乙畑城(おとはたじょう)
乙畑城の基本情報
通称・別名
- 乙幡城、小幡城
所在地
- 栃木県矢板市大字乙畑
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 乙畑兼房
築城年
- 平安時代後期
主な改修者
- -
主な城主
- 乙畑氏、塩谷氏、小幡氏
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- -
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-
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乙畑城の解説文
[引用元:Wikipedia「乙畑城」の項目]乙畑城(おつはたじょう)は、栃木県矢板市大字乙畑にある日本の城(山城)。平安末期築城、天正18年(1590年)8月30日廃城。乙幡城、小幡城などとも言う。
【概要】
現在、遺構の残る山城の乙畑城は、明応文亀の頃(1501年)に喜連川塩谷氏によって築かれたものだが、それ以前に、堀江氏(源姓塩谷氏)の重臣乙畑六郎兼房により築かれた乙畑城があり、現在は、乙畑城の馬場跡として伝わる乙畑小学校周辺の場所に、館城としてそれがあったものと思われる。その子孫は小幡氏を名乗り、山城の乙畑城の中にある熊野神社にある円形銅板の懸仏には、「応永二十五年(1418年)九月十日 小幡浄賢」の銘があるが、この小幡浄賢は、その子孫の一族であろうが、小幡氏の当主であったかは不明である。
喜連川塩谷氏によって築かれた現在遺構の残る山城である乙畑城は、喜連川塩谷氏の居城喜連川城の出城として築かれたが、要衝の地として重視され、大永2年(1522年)には、塩谷惟朝が立て篭もり、4月15日の戦などを始めとして、宇都宮氏、川崎塩谷氏、大宮氏、君島氏と戦っている。この戦いは翌年まで続き、大永3年(1523年)11月7日、喜連川塩谷氏が、これらの一族と和睦して城を明け渡し、以降、乙畑城は、川崎塩谷氏の出城となる。この時、もしくはこの頃、塩谷孝綱の次男義尾が小幡氏に養子に入り乙畑城主となっており、乙畑城記に記される乙畑孫四郎は、この義尾であると考えられているが定かではない。
その乙畑孫四郎は、永禄2年(1559年)に乙畑信濃守とともに乙畑城を包囲した結城晴朝と乙畑城の総大将として戦い、住民も含めて3000人もの人々を乙畑城や周辺の山々に篭城させて戦ったものの、壮絶な討死を遂げている。乙畑城記は次のように記す。
「高橋かもん(孫四郎の足を)ひさ口より切て落としたり。孫四郎片足にて暫く戦しかいたてなれハ彼所かっぱと臥たり、かもん首を打落し長刀の先に貫大音上げ敵の大将孫四郎高橋かもん打取ったりと呼ばりたり・・・」
(結城方の武将高橋かもんは、孫四郎の膝より下を切り落とし、片足で戦っていた孫四郎の首を討ち取って、首を自分の長刀(なぎなた)の先に貫き刺して、大将首を取ったと声をあげた)
この時、乙畑城は落城するが、その後結城勢は撤退し、再び乙畑城は川崎塩谷氏の支城となるが、義尾の次男小幡右近大夫義勝の時代を経て、小幡孫七(豊後豫)高升の時代の天正13年(1585年)7月13日、那須勢約1200騎に城が攻められると、高升は、嫡男太郎行安を人質に差し出して降伏。城を那須方に明け渡し、同年10月20日、城は、再び喜連川塩谷氏の出城となる。
また、天文14年(1545年)7月7日付けの宇都宮尚綱の小宅高尚と関沢弥五郎宛の2通の感状が、乙畑城の軍功を讃えるものであることから、この頃にも乙畑城に戦があったものと考えられている。さらに、常陸国の佐竹氏の文書である東州雑記には、天正2年(1574年)7月付けの記述で「塩谷兵部(塩谷孝信)ヲツハタ(乙畑)へ打入、其後那須ト塩谷立合ニナル」とあり、北下野各勢力の最前線として、乙畑城は北関東の戦略拠点のひとつとして位置づけられ、度々戦禍にさらされていた事がうかがえる。
しかし、天正18年(1590年)8月30日、小田原征伐に参陣しなかった喜連川塩谷氏が改易されると、乙畑城も廃城となった。
【乙畑城主小幡氏の出自について】...[続きを見る]
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