佐久山城(さくやまじょう)
佐久山城の基本情報
通称・別名
- (佐久山陣屋)
所在地
- 栃木県大田原市佐久山4458
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 佐久山氏(那須)泰隆
築城年
- 文治3年(1187)
主な改修者
- 福原資倍(佐久山陣屋)
主な城主
- 佐久山氏、福原氏
廃城年
- 永禄6年(1563)、明治2年(1869)(陣屋)
遺構
- 曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- 市史跡(佐久山城跡)
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
御前原城(栃木県矢板市)[5.9km]
矢板城(栃木県矢板市)[7.1km]
大田原城(栃木県大田原市)[7.3km]
川崎城(栃木県矢板市)[8.1km]
乙畑城(栃木県矢板市)[8.7km]
倉ヶ崎城(栃木県さくら市)[9.9km]
神田城(栃木県那須郡)[12.3km]
黒羽城(栃木県大田原市)[12.3km]
大宮城(栃木県塩谷郡)[14.2km]
玉生城(栃木県塩谷郡)[14.6km]
佐久山城の解説文
佐久山城の口コミ情報
2025年03月29日 昌幸近江守更に吉
福原要害城[佐久山城 周辺城郭]
箒川沿いに築かれた福原城の背後の山にある福原要害城。
福原城は寿永4年(1185)屋島の戦いで活躍した那須与一宗隆の兄弟が治めた頃から存在し、室町時代に那須資之と資重の兄弟の不和が原因で、実に100年に及ぶお家騒動を引き起こします。福原城は兄・資之の拠点となった城です。
※資之が「上那須」氏、資重が「下那須」氏と呼ばれ、上那須氏の断絶により以後は下那須氏が本流となっていきます。
その拠点を守る福原要害城の縄張りは、4つの郭を深い空堀で遮断しており、主郭と2郭は土塁で囲まれています。特に主郭の土塁は異様な高さで、案内いただいた城友様に「立派な切岸があるんですね」と言ってしまう程でした。
駐車スペースを探すのが難しいのと、薮城なのでいろいろ妄想できる方向けのお城です。
【写真の説明】
①2郭の腰郭。劇場のような高い切岸。
②2郭横堀から竪堀が伸びる。
③主郭土塁。
④主郭土塁は分厚い。櫓が建っていたはず。
⑤堀越しに3郭から主郭を見る。木橋が架かっていたような凹み。
⑥主郭-3郭間の空堀
⑦3郭空堀から伸びる竪堀。
⑧主郭空堀。
2022年06月19日 マグロ常陸介祐平
福原城[佐久山城 周辺城郭]
那須氏の藩主時代の陣屋があったようです。現在はほとんどが更地と畑になっていますが、北東の竹藪には切岸のような地形と防衛に適した深い沢が確認できます。
2022年06月19日 マグロ常陸介祐平
玄性寺[佐久山城 寺社・史跡]
このお寺のそばに、幕末まで参勤交代をしていた交代寄合那須氏の陣屋があったようですが、不思議なことにどこにあったかわからなくなってしまったのようです。お寺には、那須与一の供養塔のほか那須氏数代の墓や那須氏につきものの弓道の施設があります。
2022年06月19日 マグロ常陸介祐平
佐久山城
御殿山公園として整備されていて曲輪や堀切がよく残っています。近くの実相院には福原氏歴代の墓があります。
2022年04月24日 ≪愛≫重虎
佐久山城
佐久山小正門、西に駐車場止めて30~40m登ったところから公園に入れます。
2021年05月05日 ファン掃部助トム治郎
佐久山城
小学校の裏山、御殿山公園になっていまして散策すると気持ちよいです。
2020年07月22日 大隅守上
沢村城[佐久山城 周辺城郭]
遺構は良子に残ってますが
藪が酷いです。
2019年10月09日 雑賀
佐久山城
全く気にしたこともなかった佐久山城、近隣を走ったついでに訪れました。
現在は御殿山公園として整備されており、駐車場やトイレもあります。
向かう道にも城址としての案内板は一切なく、公園に入ってからもどちらへ向かえばよいのか少し迷いました。
奥へ入っていくと、ようやく【佐久山城】の碑と歴史が記載された案内板があります。
ただの散歩道かなと期待もせずに進むも、思いのほか楽しめました。
遊歩道の階段を登るといつのまにか土塁の上だったり、けっこうな高低差で曲輪に下りたり…。
バラ園になっている広い曲輪、整備されてない籔側には高い土塁から深い堀へと見所が隠れています。
前述の通り、縄張り図などは一切ありませんのでネットで情報を入手なさってから赴くのが見落としもなく満喫できるかと思います。
2015年11月18日 まさ宮内卿猛虎
佐久山城
今の時節には、珍しくもないが、城のライトアップと地産地消の農産物特売会を開催中。
紅葉の大木が葉を携え訪問者を待ってます。春は桜*夏は花【皐月.菖蒲.他】*秋は紅葉【楓.皐月】と園内を賑わします。
観光スポットの感じさえします。
2013年10月25日 まさ宮内卿猛虎
佐久山城
佐久山城は、那須家の居城です。
源平合戦、屋島の戦いは歴史書にも有ります。その戦いで源平の矢合戦の休止を付いて、平家側から美女の乗る小舟が現れ、『竿先の扇の的を射よ』と挑発。外せば源氏の名折れになる。義経に指名された武将は辞退。那須与一はやむなく引き受け、海に馬を乗り入れて弓を構え、『南無八幡大菩薩』と唱え、射損じれば腹を切り自害を覚悟して、鏑矢を放った。矢は見事に赤い扇の的を射抜き、扇は空を舞った。話しは有名です。
与一は、空を飛ぶ雲雀をも弓で射た話しも有ります。
永禄年間には福原資孝が佐久山城攻めて落城させ、その後元禄年間は子孫の福原氏子孫の福原資倍が佐久山城を修復して入城、以後、城下町の機能を併せ持つ宿場となる。