神田城(かんだじょう)
神田城の基本情報
- 通称・別名
- 那須神田城、那須城
- 所在地
- 栃木県那須郡那珂川町三輪
- 旧国名
- 下野国
- 分類・構造
- 平城
- 天守構造
- -
- 築城主
- 藤原資家
- 築城年
- 天治2年(1125)
- 主な改修者
- -
- 主な城主
- 須藤氏、那須氏
- 廃城年
- -
- 遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)
- 指定文化財
- 国史跡(那須神田城跡)
- 再建造物
- 石碑、説明板
- 周辺の城
- 
  武茂城(栃木県那須郡)[4.0km]
 烏山城(栃木県那須烏山市)[10.0km]
 倉ヶ崎城(栃木県さくら市)[10.0km]
 佐久山城(栃木県大田原市)[12.3km]
 黒羽城(栃木県大田原市)[13.0km]
 森田城(栃木県那須烏山市)[13.3km]
 乙畑城(栃木県矢板市)[15.1km]
 大田原城(栃木県大田原市)[15.4km]
 御前原城(栃木県矢板市)[16.8km]
 桑久保城(栃木県塩谷郡)[16.9km]
 
神田城の解説文
[引用元:Wikipedia「神田城」の項目]
神田城(かんだじょう)は、栃木県那須郡那珂川町にあった日本の城(平城)。国の史跡に指定されている。別名那須城、那須神田城。
概要
1125年(天治2年)に那須氏の祖、藤原資家によって築かれ、以後須藤資清に至るまで4代にわたり須藤氏(那須氏)の居城として使われたという。
須藤氏が、6代須藤宗資の時に稲積城へ、平安時代末期には、10代那須資隆の時に高館城に移り住んだ後は、廃城となった。
1984年(昭和59年)7月6日、「那須神田城跡」として国の史跡に指定された。
現状
土塁や空堀などの遺構が、良好な形で現存しており、「那須神田城趾公園」として整備されている。 遺構は、方形単郭式の典型的な形態を遺存しており、一部は農地に変わってしまったものの、中世城館の趣を今に伝える数少ない遺跡である。
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神田城の口コミ情報
        2025年04月14日 ᴿᴱᴰ 副将軍
          神田城
           
 
           
 
           
 
           
 
           
 
           
 
           
 
          
          
        那須氏の初期の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
1125年に藤原資家により築かれたと云われます。
藤原資家は藤原道長の六男の孫とされ、賊を討った功により下野国那須郡を賜り那須郡司として下向。須藤権守貞信と称して那須氏の祖となりました。そして居城として築いたのが神田城であり、4代当主の須藤資清に至るまで須藤氏(那須氏)の居城となりました。
6代当主の須藤宗資の時に稲積城へ移り、10代当主の那須資隆の時に高館城に移った後に神田城は廃城となったとされます。
屋島の戦いで扇の的を射落としたことで有名な那須与一は那須資隆の十一男です。
その後、源頼朝より那須家の惣領を継ぐよう命じられた那須与一は兄弟に所領を分知。それが那須十氏(森田氏、佐久山氏、梁瀬氏、福原氏、滝田氏、沢村氏、片平氏、稗田氏、千本氏)となりました。
見所
河岸段丘の崖沿いに築かれており、南北162m、東西132mの単郭で長方形の居館跡です。
周囲は土塁が巡っていましたが、西側の土塁は削られて宅地となっています。南辺の中央が正門で東辺が大手門とされ、北側と南側に空堀が残ります。
郭内も水田となっていますが、国史跡に指定もされています。
      
        2024年08月17日 マグロ常陸介祐平
          戸田城[神田城  周辺城郭]
           
 
           
 
           
 
           
 
           
 
           
 
           
 
           
 
          
          
        神田城から西に1km、片平城から北に2kmに位置するお城で、那珂川町の文化財に指定されていますが、城主や来歴は不明のようです。日本城郭大系には、「江戸時代には笠井氏の拠点となった」とありますが、謎の記述です(建武か大那地の佐竹氏旧臣笠井氏の末裔?)。
入り口が分からず、農作業をしていた方に尋ねたところ、「お堂(写真8枚目)の前の道を山沿いに進み、墓地の先に入り口がある」とのことでしたが、見つからず、黒い廃屋付近から取り付きました。
段々のついた緩やかな傾斜を登ると南北に横堀があり、その先にも横堀、この2筋の横堀は、南側で高さのある土塁を伴う横堀に合流します。その横堀は、その先で別れ、すぐ北側で本丸を囲む堀に合流します。(写真1,2,3枚目、写真分かりづらいですが、横堀の分岐です)
土塁が目立つお城ですが、本丸の土塁は目立ちません。また、土橋が見当たらないので、木橋が架かっていたのでしょうか。
本丸周辺を探索中に突然の激しい夕立ちにあってしまい、北側の曲輪は断念しました。(残念)
小さなお城ですが、遺構の状態は良好で、やや複雑な空堀が素敵なお城でした。
      
        2024年08月16日 マグロ常陸介祐平
          佐良土館[神田城  周辺城郭]
           
 
           
 
           
 
           
 
           
 
           
 
          
          
        豊臣秀吉の小田原攻めに参戦しなかった為に改易となった烏山城主那須資晴が閉居(許されて5000石、のち6000石)していた館です。慶長15年(1610年)に資晴が亡くなると廃城になっています。
先人様の投稿写真では土塁が確認できますが、現在は整備されておらず、1m程に成長した雑草が茂っており、説明板にある「南を除く高さ5m内外の土塁」はよく分かりませんでした。西側の民家の入り口付近の空堀がわずかに見られます(写真4枚目)。
近所の方曰く「雑草がより高く見えるところが土塁だよ」の説明(写真3枚目)で、何となくお城を感じることが出来ました。
資晴公のお墓は玄性寺にありますが、お城のそばにある法輪寺(写真5枚目)にも墓石(写真6枚目,たぶん)が見られます。
      
        2024年01月08日 ファン掃部助トム治郎
          神田城
           
 
           
 
           
 
           
 
          
          
        小さいながらも中世の城館としての地形がしっかりのこり見応えがあります。
      
        2022年06月19日 マグロ常陸介祐平
          神田城
           
 
           
 
           
 
           
 
           
 
           
 
          
          
        国の史跡に指定されていますが、かなり荒れていました。民家や田んぼや会社の敷地と隣接していてとこまで入って良いものかわかりづらい場所でした。土塁は高さがあります。
      
        2022年06月19日 マグロ常陸介祐平
          浄法寺館[神田城  周辺城郭]
           
 
           
 
          
          
        浄法寺氏の館跡です。一部ではありますが、場所によっては2メートルを超える高さの土塁が残っています。
      
        2015年10月09日 武蔵守道灌?!
          神田城
        鳥居をくぐり土塁を登って行くと2枚目の案内板があり、目前の田んぼが屋敷跡です。
稲刈り後の今の時期~田植えの時期までなら土塁を郭内へと降りて、あぜみち沿いに散策可能です。
奥の南側土塁は高さが有り、空堀に降りてみると7~8mは有りそうで、とても攻め込めません!!(^^ゞ
ただし空堀の向こう側は民家なので、怪しまれないようにご注意を♪(笑)(^^)
      
        2013年12月27日 まさ宮内卿猛虎
          神田城
        国道 293号線と294号線の交差点より、293号線に沿って450M位西側。神田城の信号50M手前の左側に、レストランらしき建物有ります。その駐車場に車を停めて、稲荷神社の鳥居をくぐり抜けると、神田城です。トイレも有ります。
土累と掘り跡は、確認出来ます。平郭内は、農地になってます。
寂しいと思ったのは、桜の木が枯木になり、栄華盛衰を偲ぶ事は、出来るが荒れ地になってるのは、民地だからかな?枯れ木や雑草の手入れが行き届いたなら、憩いの場にもなるのだが、ちょっと残念です。 
      
        2012年07月28日 傾奇揚げ仙兵衛
          神田城
        荒れ果てた水堀と雑草と竹薮に埋め尽くされた土塁が残っているが私有地なのか城郭内に民家ぽい建物在り
      

 
 
  
  
  
  
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