月居城(つきおれじょう)

月居城の基本情報

通称・別名

袋田城

所在地

茨城県久慈郡大子町袋田字月居

旧国名

常陸国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

袋田氏

築城年

応永年間(1394〜1428)

主な改修者

主な城主

袋田氏、山入氏、白河結城氏、石井氏・滑川氏・野内氏(佐竹氏家臣)

廃城年

慶長7年(1602)

遺構

曲輪

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

山入城(茨城県常陸太田市)[18.8km]
武茂城(栃木県那須郡)[21.0km]
羽黒山城(福島県東白川郡)[22.4km]
野口城(茨城県常陸大宮市)[23.8km]
久米城(茨城県常陸太田市)[24.2km]
神田城(栃木県那須郡)[24.8km]
烏山城(栃木県那須烏山市)[25.2km]
太田城(茨城県常陸太田市)[25.7km]
松岡城(茨城県高萩市)[26.8km]
助川城(茨城県日立市)[27.9km]

月居城の解説文



月居城(つきおれじょう)は、常陸国久慈郡大子村(茨城県久慈郡大子町袋田)に築かれた日本の城(山城)のひとつ。

築城は、応永年間(1394年 - 1425年)といわれ、領主であり常陸守護である佐竹氏の庶家・北酒出氏の分家にあたる袋田氏により築城された。別称を袋田城ともいう。後に袋田氏が佐竹氏一門の小田野氏を相続することになり、袋田氏はその血脈を伝えながら断絶、主なき月居城は一時廃城となった。

歴史・沿革 

月居城のあった依上保一帯は後に佐竹氏の分家・山入氏の勢力下に入るが、山入一揆の乱の混乱に乗じて陸奥国の国人・白河結城氏の侵攻により同地は奪われ40年もの長きにわたり、白河領として過ごした。その後、永正元年(1504年)に依上保は佐竹氏により奪還され、月居城は再び、佐竹領北方の要衝として再興、佐竹氏庶家の高柿氏らを在番衆として置いた。

その後、月居城は、鎌倉公方の主導権争いに巻き込まれ、佐竹氏の那須出兵に際しては、佐竹氏家臣の石井氏らが篭城して敵の侵攻を防いだ。その後、月居城は相川館にいた野内氏に与えられ、袋田・生瀬一帯の領有を認められ、佐竹氏の奥州攻略の軍役負担と前線基地の役割を果たした。

しかし、月居城は佐竹氏の秋田転封に伴い城主 野内氏もこれに随行したため、再び主を失った月居城は廃城となり、その後も一国一城令の施行もあって城として再建されることはなかった。なお、月居城主であった野内氏は秋田転封後に出羽国大館に移封されたが、主家に願い出て旧城の名である月居氏を称するようになったという。

その後、廃城となる。

考古資料 

遺構

廃城となった月居城址は曲輪の遺構のみ残る。

月居城の口コミ情報

2023年02月19日 疲れた人
町付向館[月居城  周辺城郭]



町付向館から町付城は丸見えのはずなんですが、春夏にはその写真が全く撮れなかったので、あらためて加えておきます。

なぜかほとんど写真を見かけないけど、町付城も町付向館も荒蒔城もとても良く、歴史も面白い城です。

大子地方(依上保)は、佐竹氏と白河結城氏の争いの地になります。あちこちの山に金山がたくさんあり、佐竹氏にとっては絶対に押さえたい地域です。佐竹氏は一時期、山入の乱で弱体化した時に白河結城氏にこの地を奪われましたが、乱の終結後、力を取り戻した佐竹氏が反転攻勢に出た…といった流れの中にある町付城と町付向館になります。

那須氏との境目にあたる常陸大宮市の美和地区や、岩城氏との境目にあたる北茨城市、どれも違った味付けの山城たちで、行けばきっとハマると思います。
今のところ、まだ大して見向きもされてないような気がしますが、いつか皆さんに大子町にある佐竹氏(と白河結城氏)の山城たちを楽しんでもらいたいと願って出します。

個人的に面白いなと思った城や昨年発見された城の一部(まだいくつもある…)は、月居城のリア攻めマップに入れてあります。参考にしてください😊

①町付城を見下ろす。城内がめちゃくちゃよく見えすぎてヤバい。佐竹からいつも見られてるなんて絶対に嫌です(笑)。佐竹の嫌がらせの城だと言われる理由がよくわかります。
②荒蒔城のある山も冬はばっちり見通せました。
③〜⑦冬の城内をあちこちから。

春先は春先で、青々とした下草が尾根道ではよく映えていました。そこだけは春先の状態が良かったですね😂

※佐竹の嫌がらせ説については、町付城や大草砦の口コミも良かったらご覧ください😊

2023年01月29日 疲れた人
大中寺山館[月居城  周辺城郭]



大中寺山館は2022年に見つかったお城です。

周辺には、佐竹氏の城館がいくつかありますが、こちらは避難用の城か物見といった感じかなあと思いました。既に口コミとは別に写真を出していますが、隣の山の尾根から、城に繋がる尾根は丸見えです(ちなみに、隣の尾根には特に何の遺構もなかったと聞いた…ような気がします)。戦う城ではないことは、尾根から尾根を見た写真を見ていただいたら、きっとわかってもらえる…こんなところに城を作るのかなって感じてもらえるんではないかと思います😂ただ、丸見えの北の尾根ですがそこからさらに先の山へと逃げていくことはできます。

全体的に城内の削平はユルいんですけど、南側にずっと連なる段曲輪は、仕事が細やかですごく綺麗でした。自分がまだ知らないだけだと思いますが、綺麗な段曲輪群って佐竹の城ではあんまり見かけないような気がします。土壇状になったピーク部らへんのユルい雰囲気とは違っていてびっくりしました。自分は春先に見に行きましたが、既にかなり藪がちだったため、その段曲輪の写真はないです。でも本当に綺麗でした。

こちらの場所は泉福寺の裏の山になりますが、泉福寺からの直登は藪漕ぎがかなり大変みたいです💦北側の尾根から堀切を超えていくルートが楽かもしれません。ただし、駐車する場所がないから遠くに駐めて歩いてくるのが無難です。

自分がリアした時は4月でした。城址遠景もつけておきます。常陸の里山ののどかな春の景色もお楽しみください😂

口コミとは別に写真を出しています。参考になれば嬉しいです。

2023年01月14日 疲れた人
町付向館[月居城  周辺城郭]

町付向館は白河結城氏の町付城と八溝川を挟んで向かい側にあるお城です。こちらも近年見つかったばかりのお城です。

白河結城氏の大子地方(依上保)の支配拠点とされるのがリア攻めマップに出している町付城です。この地域には、金山がたくさんあり、金山支配の拠点でもありました。八溝金山が有名ですが、大子町の山にはあちこちに金の採掘遺構があります。

町付向館は、白河結城氏が荒蒔城と共に、町付城防衛の為に用いた城、あるいはこの地域を奪還するべく、佐竹氏が白河結城氏の町付城の向かい側に威嚇するためにわざと築いた嫌がらせの城とも見られているようです。町付城の北の山には大草砦がありますから、挟み込んで、威嚇、威圧していたんではないかという嫌がらせ説ですね。(この嫌がらせ説については、町付城の北にある大草砦の口コミもみていただけたら)

この城の何が嫌がらせなのか?
それは、防衛とはまるで無関係にしか見えない主郭の下に連なる10段程ある帯曲輪です。まるで長く大きな階段みたいでした。幅はまちまちでしたが、佐竹にしては意外と仕事が細やかで、1番下から見上げると、傾斜も鋭くなかなか綺麗です。縄張図から想像するよりもかなり迫力があります。
この段曲輪に佐竹氏が旗を並べるとか町付城を威嚇して、血を流す事なく、城を奪取しようとしたんではないかと考えられています。町付城に本当に近くて、何だったら大声でお互いにdisり合えるんじゃないかなと思いました(笑)。おまけにこの城がある場所は、町付城を見下ろす位置にあり、町付城の内部は丸見えです。笑っちゃうぐらい、よく見えます。

北からも南からも、佐竹から見られて生活するとか絶対にいやですねー。町付城の城主だった白河結城氏の家臣、深谷氏に同情します。
佐竹に包囲された城であると知っていれば、今は畑と牧場になっている町付城のユルい雰囲気やのどかさも、なんだか不穏な景色に見えてくるんではないでしょうか。

佐竹気分で、白河結城氏の町付城をぜひ見下ろしてみてほしいです。こういうことをやってた佐竹氏、よく知らなかったけど、なんかちょっと面白いのかもって、少しでも思ってもらえたら本当に嬉しいです。

口コミとは別に写真を出しています。参考になればと思います。

2023年01月01日 疲れた人
大草砦[月居城  周辺城郭]

大子町には近年見つかったばかりのお城がとにかく沢山あります。

こちらもその一つ、大草砦です。

白河結城氏の大子地方(依上保)の支配拠点とされるのが先にリア攻めマップに出した町付城です。この地域には、金山がたくさんあり、金山支配の拠点でもありました。

その町付城を正面の山から威嚇する佐竹氏の城が、町付向館です。更に、町付城の後方の山にこの大草砦があります。南北の付城で町付城を威嚇して、戦う事なく、城を奪おうと意図したのではないかと考えられています。

血を流す事なく奪えるならそれが一番ですよね。でも、うまくはいきません。

町付城の城主だった白河結城氏の家臣の深谷氏は、山入の乱を鎮圧して北進してきた佐竹氏に一度は降りますが、また白河結城氏に寝返り、結局、佐竹氏に滅ぼされます。

常陸の城で、どこかの城に対して、威嚇や威圧、明確な嫌がらせの意図を持って、かなりの近距離で取り囲んでいる城というのは初めて見ました。嫌がらせというか、最早、町付向館にいたっては、その構造で、白河結城氏をバカにしているんじゃないかと思うぐらいです。

或いは…もしかしたら、町付向館も大草砦も、白河結城氏が町付城の防衛の為に荒蒔城とともに運用したのかもしれません🤔

どちらも考えられるんですが、そこは、谷沢要害などをご一緒したやべー方達が口を揃えて「町付向館も砦も佐竹の嫌がらせの城だ」と嬉しそうに話していたこと、あとは実際に歩いて見て来た遺構の土木っぷりで、嫌がらせ説を採用しています😂

そういうわけで、この大草砦は、佐竹気分で町付城を見下ろしたい、威嚇してやりたい、大子町の城の狼煙リレーについてじっくり検討してみたい…そんな方にすごくオススメです✨

口コミとは別に写真を出しています。写真をほとんど見かけないので、参考になれば嬉しいです。

2022年06月11日 疲れた人
嶋崎城主安定公・長子徳一丸終焉の地[月居城  碑・説明板]

こちらについては、新編常陸国誌に、「信濃(先人様口コミ参照。清水信濃守のこと)其怨恨アランコトヲ恐レ、石の小祠ヲ以テコレヲ祭ル」とあります。また、水府志料にも同様の記載があり、「其霊祟りをなすによりて、祠を建祭りたるとて、中域坪信濃屋敷といへるにあり」と記されています。

島崎城からはあまりに遠く離れたこの地で迎えた最期を思うと心から手を合わせてしまいます。近年、整備が沸騰している島崎氏の居城、島崎城は本当にいい城ですから、こちらもお訪ねを。

※佐竹氏による南方三十三館仕置で討たれた領主の祟りにまつわる話では、他にも、太田城から逃走した中居城の城主、中居秀幹を討ち取った増子氏が秀幹の怨霊に悩まされたと伝えられています。
逃走中に喉が渇いて、道端で水を飲んでいる秀幹を討ち取り、首級以外は沼に投げ捨てたそうです。(その沼は血で赤く染まったことから、血沼と呼ばれたそうです。現在はその場所はもうわからないようです)
怨霊に悩まされた増子氏は屋敷内に祠を建てて供養し、現在でもその供養は続いているそうです。

ちなみに、南方三十三館仕置きについては、お城とセットでご確認ください。中居城(についているリア攻めマップの城含む)など北浦の周りのお城についている口コミを見てください✨
そして、「なんかいいかも…」と思った城があったら、ぜひ見に来てください。

2022年05月31日 疲れた人
荒蒔城[月居城  周辺城郭]



近くにある町付城(月居城のリア攻めマップ参照)の要害性を懸念した荒蒔氏が築いたのがこの荒蒔城です。町付城からこちらに移ったとされています。町付城を見てもらうと、すごく広いけどちょっと防御的に不安になるのはわかる気がします。町付城の背後をこの城で守っていたんだと思われます。

先日、リア攻めマップに登録した後にいじってたらスポットまるごと消しました…。なんとなく、見覚えのある写真ばかりかもしれませんが、あらためてご覧ください🤣

①なんかもうこれ土橋でいいや🤣これすっごく良かった。いきなりこれで始まるとかたまらなかった。
②最初の堀切。写真だとイマイチ浮かび上がりませんが、現地ではくっきり。
③主郭背後の堀切。主郭の切岸は10mぐらい。切岸の迫力がすごいんだけど、それは現地でぜひ。
④⑤石積みが残る。土塁の補強かなと。
⑥祠はもう崩れている😢偉大な先人様方の写真では祠の辺りはお手入れされているように見受けられましたが…。麓から祠に行くための道があったのではないかと思うんですが、もう全っ然わかりません。
⑦南端の堀切。行くのが少し大変でした。主郭から意外と距離があったように感じました。
⑧だって…時々、山の中はこんな感じ。更に雨が降っていたので酷い泥沼も💦もう道も踏み跡も何もわかりません🤣でも、全部見るまでは絶対に帰りたくないので、色んなものをかきわけながら、郭の隅々まで見て納得しました。

行きたいかどうかは別ですが、夏に行くのも慣れていれば別に無理ではないと思います。
今の時点でこの状態なら冬はなかなかおいしくなるはずです。
冬に行くのが楽しみです。

周辺の町付城と町付向館と併せてすごくオススメです😊

2022年05月23日 疲れた人
町付城[月居城  周辺城郭]



町付城は、白河結城氏が佐竹氏の侵攻に備えて、家臣の深谷氏に築かせた城だそうです。山入の乱を鎮圧した佐竹氏が遂に反転攻勢に出て、取られたものを取り返し、それどころか潰しに来るわけです。佐竹に狙われたらヌルい城でいいはずがない。期待しちゃいますね、えっぐいやつを…🤤

でも、現況は畑です🤣
三郭には牛が放牧されていて、なんともほっこりいたします。現況が畑の城だから、ぱっと見はだだっ広いだけの平地なんですが、堀跡はよくわかります。かなり埋没、埋められてしまったとは思いますが、十分にキュンとくる萌えるサイズでした。石岡城で見て以来の畑のでっかい堀でした。でかすぎてちょっと笑っちゃいます。佐竹に狙われたことへの必死さの名残は感じます。

この城は南を八溝川、北を中郷川に囲まれた台地上にあり、立地も常陸じゃおなじみといった感じで、なかなかステキですが、結局、落城してしまいます。そして、佐竹氏の家臣の荒薪氏がこの城に入ります。

佐竹氏は、この城を落城させるにあたり、笑っちゃうような嫌がらせをこの城に仕掛けます。それが、八溝川を挟んだ対岸にある山城、町付向館です。町付向館も写真を出しています。良かったら見てください😊

①主郭は夏野菜の宝庫。
②中城は牛たちが守る。牛メインは消されそうだからこれで。近寄って来てかわいかった😂
③主郭と二郭の間の堀。ずどーんとでかく長いです。
④振り返って三郭と四郭間の堀。やたらぬかるんでいて深い💦
⑤④の続き。森の中に入ればよくわかる。綺麗な堀です。いいサイズ感。
⑥虎口ははっきり残る。すっごくイケてます。ほら、隅々まで歩けば、畑だからってバカにできないでしょう?😊
⑦県道は堀跡。向こう側も城域だったとしたらでかすぎるけど…?
⑧正面の山は町付向館。

冬に来たらもっとすっきり色々なものがよく見えると思います。また、冬に来るのが楽しみです🤤

2022年05月17日 疲れた人
佐貫要害[月居城  周辺城郭]



佐貫要害は、城の来歴は不詳ですが街道監視と街道管理をした砦とされています。近くにある佐貫館に伝達するための城だったのではないかと見られています。また尾根伝いに山を行くことで八溝山方面に通じていたのだろうとされています。近くには金の採掘遺構がありますから、なかなか大事な街道監視の城だろうなと思いました。

さはら小学校前から、県道159号線を上野宮方面に北上すると、左手に逆木神社が見えて来ます。左側の山をよく見ていればすぐにわかります(写真①)。その神社の裏山が佐貫要害です。

②三重の土塁がつくオシャレ虎口。小さめなんですけど…。まっったく写真になってませんが、縄張図からは想像できない、えっ?て思うような高いデザイン性です。動線マニアを殺す動線でした。
③オシャレ虎口らへんの土橋。何がイケてるか伝わらないんですが、これはもう見に来てもらうしかないです。ほんっとに出だしからクライマックスでしたね。
④⑤さらに奥にある堀切と土橋。
⑥⑦さらに奥にある古道。もう毎度おなじみ。いつもの安心と信頼の堀底道です。写真で見ても、入ってみても、堀底ってなんでこんなに安心するんでしょうか🤣
⑧佐貫館方面を逆木神社から見る。城はさらにもう少し上にあるんですが神社からの景色の方がわかりやすい。この写真では、佐貫館が見えてはいないんですが、すごく近いです(リア攻めマップ参照)。

2022年05月16日 疲れた人
佐貫館[月居城  周辺城郭]



佐貫館については、主郭にある城址碑がその歴史を教えてくれます😊以下、城址碑より。

佐貫城跡の碑
町島氏は藤原姓にて田原藤太秀郷公の末流なり
陸奥国仙台から下野国那須町島に来たりて水口城を築城 町島豊後守と称したり 
これ町島氏の中興の祖なり
明応三年(一四九四)大俵康清によって攻め滅ぼされしが一子三郎常陸国依上佐貫内に遁世 
後 幽崖山に佐貫城を築いて佐貫氏を名乗り岩城氏に仕えたり 
子孫相伝えしが築廃城の年代を詳にせず天正(一五七三〜一五九一)の頃 五代隼人の代 町島氏に復し佐竹義宣公の臣となる
その由来を石に刻んで佐貫城跡に建立し以って之を後毘に示す
益子孝治 選文

この城址碑の裏には、

昭和六十一年五月吉日
町島豊後守十九代
東京都世田谷区 町島和郎 建之

と、あります。

歴史を今に伝えてくれるありがたい城址碑。思わず、拝んでしまいました。また、麓には町島性の墓所がありました。おそらく子孫の方たちなんだろうと思いました。こちらも下山後にそっと手を合わせてしまいました。


肝心のお城なんですが、この公園の正面にある山に佐貫館があります。どこから登るのかよくわからないから、適当に直登しましたがしっかり城址碑に出られて嬉しかったです。リア攻めマップにつけたお城の位置は城址碑の位置なんで参考にしていただけたら😊

①②主郭にある城址碑。ありがたいです。
③主郭裏の堀切…これは…冬に出直して来るしかない😂一部、枝漕ぎ藪漕ぎができないと見れないところもあります。
④⑤四郭。自分的にはあまり見たことがない遺構。すごく綺麗だった。しばらく、眺めていました。写真じゃ作りの全体が入らなくて💦でも本当に綺麗でした。
⑥主郭東側の横堀。
⑦図説茨城の城郭3に書いてある東側のクレーター状の遺構。下草伸びすぎて全く伝わらないので土塁だけ。
⑧城址遠景。

四郭の不思議なデザインが綺麗で綺麗で…オススメです😊

2022年05月16日 疲れた人
佐貫堀の内館[月居城  周辺城郭]



この地域の字名は、「堀の内」になります。居館があったのではないかという疑惑の地です。疑惑で出していいのかわかりませんが、ダメだったら消されるかなと思い、とりあえず出してみます。散策にあたっては、素晴らしいサイト、『北緯36度付近の中世城郭』様を参考にいたしました😊

この辺り一帯の山にはまだリア攻めマップにまだ出してはいませんが、いくつか砦や要害があります。それらを統括、指揮していたのがこの居館なんじゃないか…とにかく怪しいというお話を聞いて見に行きました。

疑惑の地は、今は畑や茶畑なんですが、あちこちの畑の段差に見られる石積みは、まるで小里城(同じ月居城のリア攻めマップにあります)の石積みみたいでした。3枚目はさすがに最近のものだろ…と思いましたけど面白いので🤣石積みが見られるのは地区全体じゃなくこの辺り一帯だけです。また、畑の中にある段差が堀跡なんでしょうか。

石積みに関しては、この辺りは掘り返すととにかく石ばかり出てくるから並べただけだとか、大きな石も何個も出たから庭石にしてるといった話を地元の方から聞きました。深く掘り起こすと砂も出るし昔は川だったんだと思うよなんていう話も。たしかに近くを川が流れてはいますけど…。

少しだけ地元の方にお話を聞いて歩きましたが、どなたからも、居館にまつわる話どころか、佐竹のさの字も出ないし、白河結城も知らないといった感じでした。付近にある近年発見されたお城たちも、地元には全く伝承が残らなかったようなので、仕方がないことかもしれません。

それでも、航空写真を見ながら、あちこち歩きながらあれこれ妄想してしまいました。

この辺りの城歩きに来たら、ぜひ軽く散策してみてください😊

2022年05月16日 疲れた人
花室神社[月居城  寺社・史跡]



この神社から、『常州佐竹領鍬田村』と書かれた長享2年(1488年)の棟札が残っているそうです。わざわざ、佐竹領って書いてあるところがキュンとします。

でもその頃って、山入の乱末期ぐらい。この最中に、佐竹が弱体化したところを白河結城にぶん取られたりしています。山入の乱のあとに反転攻勢に出るんですが。この辺りってまだ岩城…白河結城が押さえてなかったのかな…とか一瞬過ぎりましたが、ていうか、結局はこの辺りは佐竹のシマになってるし、別にいいや、棟札萌え🤤って思考が止まりました…🤣あとでよくお話を聞いてみたいです。

このキュンとくる棟札の話は神社にある記念碑にも書いていないので、一応…。

以下、神社にある記念碑より。

当社は木花開耶姫命を奉斎、大同元年に創建、長享二年神殿を修復、宝暦八年現今の御社殿鳥居の御造営。以来弐百参拾有余念に亘り、世の人々の信仰と心のよりどころとし崇敬せられ今日にいたる。(以下略)

2022年05月06日 疲れた人
内大野要害[月居城  周辺城郭]



内大野要害は、内大野館の向かい側の山にあるお城です。内大野館の管理下にあった城とみられています。主郭に行くまで、ちょいピークとまあまあのピークを超えます。尾根上にも特に遺構はなく、シンプルに山の険しさだけで守る城だと思います。おそらくは、狼煙台か緊急時の避難用の城だと思います。

生瀬乱で、小生瀬村の村民が襲撃された時に、ここに逃げて来た者たちもいたのではないかという話を聞きました。本当に避難したかどうかはわかりません。地図を見ると、距離的に避難した可能性もありそうに思えました。事件の日に、村民が逃げてきたかもしれない城をこの目で確かめたったから行きました😊

※生瀬乱については、同じ月居城のリア攻めマップにある谷沢要害や地獄沢の由来(看板)の口コミをご覧ください。その辺りが小生瀬村のあった位置になります。内大野要害との距離も見てみてください。ありえそうに思えません?😂

①主郭に上がる虎口。
②主郭。山頂に神社があったんじゃないかと内大野館の麓の酒造のご主人からうかがいました。たしかに、何かがあった名残はあります。
③④主郭から伸びる尾根には段曲輪。あちこちから。全体的に小さいです。尾根伝いにさらに先の山に逃げることも可能です。
⑤主郭からは山しか見えない。街道からはかなり奥まった位置にある。
⑥秋葉神社の鳥居がある。けど、祠とかいかにもな建物は自分が見た限りはなかったんだよなあ…山自体が信仰の対象と言われれば、まあ…
 
鳥居の背後の川を渡って上がると、道があってある程度までは、さらっと登れます。少し藪にも行けて、何の表示もない、道中に堀切一本さえない山を、尾根を目がけて、ただこの城のことを一途に想いながら、行ける人にだけオススメします。
ちなみに自分は、登りルートは適当な場所から直登で、帰りは鳥居に下りました。
行く人はいないだろうけど参考まで😊

鳥居に出る前に小さい川を軽く渡りますから、長靴でもあれば安心。長靴なんかなかったから裸足で渡りました。飛び越えられる小川だと聞いていたのに、ちょっと違いました😂

春の川の水は、清く冷たく爽やかでした…🤣

2022年05月05日 疲れた人
内大野館[月居城  周辺城郭]



内大野館は佐竹氏の家臣の斉藤氏の城とされていますが、お城の詳しい来歴は不明のようです。

お城のある地区の字名は「堀之内」で、辺りには他にも城の存在を窺わせる矢倉なんて萌える名前の地区もあります。
個人的に一番キュンと来たのは、内大野館の近くにある山が「堀切峠(ほっきりとうげ)」と呼ばれていると聞いた時です。こんなの聞いたらもうその山の中に今すぐ散策に行きたくなりますよね🤣
城好きの考えることは同じで、既に確認に行ったヤバい方がいました。隅々まで山を散策したそうですが堀切一本さえ何もなかったと聞いています😂

月居城のリア攻めマップには、最近発見されたばかりの城をいくつか載せていますがどれもオススメです。昨年までは鹿行地域の城をたくさん知ってほしくて、見せたくて歩いていましたが、やっぱり佐竹の本拠地、県北の城は面白いです。
小さなものえぐいもの新しいもの…沢山お見せしたいと思います。

①正面の山に城があります。適当な場所から直登します。
②主郭。正面が土塁。
③土塁はなんかユルいけどサイズはしっかり。
④土塁から見下ろす主郭裏堀切。これはでかい✨
⑤〜⑦主郭裏の堀切。両端はしっかり竪堀でした。しばらく眺め回してしまいました😂
⑧二郭に上がる手前の堀切。上から見下ろす。

2022年05月02日 疲れた人
地獄沢の由来[月居城  碑・説明板]



地獄沢の由来

この小高い丘を登ると正面に見える沢が嘆願沢、刀拭き沢、地獄沢と続く地域である。小生瀬村は佐竹氏の善政で村民は佐竹を追慕していたが秋田へ国替えされた。その後、水戸藩となり年貢を徴収され支払ったが再度の徴収に激怒し偽役人と言って竹槍等で殺害した。それを聞いた水戸国老や頼房が小生瀬村を襲撃せよとの命に数百の兵を率いて小生瀬村民を斬り殺し逃げ場を失った老若男女は、この沢へと逃げ込んだ。役人が後を追いかけ行き止まりの沢で斬り殺されたその処を地獄沢、刀を拭いた処を刀拭き沢、助けを求めた沢を嘆願沢と言う字名が実在している。歴史的証は無いが代々言い継がれている。現在、地獄沢は荒れ果て尋ねるも困難である。(案内板より)


谷沢要害を口コミで紹介した時に、さらっと書いた生瀬乱について書いてある看板が大子町内にあります。
この事件については、江戸時代の後期に入ってから、水戸藩の学者が地域に伝わる伝承を整理して、藩による武力鎮圧を書物にまとめたことから知られるようになりました。
色々な方からこの件について話を聞いていると、この事件には、事件が起こった時代や事の発端を含めて諸説あるようです。
自分は、沢山の方にお話を聞いたわけではありませんが、ただ、昔、一村惨殺があったという事件は地元の方に広く認知されているように感じました。

看板の裏の丘を上がると確かに沢が見えます。暗く深く静かな沢の写真を撮る気にはなれず遠くからそっとお祈りしました。

2022年04月29日 疲れた人
花立山狼煙台[月居城  周辺城郭]



谷沢要害、立神古城に続き、最近、大子町で発見された物件になります(全てリア攻めマップに載せてあります)。

尾根上には堀切と見られるものが数本確認できました。ピーク手前の堀切が1番大きく、くっきりしていて、見応えはあります。個人的に1番たまらないなと思ったのは、やっぱり4枚目の写真。この景色がすごく良かったです。ちょっと見えにくいですが、正面のコブが二つ並ぶ山は月居城です。さらにその右にある山は立神古城になります。狼煙リレーのやりがいしかないです🤣

2022年04月27日 マイ兵庫助リバʕ•ᴥ•ʔ
花立山狼煙台[月居城  周辺城郭]



こちらも今シーズンに新たに発見😳された城郭遺構です✨ピークの北側に3本の堀切凹🙄があります。そのうち1本は誰がどう見ても&誰がなんと言おうと堀切凹😌なので、ココが城郭であったエビデンス🦐🕺になり得ます(残りの2本は堀切❓的🤔なものですが)

伝承はないようですが、花立山🌸は旗立山🏁が訛ったものとの説もありますし、ピークは一定の広さがあることからも狼煙台や集落の民が逃げ込む城だったのではないでしょうか😌

①&②1本目の堀切❓🙄
③2本目の堀切❓🤔だっけな😅
④〜⑥ 3本目の堀切凹凹凹😳
⑦旗立➡️花立…わかる気がする😌
⑧ピーク裏には物見岩🪨的なものが😚

2022年04月27日 マイ兵庫助リバʕ•ᴥ•ʔ
立神古城[月居城  周辺城郭]



今シーズン新たに発見🙄された城郭遺構です。立神古城は日本三大名瀑・袋田の滝の北西に位置する立神山⛰の鞍部にあります。ピークは生瀬富士や月居山よりも僅かに高く、狼煙🔥を上げるには適地かと思います。古城山とも呼ばれるように城の伝承はあるようですし、北斜面には連続する段郭が認められます😌

付近の山では人工スキー場⛷を作る計画もあったとのことですが、そもそも別の山ですし、戦時中に耕作🌾するにしても麓からの比高がありすぎて、この山のしかも北斜面を人工的に削平した時期は中世しかあり得ないのではないかと思います🤔

①〜③暗部北斜面の段郭
④堀切っぽさは見せてくれました
⑤狼煙🔥上げるには適地と思われるピーク
⑥県北ロングトレイルのコースです🏃‍♂️

2022年04月27日 疲れた人
立神古城[月居城  周辺城郭]



立神古城は立神山のハイキングコースを利用して行ける城です。月居城のすぐ近くにあり、支城なのかな…と思いました。一時的な避難用とか…段曲輪がある位置が北を向いているので、風があたるのもなんだか居住性はなさそう…。狼煙台の伝承があるようですが詳しい来歴は不明とのことです。ハイキングコースから外れた位置に数カ所段曲輪が見られました。

①月居城が見える。
②袋田の滝が上から見える…真ん中の白い部分が😂はしゃぎすぎて写真を撮ってないんですが、くっきりはっきり見下ろせました。
③〜⑥周辺の山を歩くハイキングコースがついているからもう何とも言い難いんですが5枚目6枚目は段曲輪部分。明らかに人の手が入っているとわかるところです。

2022年04月26日 疲れた人
日照要害[月居城  周辺城郭]



大子町ではこの2、3年で、沢山の新しい城が発見されています。佐竹氏の支配地域にあたり、下野の那須氏との境目で、南奥の白河結城氏との境目に近い地域でもあります。

ものすごく雑に言うと、袋田の滝や月居城の周りの山、福島や栃木に抜ける道路沿いの山の中にはだいたい城がある感じです。そして大子町は、数百年という長い年月もの間、誰からも忘れられたまま、ずっと眠っている城の宝庫でもあります。

さて、前回の谷沢要害に引き続き、こちらも見つかったばかりの城です。「このお城がある街道沿いには今までお城が全く見つかってないんです。遂に見つかったんですよ。大発見のお城なんですよ!」と、同行した大子町出身の方がめちゃくちゃ喜んでいたのが印象的でした。山の中をみんなで相当探したんだろうなと察しましたし、そんなやべー城をこの日見られたことが本当に嬉しかったです。

城の詳しい来歴は不明です。神社の参道沿いにお住まいの方だけが、狼煙台だとおっしゃってること以外、全く伝承がないそうです。この地区にお住まいの方々に聞いても誰も知らなかったそうです。攻城する時には、神社の参道沿いにお住まいの方に、一応お声がけはしたほうがいいかと思います。駐車場はないので、どこかスペースを見つけて歩いてくるしかないです。行きやすいのに秒でえぐい。見つけたばかり、世に出たばかりの本当にオススメの城です。

①熊野神社の背後に城がある。神社のある平場はじめっとしていて住める感じはしませんでした。ちなみに、神社の裏から城に上がるのはやめた方がいいです。城に上がる時は神社の鳥居を抜けた左側から登るのが正解😂神社の裏は皆さんの期待のさらに向こう側にある常陸の間違いない藪でした。
②登るとすぐに堀切。
③動線マニアを殺す綺麗な横堀動線。
④振り返りがちな動線マニア。ここはすんごく綺麗だったので。
⑤⑥堀切。
⑦堀切を上から見下ろす。
⑧堀切。

2022年04月26日 マイ兵庫助リバʕ•ᴥ•ʔ
日照要害[月居城  周辺城郭]



今年1月に発見されたばかりの新城郭✨です。先に投稿した谷沢要害と同じ日に常陸城郭界隈のレジェンド先生にアテンドしていただいた城で、城と認識して現地に立ったのはその時点で5人しかいません😳

日照と書いて(ひしゅう🤔)と読みます。先の大戦で出征前にお参りした方々が全て生還されたと云われている熊野神社⛩の背後にあり、約50m四方とコンパクトな縄張りながら、遺構は完存しています😚

主郭部から派生する4本の尾根にそれぞれ堀切凹が設置されています。地元では狼煙台🔥としての伝承があるとのことですが、狼煙台にしては位置が低いように感じました🙄

かと言って、籠る城としても街道からの高低差があまりなく、防御施設も各方面の堀切凹のみで、これだけハッキリした遺構がありながらもこれまで世に出なかったことと合わせ、なんとも不思議な城郭です🤔(遺構はステキです🥰)

駐車スペースはありません(当日は熊野神社⛩前の民家の方にお断りして駐車させていただきました)ので、絶対に迷惑駐車にならないようにしてください。

①4本の堀切のうち南西側の堀切凹 登ってすぐにコレです😳
②4本の堀切のうち北西部の堀切凹を上から
③北側にある腰曲輪的なもの
④③に立って見たところ
⑤4本の堀切凹のうち北東部の堀切凹
⑥〜⑧4本の堀切凹のうち南東部の堀切凹 この堀切凹がこの城の白眉です😋

2022年04月25日 マイ兵庫助リバʕ•ᴥ•ʔ
嶋崎城主安定公・長子徳一丸終焉の地[月居城  碑・説明板]



頃藤城の2郭の畑の一角に佐竹氏による常陸統一の総仕上げ『南方三十三館仕置⚔』の標的とされた嶋崎安定父子を祀る🙏小祠が建立されています😌

水戸市にある六地蔵寺の過去帳には父親の嶋崎安定については「上ノ小河ニテ横死」🥺と、子の徳一丸については「上ノ小川ニテ生害」🥲と記述があり、この城で起きた悲劇を物語っています😭

2人が預けられた頃藤城の城主・小川大和守は嶋崎安定の舅であり、大和守は家臣の清水信濃守に命じて婿と外孫を鉄抱で射殺させています🥲頃藤城に行かれる際は是非セットで訪れ、手を合わせるようにしてくださいね🙏

2022年04月17日 マイ兵庫助リバʕ•ᴥ•ʔ
谷沢要害[月居城  周辺城郭]



谷沢要害は今年3月に発見された新城郭✨です😳とあるきっかけから10数年ぶりにやり取りを再開した常陸城郭界隈のレジェンド先生から有難いお誘い📨を受け、くっついて行ってほぼ完存する見事な遺構に感動しました😲

尾根上に築かれた段曲輪と堀切凹は明らかに戦国民の仕業😍「よくぞ400年以上誰にも気付かれずに眠っていた👏」と褒めてあげたくなりました🥰と同時に城跡と認識した上でのリア攻め経験者が当日参加した6人だけという事実に「これだけの遺構がある城郭がどうしてこれまで陽の目を浴びなかったんだ❓」と疑問が浮かびました🤔➡️なんでも江戸時代初期の慶長14年(1609年)に起きた生瀬事件👮‍♂️で小生瀬村の村民が2軒を除いて殺害👻されてしまったため、城郭に関する口伝も絶えてしまっているようです🙄

1本目の堀切凹は土橋も付いていてこの城の遺構の中で白眉かと思います🤩1番南側の堀切凹はヤブっていたので、堀切救出作戦👨‍🚒を敢行し、やや映える📸ようにしておきました😚段曲輪と堀切凹のほかの遺構としては竪堀と帯曲輪が認められます🧐大子町最大級の新城郭・谷沢要害、行ってみたくなりましたか❓☺️

①直登後に現れる段曲輪😋
②1本目の堀切凹を北から😍
③1本目の堀切凹を東から🥰
④1本目の堀切凹を南から🥳
⑤2本目の堀切凹の土塁凸🤤
⑥4本目の堀切凹上の櫓台的遺構🙄
⑦4本目の堀切凹✂️救出後👨‍🚒東から
⑧4本目の堀切凹✂️救出後👨‍🚒西から

【行かれる方へ】
今後の登城に影響が出ないように&心から遺構を楽しむことができるように次の2点を必ず必ず必ず守ってください🙏⬅️大事なので「必ず」って3回言ってます🤣
①登城口周辺には駐車場はおろか駐車スペースもなかったと記憶しています(訪問当日はアテンドしていただいた方が近隣の私有地への駐車を手配してくれました)ので、少し離れても駐車禁止🚫ではない安全な場所に駐車するようにしてください
②登城口も含め城域全体が私有地ですので、必ずリア攻めマップの凸表示の左上あたりにある地主さん宅🏠に声を掛けて了承🙆‍♂️を得てから登るようにしてください

2022年04月17日 疲れた人
谷沢要害[月居城  周辺城郭]



谷沢要害は、この3月に発見されたばかりのお城です。

お城の存在さえ知られておらず、来歴も不明です。

それもそのはず、このお城がある地域で生瀬事件と言われる一村惨殺の事件があり、古い伝承が途絶えてしいるらしいのです。佐竹氏の国替えの後に起こったとされるこの事件は、年貢の二重取りに腹を立てた村民たちによる役人殺害に端を発するとされますが、詳細は不明な点が多いようです。
善政を敷きながら秋田へ国替えされた佐竹氏を慕う地域の方々や帰農した佐竹氏の旧臣たちを徳川が見せしめに一村まるまる惨殺したんじゃないか…などなど諸説あるようです。
現在も惨殺事件にまつわる地名が幾つか残る悲しい歴史の現場でもあります。

さて、肝心の要害は、ご一緒した方々によれば、近くにある武装寺院であった宝仙寺の詰め城ではないかとのことでした。また修験者との関係が深い佐竹氏が用いた城でもあろうと。現在、そのお寺はなくなりゴルフ場の建物があります(写真①)
常陸大宮市にある小舟城みたいだと事前に聞いていました。尾根に堀切をばしばし入れてますがそもそも規模が違います。大子町にはこんなとんでもなくやべー物件があるんだと驚きましたし、常陸の他の地域で見る土木ぶりとはもう全てが全然違います。
非常にオススメです。

見学の際の注意事項です。

お城の見学の際は、近隣にお住まいの方にお声がけの上での見学になります。思いっきり地主さん宅の庭先を横切り、裏山に張り付き軽く直登します。必ず必ずお声がけの上、許可を得て見学してください。
ご不在の時は潔く諦めてください。←大事。
駐車場がないので、月居トンネルを出たところの空きスペースに駐車して歩きます。歩いたところで大した距離じゃないです。何より、多少歩いてでも見る価値のあるお城だと思います。

写真②軽く登って振り返る。綺麗な段曲輪。
写真③④堀切をあちこちから愛でる。
写真⑤竪堀…竪堀だから🤣もう一本入ってて横移動を阻害してくれてました。落ちた先は沼地です😂
写真⑥真ん中に男体山が見える。太田城までの狼煙リレーの城でもあったはずとのこと。
写真⑦最奥の堀切に行く道を作りました。今なら容易く見に行けます。
写真⑧ 常陸はどこも藪城ばかりと言われる皆さんのご期待に応えて。最奥の堀切から見た坂虎口。実物は綺麗でしたよ。

2021年12月21日 疲れた人
小里城[月居城  周辺城郭]



小里城は、茨城県常陸太田市にある石積みのユル〜い可愛さが突き抜けているお城です。石積みは何度か拝んでいますが、見た目の可愛さだけならここじゃないかなあと思っています。

この城を案内して、いつも必ず喜んでくれるのは、保育園や幼稚園に通い始めた好奇心の塊みたいなちびっこたちです。
ちびっこたちが、切岸の崩れた緩いところを、頑張ってよじ登って、畦道をとことこと歩いて、土留めの長い石積み(40mぐらい)を探して、見つけた時に、驚いたり、喜んだりしてる様子は、まるで小さなめぐらーで、本当にかわいいです。これが大人だと、子供と変わらない感性を備える奇特なごく一握りのめぐらーさんあたりは同じぐらいに喜んでくれます(笑)
佐竹氏もまさか数百年後に、元気なちびっこたちにめちゃくちゃ攻めこまれるとは思わなかったでしょう。

この城がある里見地区は、一時、岩城氏に支配されたこともあるようです。結局、岩城氏は佐竹氏に喰われちゃったようなもんですし、この地域もいつからか佐竹領になったようです。

小里城への行き方です。
Googleマップは小里城(常陸太田市小中町1726)に設定してください。小さな城址看板があるんですが、畑の真ん中にあり付近の道路からは全く見えないです。また、駐車場はなく、道路のスペースに寄せて路駐するしかないです。
車を駐めたら、薄葉川の近くから見える外城の切岸を見つけましょう。そこに向かって川沿いを歩いて行きます。少し行くと、切岸の崩れたところがありますから、そこから入り込みます。すぐに看板が見つかるはずです。

口コミとは別に出している写真も参考にしてください。

① 外城の切岸はこの内城橋から撮影。城に近い橋の名前は城を意識してほしい🤣こうでなきゃ✨
②周りの景色から明らかに浮いている外城の綺麗な切岸が目印。
③外城の切岸を目指して川沿いを歩いて、ここから入れます。

2021年04月13日 龍馬太閤【備中❁麒麟Z】
頃藤城[月居城  周辺城郭]



茨城県の久慈郡にある頃藤城♪鎌倉時代に領主で常陸守護佐竹氏の庶家である小川氏の城と伝わります☆別名を小川城と呼びます☆

小川宗義が居城とし家老の神長氏と清水氏が城代を務めました☆その後、上杉氏の子である佐竹義人の入嗣に佐竹氏有力庶家の山入氏が宗家に謀叛した山入の乱で一時混乱…
白河結城氏に一時奪われましたが後に佐竹氏が奪回します♪小川氏が再び城主となりました♪

佐竹氏が関ヶ原の戦いにおいて属した西軍が敗退☆秋田転封となると小川氏も転封に随従し頃藤城は廃城となりました☆

久慈川を天然の堀として舌状台地の上に城郭は築かれています☆空堀、土塁、郭等が残ってます♪線路の写真は堀切跡と思われます♪



2021年03月10日 豊嶋武蔵守カッチャン
月居城

数年前、袋田の滝ルートにて登城。
月居城の側に在る月居観音も素敵でした。
登城ルートは、その月居観音を背にして正面に有る崖を登っていきます。
登山と言うより…プチロッククライミングです😨
手綱として申し訳程度にトラロープが木々に結ばれているだけで😱
そのトラロープを握り登っていきます😱
前情報無しで登城した為、断崖絶壁を登って行くとは想像もしておりませんでした😱
でも冷静に考えたら…誰でも来やすい箇所に山城なんて作りませんよね😅
幸いトレッキングシューズとカーゴパンツをはいていたので、トレッキングシューズで足下は確保😅カーゴパンツのサイドポケットにペットボトルを詰め込んで登城することができました😅
袋田の滝からのリア攻めを考えている方は、トレッキングシューズ等の歩きやすく滑りにくい靴と、カーゴパンツもしくはウェストポーチを装備して両手をフリーに出来る状態にして臨むのが懸命だと思います😅それと…折れない心www
遺構はほとんど残っていませんが、月居城からの眺めは最高で、登城して良かったって最高の気持ちになりますよ😆
最高の気持に浸った後は…断崖絶壁を降りていく事によって強制的に現実に引き戻されてしまいますが😱
最高でしたが…月居城だけに心も折れた1日でした😅

2015年03月06日 太田大宰大弐道灌?!
月居城

前回のリベンジ!!…が、今でも通行止め!!
同じ道路の反対側から車で登ってみるも月居峠付近の道路が崖崩れで崩落中!!
これが通行止めの理由だったのねー(((^^;)
なので前回の場所に戻って徒歩での強攻登山!?…結構な山道でしたが気合いで山頂423mまでたどり着きましたー(°▽°)
はっきり言ってリア攻め…って言うか、登山ですので、それなりの靴や気持ちでのリア攻めをお薦めします♪
…足を滑らせたら…アウト!!ですのでf(^^;

2015年02月17日 野呂利左衛門督休三
月居城

袋田の滝方向からも行くことができますが、ピークを一つ越える必要があります。体力のある人向けコース。
鞍部に寺跡、そこを袋田の滝寄りに少し登ったところに義家伝説のある月居観音があります。

幕末は廃城になっていましたが、城のあった月居峠は天狗党挙兵の戦場になっています。

月居城の周辺スポット情報

 嶋崎城主安定公・長子徳一丸終焉の地(碑・説明板)

 地獄沢の由来(碑・説明板)

 頃藤城(周辺城郭)

 小里城(周辺城郭)

 谷沢要害(周辺城郭)

 日照要害(周辺城郭)

 立神古城(周辺城郭)

 花立山狼煙台(周辺城郭)

 内大野館(周辺城郭)

 内大野要害(周辺城郭)

 佐貫館(周辺城郭)

 佐貫要害(周辺城郭)

 佐貫堀の内館(周辺城郭)

 町付城(周辺城郭)

 町付向館(周辺城郭)

 荒蒔城(周辺城郭)

 大草砦(周辺城郭)

 初原砦(周辺城郭)

 大中寺山館(周辺城郭)

 鏡城(周辺城郭)

 花室神社(寺社・史跡)

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