武茂城(むもじょう)
武茂城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 栃木県那須郡那珂川町馬頭字馬場東他
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 武茂泰宗
築城年
- 1288〜1299年
主な改修者
- -
主な城主
- 武茂氏、太田氏
廃城年
- 慶長7年(1602)
遺構
- 曲輪、帯曲輪、腰曲輪、物見台跡、土塁、横堀(空堀)、堀切、櫓跡
指定文化財
- 県史跡(武茂城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
神田城(栃木県那須郡)[4.0km]
烏山城(栃木県那須烏山市)[8.8km]
森田城(栃木県那須烏山市)[12.7km]
倉ヶ崎城(栃木県さくら市)[13.3km]
黒羽城(栃木県大田原市)[14.9km]
佐久山城(栃木県大田原市)[16.2km]
桑久保城(栃木県塩谷郡)[17.5km]
千本城(栃木県芳賀郡)[18.3km]
大田原城(栃木県大田原市)[18.6km]
乙畑城(栃木県矢板市)[18.9km]
武茂城の解説文
武茂城の口コミ情報
2025年05月15日 気分爽快武蔵守
武茂城
静神社の麓に駐車場があるので、車を停めてゆっくり見て回れます。長い石段を登ると城域です。
主郭東の堀は深く大きいので、上から狙われたら逃げ場が有りません。乾徳寺の東に東城、馬頭小学校の北に西城があるようなので、時間に余裕のある方は合わせて探索されるのも良いかと思います。
①現地縄張り図によると静神社の東は武者溜りらしい
②ニノ郭西の竪堀
③ニノ郭より見た主郭
④主郭南の土橋と堀
⑤主郭西の堀
⑥主郭北の堀
⑦土塁と堀と主郭
⑧北の端にある堀切
2025年05月11日 ʀᴇᴅ副将軍
高部向館[武茂城 周辺城郭]
高部館の南側を堅める出城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等の詳細不詳。
高部氏に築かれた高部館の出城と考えられています。
高部氏は佐竹氏一族とされ、鎌倉時代に七代当主の佐竹義胤の五男である景義が当地を領して高部氏を称したのが始まりとされ、美和村の諏訪神社の神官として続きました。
見所
高部館から緒川を挟んだ南側にある標高約230mの南北へ伸びる尾根先端部に築かれています。
南北に長い主郭には三峯神社が祀られており、南側背後にL字土塁があり、その更に南の尾根筋は四条の堀切で遮断され、堀切の端部は竪堀となり落ちています。
主郭西側には四段の広い段郭が連なり、主郭東側は深い谷間の要害となっています。
高部館から歩いて行けますが、全体的にヤブ気味でした。
2024年01月08日 ファン掃部助トム治郎
武茂城
静神社から5分ほど上に上がったところに本丸があります。見応えのある堀切がありました。
2023年02月07日 会津LOVE下野守智ぞう
武茂城
広重美術館の駐車場はポケットパークになってますから、無料で車置けます。トイレ自販機完備。静神社階段を登っていきますが、女坂の迂回道あります。
2023/02/05行きましたが、武者溜まり付近キレイに伐採されてました。
2022年11月19日 昌幸安芸守更に吉
高部向館[武茂城 周辺城郭]
高部向館(たかぶむかいだて)は名前の通り、高部館の麓を流れる緒川(おがわ)の川向こうにあります。出城として高部館と連動して使われていたと思われます。
縄張りですが、正面はたくさんの小さな郭で主郭を守ります。尾根続きで城よりも高い山がある背後は4条の堀切で防いでいます。東側は急峻ですが、沢がある西側は緩やかなため、竪堀をクランクさせることにより侵攻を鈍らせています。
写真は上手く撮れませんでしたが、クランク竪堀が一番テンションが上がりました。
*車は常陸大宮市美和総合支所の駐車場に停めました。
【写真の説明】
①緒川に向かって段々の郭が並ぶ。
②主郭には祠が建つ。
③主郭背後。堀切I
④堀切1を上から。
⑤下の郭から堀切II
⑥堀切III
⑦堀切Ⅳ
⑧堀切Ⅰはクランク竪堀となり、沢へ落ちる。
2022年11月16日 昌幸安芸守更に吉
小田野城[武茂城 周辺城郭]
小田野城は、北方の武茂(下野)へ・西方は鷲子(とりのこ)山へと分岐する交通上の要所に構えた境目の城です。
城主は小田野氏。佐竹氏一族の山入氏の分家にあたります。9代250年もの間、小田野の地を治めました。
100年にも渡る佐竹氏の後継者争い、いわゆる山入の乱では、山入氏の分家にも関わらず佐竹氏に協力します。そして数々の功績を上げ、終乱時には重臣となります。
天正19年(1590)小田野氏は水戸へ移り、小田野城は廃城となりました。
下野との境目の城だけあって武茂方面を意識した構造になっていて、登城最初に現れる切岸に囲まれた空間には驚かされました。
切岸を越えたとしても、小さな腰郭が侵攻を妨げ、主郭に辿り着くのは容易ではありません。
コンパクトながらも考えられた縄張です。じっくり見ても1時間はかかりません。隙間時間を埋めてくれる最良の城ではないでしょうか。
※道沿いに案内板があり、路肩が広くなっています。そこに駐車可能です。
【写真の説明】
①のっけからこの切岸空間。
②切岸を登る。左側は天然地形を生かした竪堀があった。
③主郭東側の堀切。
④主郭西側は尾根と繋がる。動きを遮断する二重堀切が設けられる。中央奥が主郭。
⑤二重堀切の一条。
⑥二重堀切のもう一条。
⑦主郭まで段々と繋がる郭があるのが分かる。
⑧主郭。左の盛り上がりには櫓が建っていた。
2021年03月01日 昌幸安芸守更に吉
高部館[武茂城 周辺城郭]
南北朝時代初期に館を築いたのが始まりとされます。
戦国時代は下野国への進出を目指す佐竹氏の境目を守る城として、西の那須氏に対しての前線基地となりました。
城郭も西側に曲輪や竪堀・横堀があり、その配置は迷路に踏み入れた印象を受けます。攻め手は心身共に疲弊を余儀なくされるでしょう。
大杉屋商店さんの駐車場をお借りしましょう。そこから10〜15分登ると城跡です。
途中「若武者コース」と「寿コース」で分かれて一の曲輪を目指せます。
肉体的疲労を味わいたい方は「若武者コース」を、精神的疲労を味わいたい方は「寿コース」を選ぶといいでしょう(※多分『楽』『安全』という意味での名称でしょうが、竪堀から滑落したりして寿感はまったく味わえませんでした)
【写真の説明】
①登城路
②南第一堀切
③南第二堀切
④南第二堀切から続く竪堀
⑤中央堀(一の曲輪と二の曲輪の間)
⑥一の曲輪の土塁
⑦二の曲輪の横堀
⑧三日月北堀(六の曲輪と七の曲輪の間)
2020年09月09日 龍馬備中守【】
松野南城[武茂城 周辺城郭]
栃木県の那須郡にある松野南城♪
畑の台館を居城としていた松野氏が後に居城とした城となります♪松野には畑の台館、松野北城とここがあり、松野氏関連の城が点在しています♪
宇都宮氏に属し那須氏と対立していた関係で孤立した松野氏は東方の佐竹氏との関係を深めました♪後に家臣になります♪その為、那須氏は何度かこの近辺に攻め込んでます♪しかし松野氏はこのエリアの山城に籠り耐え忍びました☆
佐竹氏が秋田に転封になると松野氏もそれに従いついて行きました♪
主郭を中心に主に南東へ伸びる尾根を加工♪
尾根筋を斬り込み郭を造ります♪特に南側の堀切は小規模ながら連続して尾根を遮断✨比較的、大きな北側の郭もまた同様に山肌を掘り込みます♪
大手側は二荒山神社からかな♪無数の段郭で構成♪
藪は凄いケドwかなり大きな規模の城郭に驚きました♪
2020年07月01日 龍馬備中守【】
高部館[武茂城 周辺城郭]
茨城県の常陸大宮市にある高部館☆鎌倉時代に高部景義(佐竹義胤の五男)が築いたのに始まります♪その後は高部氏の居城として用いられました館と名前はなってますが規模的に戦国期の城郭です☆
武茂城の南、烏山城の間東に位置します♪
那須氏VS佐竹氏が争ったエリアです☆
那須氏率いる烏山城を牽制する為の城郭は街道を挟み両側の山中には幾つもの城郭、砦が築かれています♪広い主郭を中心に東側の側面はほぼ崖☆街道のある西側は土塁を配置し横堀、竪堀、腰郭を廻らせます☆那須氏の拠点である方向の北側も勿論、土塁と横堀を置きます☆横堀は三日月状になってます☆
2019年02月21日 【籠城中】下野守智ぞう
武茂城
武茂城から車で10分ちょいくらいにある、
御前岩物産センターでは、お土産も買えるしお食事も楽しめます。
ニッポン城めぐりやってる店長が打つ、手打ち蕎麦は絶品!!
フグ料理、うなぎ、イノシシ料理なども楽しめますー!
旅の思い出に是非お寄りください!
2015年10月23日 まー刑部卿
武茂城
先人の教えから広重資料館前の駐車場に停めました。また155段なる石段は先人の教えを破り登っていきました。手水舎のところで休憩し静神社拝殿前で2度目の休憩。そこから更に登り三ノ郭、薬研堀を渡りニノ郭だが藪酷く本郭との高低差がわからなかった。藪酷いが登城路は歩けます。その後鳥居を潜ると櫓台跡。堀跡を歩こうとしたらロープで遮っていたため帰路につく。
2015年06月30日 まさ宮内卿猛虎
武茂城
R294号線の那珂川町役場前に、安藤広重記念館、郷土資料館が有ります。その北側が城跡。駐車場・トイレ有り。
駐車場に武茂城の看板、石碑も有り。駐車場の西端に100段位の階段有り、其処を登ると静神社。奥に散策すると、鳥居あり(2の丸?)更に歩を進めると、横堀、その奥に本丸が有りそう。
郷土資料館には、武茂城全体のレプリカが有ります。
那須家から、宇都宮家が譲られ、其処に築城。宇都宮家の支城で有った。戦国期に佐竹との戦いに敗れ、佐竹家臣が入城、佐竹の秋田転封時に秋田に動向し、以後廃城となる。
2013年12月28日 まさ宮内卿猛虎
武茂城
失敗談を
武茂城場所確認で、那珂川町の公園(丘陵地)が有り、綺麗に整備されている場所が有ります。見るからに城趾公園の感じです。
其処を城跡と間違え写真を数枚撮影し、城の証拠写真を撮影の為、周囲を散策してました。
通りすがりの地元民に場所確認したら、『小学校の向こう側で上り口は、神社への石段が有ります、でも、上には何も有りませんよ』と。でも、行こう、何らかの証拠写真は有る筈だから。
自分の思い込みから、時間ロスの失敗談でした。
2013年03月10日 すかんぴん左馬助
武茂城
静神社の下にも車を停められますが、広重美術館の前に町の駐車場があります。
広くて無料の上にトイレも完備です。
登城は乾徳寺側に行くと小さな橋があり、その先に犬走りのような道があります。
そちらからでも三の丸に行かれます。
当時はそちらが大手だった、という説もあるそうですが、どうでしょう?
震災の時に地滑りのように崩れた箇所があり、地盤が緩いのでは?との心配があるそうです。
行かれる場合は自己責任で、くれぐれもお気をつけ下さい。
2011年08月04日 半日皇帝下野守
武茂城
現在、城跡には、静神社があります。
歴史
武茂城は、永仁年間(1288~1299)に宇都宮景綱の三男で武茂氏の祖とされる武茂泰宗によって築かれたと伝わる。泰宗は、元寇の際、兄貞綱とともに九州に赴き活躍した。南北朝時代には、武茂泰藤・氏泰兄弟が新田義貞とともに南朝方の中心的存在として活躍したことが『太平記』に見える。義貞が討ち死にした北陸での戦いの後、泰藤は武茂に戻らず、三河にて南朝挽回のために兵を集めたが、最後は三河国六ツ美村(現岡崎市宮地町)で没したという。なお、この泰藤の系統が三河で土着し、徳川譜代の家臣になる三河大久保氏となり、小田原藩の大久保氏、烏山藩の大久保氏などがこの後裔にあたる。弟の氏泰は、武茂に戻って北朝に属し、領地の支配にあたった。
以降、武茂氏は宇都宮一族の分家の中でも重要な家柄として存続し、本家宇都宮氏が途絶えた際には、武茂氏の当主が宇都宮家に入った。そのため、武茂氏は一時的に断絶していた時期があり、詳細は不明ながら白河結城氏が一時的に武茂の地を領していたことが寄進状などから確認できる。
その後、武茂氏は再興し武茂城を本城にするものの、天文年間(1532~1555)末期には、下野国に進出してきた常陸佐竹氏に属していることが、佐竹氏が発給した所領安堵状から確認できる。
また、永禄6年(1532)以降、佐竹氏が那須氏と戦闘状態になると、那須氏の本拠烏山城と那珂川を挟んで指呼の距離に位置する武茂城の武茂氏は、佐竹方の最前線として那須氏と幾度となく戦いを繰り広げた。天正10年(1582)には、那須軍が武茂城の城下まで攻め寄せ、武茂守綱が撃退したと伝わる。武茂城の詳細は不明ながらも、このような緊迫した状況の中で改修整備され、戦国時代末期まで断続的に使用されたと考えられる。
天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、武茂氏は佐竹氏とともに秀吉軍に加わった。その後、秀吉による太閤検地が行われると、佐竹氏が知行割りと配置転換を行ったため、武茂氏は佐竹氏の家臣として常陸国大賀村に移封となり、武茂城には太田景資が入った。さらに、慶長7年(1602)、佐竹氏が秋田へ移ると、太田氏と武茂氏は佐竹氏に従い秋田へ移住し、武茂城は廃城となった。
遺構
武茂城は、乾徳寺を囲む丘陵上に築かれており、乾徳寺の東側に東城、西側に本城、さらに本城の西側に西城がある。東城南麓の那珂川町総合体育館周辺には「根古屋」の地名が残ることから、家臣団の屋敷地である根古屋が形成されていたと考えられる。また、城下を通る街道には、「曲之手」と呼ばれるクランク状に道が曲がる箇所が残っている。この曲之手は、戦国時代に造られた町場構造だと考えられる。
東城は東西に展開しており、東端に本丸が配置され、本丸背後の尾根は堀切で遮断されている。本丸と二の丸の間には基壇状の高まりがあり、建物跡と想定される。本丸、二の丸を囲むように中小の郭が配置されており、斜面を切岸にして防御性を高めているのが見て取れる。本丸西側の腰郭には南麓からアプローチする虎口があり、その登城路に対して竪堀を入れている。そこから本丸へ続くルート上には、物見台や堀切を配置して侵入を遮断しようとする意図が見て取れる。
本城は南北に展開しており、三の丸直下の郭には現在、静神社が鎮座している。本城の虎口は西側にあり、現在の馬頭小学校の裏手から、この虎口に繋がる道筋が大手道と想定できる。なお、馬頭小学校の場所は「古舘」の字名が残ることから、ここに館が置かれていた可能性も指摘されている。
三の丸から北に向かって、二の丸、本丸、出丸が配置されている。三の丸と二の丸の間の堀は城内最大規模であり、木橋が架かっていた可能性も指摘されている。
本丸の東隅には、天守櫓跡と伝わる高まりが残る。本丸は東、西、北の3方向を囲むように堀がめぐらされ、堀を挟んで西側に物見台、北側には出丸が配置されており、これらによって西側緩斜面からの侵入者と、北側の尾根伝いの侵入者を阻む意図が見て取れる。また、本丸東側には長大な横堀が施されている。
西城は、本城と馬頭院の間の丘陵上に築かれていて、主に3つの郭で構成される。西側のみに横堀が掘られていることから、本城の西側を守るための出城であると考えられる。
交通
・車:国道293号で旧馬頭町市街地へ。室町交差点から静神社を目指す。・バス:JR烏山駅から40分馬頭役場前下車徒歩1分。
参考文献
・『馬頭町史』馬頭町史編さん委員会、馬頭町、1990年。・『関東の名城を歩く・北関東編』峰岸純夫、齋藤慎一、吉川弘文館、2011年。