倉ヶ崎城(くらがさきじょう)
倉ヶ崎城の基本情報
通称・別名
- 倉ケ崎城、喜連川城、大蔵ヶ崎城、(喜連川陣屋)
所在地
- 栃木県さくら市喜連川5978(お丸山公園)
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 塩谷惟広
築城年
- 文治2年(1186)
主な改修者
- -
主な城主
- 塩谷氏、喜連川氏
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
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倉ヶ崎城の解説文
[引用元:Wikipedia「倉ヶ崎城」の項目]大蔵ヶ崎城(おおくらがさきじょう)または喜連川城(きつれがわじょう)は、現在の栃木県さくら市喜連川にあった日本の城である。蔵ヶ崎城(倉ヶ崎城)とも。
【概要】
喜連川丘陵の小高い山(お丸山)の頂上に建つ連郭式の山城であった。現在は堀や郭跡が残っている。
~歴史~
平安時代末期、塩谷五郎惟広により築城された。
惟広は源平合戦(治承・寿永の乱)において源氏側で参戦し、元暦元年(1184年)2月の一ノ谷の戦いや文治元年(1185年)2月の屋島の戦いで戦功があり、塩谷氏の所領であった塩谷荘のうち現在の喜連川付近(当時は来連川)に相当する三千町の領地を賜った。
文治2年(1186年)に惟広は大蔵ヶ崎城を築き、また土地の名を喜連川に改める。これを以て惟広は喜連川塩谷氏の始祖とされる。
喜連川塩谷氏の血筋は4代で絶えたものの、同族の藤姓塩谷氏から養子を迎え入れ、塩谷氏の支配は合計17代400年に及んだ。
戦国時代に入ると、塩谷氏は同族の宇都宮氏から離反と帰参を繰り返し、また一族の内紛などもあり衰退。
そして17代・塩谷惟久が、豊臣秀吉による小田原征伐の際に遅参したとして改易される(秀吉の怒りを恐れた惟久が出奔したとする伝承もあり。城址に立つ案内板にはその旨が記載されている)。
小田原征伐後には室町幕府将軍家・足利氏の後裔が入封することとなる。足利氏は戦国期には古河公方家と小弓公方家に分裂し既に衰退していたが、名族である足利氏の断絶を惜しんだ豊臣秀吉が、男子の絶えた古河公方家の足利氏姫を小弓公方家頼純の子である足利国朝に娶わせ(元城主・塩谷惟久の正室でのち秀吉の側室となる嶋子(島子)が国朝の姉であり、嶋子がこれを取り成したとされる)、喜連川3500石を与えられる。
その後文禄の役従軍中に急死した国朝から家督を継いだ頼氏が氏姫と再婚して喜連川氏を称し、関ヶ原の戦い後に徳川家康から1000石を加増され喜連川藩を立藩。合計4500石程度に過ぎなかった喜連川氏が大名とされること自体が破格であったが、足利氏後裔という家柄が徳川家にも重んじられ、10万石格の格式が与えられたほか参勤交代義務の免除など様々な特権があった。...[続きを見る]
倉ヶ崎城の口コミ情報
2020年09月09日 鴻巣御所
龍光寺[倉ヶ崎城 寺社・史跡]
足利氏歴代墓所あり。駐車場あります。収容20台くらい。
2020年07月30日 那須資晴
お丸山[倉ヶ崎城 遺構・復元物]
堀が残されています。
2018年07月29日 ひなすけ☘参議^•ﻌ•ฅ
倉ヶ崎城
どこから登っていけばいいのか分からず車ですれ違いも出来ないような道をグルグルグルグルしました。
Googleナビで案内され停めたところは徒歩でも行き止まり
体育館がありそこに車を停めました
2017年08月05日 mas.k上野介57th
倉ヶ崎城
スカイタワーが閉鎖になってます
外郭からは立ち入れないので気をつけましょう
2015年08月14日 兵部卿PINKGIN
倉ヶ崎城
散策路を登るがことごとく途中で通行止めとなる。役場側から左側の方は登れそうだが、整備がされていない。