。義季へ与えられた口約束は秀義を討ち、恭順すれば佐竹家所領を全て与える、というものでした。
義季はこの後、放浪の末捕まり幽閉されたそうです。

秀義(21才)は花園山満願寺(花園渓谷)に逃げたところを上総の介広常に探しだされますが、秀義家臣野内為和(袋田の滝がある袋田の地を褒賞でもらっています)に救われます。秀義は1189年頼朝の陸奥藤原泰衞討伐(奥州合戦)に頼朝の臣下として戦い、晩年は義光の居住地であった鎌倉市名越に住み、そこで亡くなります。(大町大宝寺。最近期間限定で公開された大町釈迦堂の近く)秀義の次男は南酒出氏(南酒出城-那賀川市)を名乗り、三男は北酒出氏(北酒出城)を名乗っています。

金砂城へは車で二つのルートがあります。金砂村(上宮内町)-ポケットパーク経由は対向車が来るのが怖いつづら折れ道です。
赤土町にある西金砂蕎麦の郷、大藪集落経由は片側一車線か、一車線でもやや広目なので安心して行かれると思います。
神社の前の段丘が本丸跡です。
トイレ、広い駐車スペースがあります。
ホームページ(広報ひたちおおた)でハイキングコースをみたのですが、西砂湯けむりの郷から不動滝、馬頭観音経由で12キロ、4時間30分。もっと早く行かれる道があるような気がするのですが。
(戦国佐竹氏研究の最前線山川出版、金砂戦国史ふるさと文庫、日本史蹟大系第4巻平凡社)


3枚目の写真は神社前にある本丸。
6枚目の大木は樹齢700年ということなので、ちょうど南北朝時代、瓜連城の戦いが起こった頃には幼木として既に立っていたかもしれない、と思いました。

2025年06月09日 里のシロクマ木工頭
山入城



今回3度目の訪城。1度目は、東尾根の曲輪を目指すも東尾根の入り口が分からず40分程作業道を彷徨い断念、2度目は主郭北の大堀切りを過ぎ、用心深くすすみ、直ぐの急坂を下り東尾根の曲輪に到着、日吉神社に参拝し東曲輪入り口まで確認してして終了。東曲輪の主郭下から整地された歩道を駐車場所まで戻る。

今回は、リア攻めと縄張り図作成の為訪城、しかし、下草が生え各曲輪の確認もままならず取り敢えず東曲輪へ進むも、薮、ヤブ、薮と倒木ありで東曲輪主郭下にて力尽き断念。やっぱり山城のシーズンは、冬だなと実感、二つの尾根を上手く使った縄張り図の作成の為冬に再訪しようと思います。

2025年04月02日 気分爽快弾正少弼
山入城



山頂近くまで車で行くことができます。中曲輪跡から本郭までの間に、いくつか郭があるものの藪であまりよくわからなかったです。

本郭北に大きな堀切がありますので、見落としのないように。

①想定図にある西曲輪跡
②①北にある竪堀と土橋を北側から
③本郭手前
④本郭と奥の櫓台
⑤櫓台北の堀切
⑥⑤北の堀切
⑦北端にも大きな堀切
⑧西側の尾根にある堀切

2024年10月28日 昌幸近江守更に吉
利員天満宮砦[山入城  周辺城郭]



利員(としかず)天満宮砦は、沢向かいの天神山から伸びる尾根に築かれました。本丸と同じ高さにあり、西からや背後からの変事を伝えることができます。現在麓には天満神社が建ち、その背後を登って行きます。

背丈程の笹薮の中をくぐったりして平坦部に出ると3〜4つの段郭が確認でき、最高部背後は天神山からの襲撃を阻止すべく、石で補強した堀切があります。

【写真の説明】
①天満神社
②天満神社社殿
③段になっている郭の切岸
④最高部背後の堀切
⑤堀切を反対側から。石が積まれていた。
⑥石積みのアップ

2024年10月27日 昌幸近江守更に吉
利員城[山入城  周辺城郭]



常陸太田市の利員(としかず)城
久慈川支流浅川左岸の標高約130mの台地に築かれました。
城主ははっきりと分かっていませんが、1400年頃から関ケ原合戦後の佐竹氏出羽移封までの200年の間に、川井氏、山縣氏、石突氏、前沢氏の名前が出てきます。

縄張りは主郭周りに多くの郭を配し、主郭背後には二重堀切を設けています。そして何といってもこの城の特徴は“外城”“ウリクレ”という広い削平地が主郭の前後にあることです。兵士の駐留や農民の避難場所に使われていたのでしょう。また沢向かいの天満神社裏には出城と思われる遺構が発見されており、城域は非常に広範囲です。

車は麓のごみステーションに説明板があり、3〜4台は停められそうです。
2022年、利員城保存会が発足し整備を行なって下さっています。新たに人前に出た佐竹の城を楽しまれてはいかがでしょうか?

【写真の説明】
①駐車場前の三階堂溜池。城の水堀跡とも言われる。
②城内は段郭がたくさん。写真は外城付近のもの。
③主郭をすぐ下の郭から見る。
④主郭東側の尾根には竪堀が見られる。
⑤主郭背後二重堀切の一条。これは強烈。
⑥二重堀切のもう一条。こちらはおとなしめ。
⑦ウリクレ手前にも浅くなった堀切がある。
⑧ウリクレの人為的に敷かれた感のある石。ここから先は尾根となり城域端を示すのかも。

2023年03月09日 昌幸近江守更に吉
南大門城[山入城  周辺城郭]



北大門城の出城だった南大門(みなみおおかど)城。助川氏庶流の根元氏が築いたとされます。単郭の城で急斜面の東側を除く三方に堀をめぐらせています。南北に土橋があり、特に南側の土橋は竪堀も合わさり技巧的です。

麓に下大門二町集会所があり車を停めることができます(20台くらい)そこから5分です。杖もあります。北大門城とセットで楽しんでください。

【写真の説明】
①主郭は土塁で囲まれる
②〜⑤主郭周囲にめぐらされた堀
⑥北側土橋
⑦南側土橋
⑧南側土橋からの竪堀

2023年03月08日 昌幸近江守更に吉
北大門城[山入城  周辺城郭]



常陸太田市にある北大門(きたおおかど)城。築城は助川氏と伝えられます。山入の乱で助川氏は、はじめ山入側につきましたが、佐竹宗家側に鞍替えし、常陸太田城を追われていた佐竹義舜を保護したことがあります。

縄張りは、主郭に魚の鱗のようについた郭を配し、大手道は蛇行するように郭を通り常に攻撃に晒されます。主郭背後の尾根は2条の深い堀切を持っています。この堀切が見事ですので必ず見学することをおすすめします。

※車は下大門二町集会所に停めることができます(20台くらい)登城口に杖があります。20分前後で主郭に辿り着けます。

【写真の説明】
①②左右に配した郭
③大手口
④II郭下の堀切。岩盤を削っています。
⑤主郭土塁
⑥主郭背後の堀切1
⑦主郭背後尾根の切岸
⑧主郭背後の堀切2

2022年01月18日 大膳大夫しろし
山入城



そこそこの登山を覚悟しましたが城域の中ほどまで車で行けてしまうので楽ちんでした。それと柚子の木がありましたが実を拾ってはいけない登山書いてあるので沢山落ちてました。

2021年01月06日 パジェロ
北大門城[山入城  周辺城郭]



北大門は、登山道が整備されているので登りやすく、逆に南大門は、落ち葉だらけで道が分からず大変でした。

2016年10月01日 まー兵部卿
山入城

先人の言われる通り県道29号から要害林道に入ると道幅が狭いが訪城者が居ないため問題ないが『山入城入口』の看板から急坂を車で登ろうとしてもタイヤに泥が付き滑ってしまい上がれず帰りは1カーブ分バックで下りると少し広い場所でUターンしました。城跡は山入城想定図のところが西曲輪跡でしばらく上り坂を進むと土橋と竪堀があり更に進むと本城跡があり説明板がある。この時季は草が生い茂り今朝までの雨で蜘蛛の巣だらけでした。

2016年07月18日 Nabeppu左馬頭
山入城

県道29号から『山入城入口』の緑色の看板あり、更に進むと『至山入城入り口』の茶色の看板あり、そこからつづら折りの山道を5分位登ると、緑色の看板に山入城入口が出て来ます。更に進むと、再現城郭図の案内板が出て来ますので、車はその辺りに駐車するといいでしょう。
まず、目の前が本城跡、左手に進むと詰城(要害山)です。途中、竪堀や小さな土橋が確認できます。

2015年11月03日 ゆみ右近衛少将
山入城

県道29号沿いに入り口看板有り

山入城の周辺スポット情報

 松平城(碑・説明板)

 北大門城(周辺城郭)

 金砂山城(周辺城郭)

 南大門城(周辺城郭)

 利員城(周辺城郭)

 利員天満宮砦(周辺城郭)

 棚谷城(周辺城郭)

 和田小屋城(周辺城郭)

 東染砦(周辺城郭)

 追野平館(周辺城郭)

 天下野館(周辺城郭)

 天下野前館(周辺城郭)

 並木館(周辺城郭)

 山口北館(周辺城郭)

 沢泉寺砦(周辺城郭)

 北出城(周辺城郭)

 東出城(周辺城郭)

 上利員三峰砦(周辺城郭)

 鳥井戸物見台(周辺城郭)

 赤土館(周辺城郭)

 鏡徳寺(上利員城?)(周辺城郭)

 御岩神社(寺社・史跡)

 利員城駐車場(駐車場)

 武生城へのルート(階段)(関連施設)

 案内板(その他)

 登城口(その他)

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