黒羽城(くろばねじょう)
黒羽城の基本情報
通称・別名
- 九鶴城、(黒羽陣屋)
所在地
- 栃木県大田原市前田
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 大関高増
築城年
- 天正4年(1576)
主な改修者
- -
主な城主
- 大関氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)
指定文化財
- 市史跡(黒羽城址)、市有形文化財(黒羽城鳥瞰図)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
大田原城(栃木県大田原市)[7.7km]
伊王野城(栃木県那須郡)[10.9km]
佐久山城(栃木県大田原市)[12.3km]
神田城(栃木県那須郡)[13.0km]
芦野城(栃木県那須郡)[13.7km]
武茂城(栃木県那須郡)[14.9km]
御前原城(栃木県矢板市)[18.1km]
矢板城(栃木県矢板市)[18.6km]
倉ヶ崎城(栃木県さくら市)[18.9km]
川崎城(栃木県矢板市)[20.1km]
黒羽城の解説文
[引用元:Wikipedia「黒羽城」の項目]
黒羽城(くろばねじょう)は、現在の栃木県大田原市にあった日本の城である。別名は九鶴城。
歴史・沿革
黒羽城の起源は、1576年(天正4年)に大関高増が白旗城から本拠を遷した事から始まった。
1590年(天正18年)の小田原征伐の際、主家の那須氏の那須資晴は小田原へ参陣しなかった為に改易されたものの、大関氏の当主である高増は、弟である大田原氏の当主大田原綱清の息子大田原晴清と共にいち早く参陣して所領を安堵(1万3000石)された。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいて大関氏は東軍に与したので、戦後に徳川家康から加増されて1万9200石の大名となった。また、関ヶ原の戦いのとき、徳川家康が会津の上杉景勝に対する備えとして大規模な改修が行われた。
1664年(寛文4年)に江戸幕府4代将軍徳川家綱からの領知朱印状によって、大関氏の石高は1万8000石に確定となり幕末まで変更はなかった。
1689年(元禄2年)に、松尾芭蕉が奥の細道の旅行中に4月3日から4月16日まで最長の14日間、城下に滞在した。
江戸時代を通じ、関東では珍しく外様大名の大関氏の支配は続いた。
1871年(明治4年)、廃藩置県により廃城となった。
構造
西は那珂川とそれに沿った崖に面し、東には松葉川が流れる丘陵の上に築かれ、本丸、中の丸、北の丸からなる内城を三の丸が囲むように配置された。
黒羽城跡は現在、黒羽城址公園となっていて空堀・土塁などが良好な状態で保存されている。三の丸には黒羽芭蕉の館[1]がある。
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黒羽城の口コミ情報
2023年02月05日 ≪愛≫重虎
黒羽城
黒羽体育館前の道を入っていくと本丸最近の駐車場に行けます。
2022年08月03日 天下主計允直柔
根小屋城[黒羽城 周辺城郭]
城郭構造 平城
築城主 金丸肥前守資国
築城年 正平年間(1346~70)
主な城主 金丸氏
遺構 土塁
所在地 大田原市南金丸字根小屋
規模 1.5ha
【歴史】
根小屋城は、南金丸の平地に築かれ南北に長い長方形の居館で那須神社の東約1キロ、竜花館(竜花とは、要害の訛り。金丸玄蕃頭の築城と伝えられる)の北側にある。
西側から北側には高さ約4mの大規模な土塁があり、回りを水堀が水路となっている。東側は高い城塁があり裾部には水堀が水路となって残っている。
南側は、相の川に接し周囲を土塁で囲まれた郭が見られ元々は本郭の一部であったと思われる。
この城は、正平年間(1346~70)那須資藤の次男・資国がこの地を分地され金丸肥前守資国と名乗り築城したと言われており、資国は金丸氏を称し、金丸氏の祖となった。(那須の戦国時代 より)
「日本城郭体系」や「栃木県の中世城館跡」ではその後、資国は応永年間(1394年〜1428年)に大関氏が白旗城に移った際に片田郷(市内の片田)亀山の地を与えられ、金丸氏も金丸氏要害(片田)を築城し居城としたため当城は廃城となったとあるが、「那須の戦国時代」では、資国の時に堅田郷(片田)を与えられ、堅田義隆(那須資隆の子)が築いた城を修築して移り住み、金丸氏代々の居城金丸氏要害を築いて移ったとある。
1560年頃からは大関高増を中心とする上那須勢と那須資胤が対立し、1566年には佐竹氏が宇都宮氏と上那須勢と連携して那須資胤と戦い(治部内山の戦い)佐竹氏が敗北。
この戦いで『那須記』では上那須勢の中に「金丸備前守」、那須軍の中には「金丸下総守」の名前が確認でき金丸氏は分裂していたようである。
翌1567年佐竹氏は再び那須に侵攻(大崖山の戦い)この戦でも上那須勢は佐竹氏に味方しており、金丸氏が分裂している様子が伺える。
1590年豊臣秀吉の小田原攻めの際、大関高増が秀吉に謁見し金丸氏を家臣として申し出たことで金丸氏の所領は大関氏の所領に組み込まれた。
その後、関ヶ原の戦いでは大関氏から徳川家康に対し金丸資貞(資満)の妻を人質として江戸に出している。
現在は、2軒の民家に土塁と堀が巡り水田と宅地に土塁の一部が残るだけで土塁は遠くからでもすぐ目に入るほど存在感がある。
2022年08月03日 天下主計允直柔
川田館[黒羽城 周辺城郭]
形態 居館
築城主 河田六郎資成
築城年 不明
主な城主 河田氏(川田氏)
遺構 「栃木県の中世城館跡」においては、堀の跡
も認められる。とあるが確認はできない。
所在地 大田原市川田字榎平
【歴史】
川田館は、県道179号線を北上し県道34号線に突き当たるあたりの西南側一帯、那珂川と黒川の合流地点の東側一帯に築かれていたという。
川田館は、下野の名族那須氏の一族河田氏の居館であり、築城年代は定かではないが河田六郎資成(川田)によって築かれたと云われる。
河田氏は那須頼資の6男資成が河田を分知され河田太郎と名乗ったことに始まり、川田館は那須6氏の一員
であった川田氏の居館である。
また、川田氏は那須氏に従って多くの合戦に参加している。
川田館跡の現在は、この付近が川田館跡であると推定されるも、基盤整備(土地改良等)によって一面水田になってしまっており、わずかに車道脇に館跡の石碑が立っているだけで遺構らしきものは確認できない。
南側には、高館城址があり高館城はこの河田氏の詰城とみられている。
河田氏は那須氏に従って近世までここを拠点として続いたと言われている。
2022年07月26日 天下主計允直柔
白旗城[黒羽城 周辺城郭]
城郭構造 山城
築城主 大関増清
築城年 応永年間(1394年~1428年)
主な城主 大関氏
廃城年 天正4年(1576年)以降
遺構 曲輪、土塁、空堀
所在地 大田原市余瀬335 他
【歴史】
白旗城は、応永年間(1394~1428)に大関増清が、現在の那珂川町松野より移り築いたと言われておりその後、天正4年(1576)に大関高増が黒羽城に移るまで約180年間の城砦であった。
増清が白旗城を築き大関城より移ったのち、11代増雄が八幡館、12代宗増が大関城、13代増次が再び白旗城を改修して移り、天正4年14代大関高増の時に黒羽城を築城し居城を移している。当時の城郭は、土塁、堀等で原形をしのぶことができるが、現在は杉林におおわれている。
白旗城は、湯坂川に沿って南東方向に舌状に伸びた白旗丘陵の突端部を利用した連郭式の山城で、南端の丘陵突端から郭が6つあり、北に向かうに従い次第に大きくなっている。これら郭の間には土塁と空堀がめぐらされ、東側には付け郭(馬場)がある。
城の北端は加茂神社あたりで南東に向かって二の丸・本丸と続きその先にも数郭の曲輪が連なっている。
本丸はほぼ中央にある曲輪で愛宕神社が祀られ、二の丸は中央部に浅い堀状の溝があり南北に区画され、南端と北端の堀に面して土塁が残っている。
現在、本城・二の丸・北城などの地名も残っており、北城の北側には大雄寺跡、南三の丸の東には帰一寺(きいちじ)跡がある。
白旗の地名は、源頼義が奥州の安倍頼時討伐の際、この山頂に白旗をひるがえし軍を揃えたことにはじまり、源義経も奥州の藤原秀衡のもとから、鎌倉の兄頼朝の旗上げにはせ参じる際にこの山に立ち寄ったといわれている。
余瀬(よぜ)の地名は、この地で軍勢を寄せ集めたことから寄勢と称され、後に余瀬と改められたといわれており、この集落には新善光寺跡・光明寺跡・大正院跡などがあり、城郭内外の要所に寺院が配置されていた。
【アクセス】
白旗城址には、国道461号線沿いの「道の駅 那須与一の里」から東へ約850m進み信号のある丁字路(ファミリーマート)を左に曲がり、約1.6㎞余瀬地区を目指して北上すると左側に白旗城跡(本城山)の案内板が設置されていて、すぐ近くには駐車場もある。
2022年07月25日 天下主計允直柔
白旗城[黒羽城 周辺城郭]
夏真っ只中、白旗城址🏯は雑草が生い茂り遺構などを確認することはできませんでした。
確認するというよりは、城址に入っていくことができませんでした。
近くの加茂神社⛩は、ある程度整備されていていました。
また、秋以降に白旗城の確認に行ってきます。
2022年04月11日 播磨守こうちゃん播磨の守
黒羽城
白河市から国道294号線を南下💨国道から道標有ります☝️現地、無料駐車場に🚻有ります☝️
2021年10月25日 国府左京大夫城介
大田原市観光協会[黒羽城 その他]
黒羽城周辺のレンタサイクル情報
【場所】
大田原市観光協会(大田原市役所黒羽庁舎内)
西那須野駅から「五峰の湯」行きに乗り、黒羽支所で下車。
那須塩原駅から「雲厳寺前」又は「黒羽高校」行きに乗り、黒羽支所で下車。
【貸出時間】
8:30~17:15
【時間及び料金】
無料
【種類】
シティサイクル
【Web情報】
大田原市観光協会のサイトには内が、口コミサイトに情報あり。
【利用日】
令和3年3月6日
【アクセスできる城】
・アプリ登録
黒羽城
・口コミ登録
岩谷要害
【参考事項】
・やや坂が多いので、シティサイクルだと大変な場所もあり。
2021年09月26日 戸沢夜叉九郎正樹
黒羽城
本丸と二の丸の間の堀切は圧巻の一言に尽きます。約10メートル位の深さがあり圧倒されました。本丸にある櫓もあって何となく高遠城と雰囲気が似ているかなと。
2021年05月05日 ファン掃部助トム治郎
黒羽城
那珂川左岸の台地上にあります。見晴らしよく那須、日光連山が眺められます。近くの大雄寺には大関家代々の墓が連座しなかなか圧巻です。
2020年06月29日 龍馬備中守【】
岩谷要害[黒羽城 周辺城郭]
栃木県の大田原市にある岩谷要害☆
岩谷観音の背後にある山上に岩谷要害はあります☆北に直線距離で1キロ位の場所かな?築城主は那須氏の重臣角田氏☆
角田氏は後に黒羽城の大関氏の家臣になります☆元々はここにあったみたいですが、関ヶ原の戦い時に(東の関ヶ原)で上杉景勝が攻めてくるかも☆まずい☆急いで拡張☆したのが今の岩谷要害の姿とも伝わってます☆
那珂川と松葉川に挟まれた丘陵先端に位置していて大きくは主郭、副郭、三郭で構成されていて随所は堀切によって区画されています☆直線的に段状の郭を配置した連郭式城郭です☆各郭の東西には長大な横堀を巡らせ竪堀と連携して強い防御力を誇ります☆陸続きの北西側には堀を巡らした腰郭を配置し弱点を補強してます☆
2020年05月24日 クルス秋田城介トッツィー
鹿子畑翠桃邸跡[黒羽城 寺社・史跡]
翠桃(豊明)は兄である城代家老浄法寺高勝(桃雪)と共に、芭蕉翁の黒羽滞在をもてなしたそうです。
2018年01月13日 【籠城中】下野守智ぞう
黒羽城
芭蕉の館後ろから入る遺構群、
まだ完全に確認されていない遺構のようです。しかし技巧的にしっかり作り込んだ感あり、かなりやる気がある感じがして未確認ながら良く残ってます。
特に曲輪から三角枡形に誘い込むような見たことないような遺構とか
素晴らしいとしか言いようがありません。
こっちがメインと言う気さえしますねー。
黒羽城に来られた方はこちらも是非
2018年01月11日 【籠城中】下野守智ぞう
黒羽城
黒羽城の芭蕉の館裏手にものすごい、土の遺構あります!いやー、マジですごいくらいです!休憩所と書いてある門の先ですよ
2016年11月03日 まー刑部卿
黒羽城
黒羽城会所跡に無料駐車場とトイレ有り。体育館のところが二の丸跡で土塁や井戸跡がある。本丸跡に模擬櫓風の展望台が有りますが本丸跡側は良く見えません。三の丸跡に芭蕉の里があり芭蕉と曾良像がある。黒羽城跡から芭蕉の里方面をしばらく歩くと左手に『稲荷神社』がありそこに土塁・水堀跡の標柱が建っていましたが水堀跡は確認出来ませんでした。
2016年11月03日 まー刑部卿
高館城[黒羽城 周辺城郭]
高館トンネル出たところの駐車場に駐車し向かい側から城跡へ登る。藪こぎし城跡公園の駐車場に出た。帰りは舗装された道路を下る。先人も書かれているがやはり『有料老人ホーム 高館の森』もしくは『虹の里デイサービスセンター』の看板があるところから舗装道路を上っていくと手前に神社がある駐車場もありますが更に奥にトイレのある駐車場があるので実際に訪れたい方はこちらの駐車場がオススメです。舗装道路は車一台分の道幅ですが下りて行くときは一台も見かけませんでした。
2015年07月09日 まさ宮内卿猛虎
高館城[黒羽城 周辺城郭]
高館城攻略に、道の駅那須与一《461号線沿い》がお勧め。建物の屋根は、扇を広げた感じ。其処の駐車場に、鵜黒に跨がり矢を射る与一銅像有り。矢の飛ぶ南南西方角には扇の的。源平合戦を偲ぶ様に造られてます。
併設の与一伝承館には、与一が那須神社に奉納した刀剣《源平合戦に持参…重文…国宝かな?》が有る。
那須家のかっての祈願所那須神社は、市道を挟んで東側に有る。源平合戦後与一が改修し、後大関高増が大改修、大関家の祈願所とした。
昨年、神社建物が国指定文化財に登録、松尾芭蕉訪問にて国の史跡指定となった。
2014年12月10日 まさ宮内卿猛虎
高館城[黒羽城 周辺城郭]
那須家開祖、資隆公は、居城に相応しい場所を探していた。《稲積城・福原城・白旗城(大関家が黒羽城を築城する前に、居住した…大関家が白旗城に移る前に、那須家が大館城として利用?=白旗古城?…源氏の東北の族征伐に白旗にある加茂神社で祈願・義経も祈願したとか》複数の歴史研究家が書物にて発表済み。
よって、資隆の十一男那須与一の足跡が、上記の城郭の周辺に沢山有ります。大館城(白旗古城)に居城しながら、高館山に築城とされ、其処には重臣に住まわせ、要害城として建てられたものと、考えられます。那須家の樣な大家族が居城とするには、場所が狭すぎです。
梶原景時に攻められるが、落城には2〜4ヶ月を要したとか?与一の兄達九人が、城を守備していたが、討死者は無く全員逃亡した。後に、那須に戻り兄達に近隣を分地し、那須家発展の礎となった。
2014年03月30日 こにみん
高館城[黒羽城 周辺城郭]
高館城跡は、県道179号線の高館トンネルの上が城跡。登城口は、トンネルの北側に高館城跡公園1.3kmの道標があるが老人ホーム入口と同じでこちらの方が目立ちます。道は舗装されていて山頂近くまでいけますが道幅は1台分ちょっと。10台程度の駐車場あり。ただ、雪と強風の影響と思われる倒木や枝ちぎれが多々あり大変でした。なお、公園とのことですが、あまり整備されていない様子でした。
2014年01月02日 まさ宮内卿猛虎
黒羽城
黒羽城は、年間を通し楽しみを味わえます。
春は桜、夏は紫陽花と鮎《那珂川の釣りと鮎の食》、秋は紅葉。
隣の三の丸は、芭蕉の館として利用してます。此処に俳聖松尾芭蕉は、体調UPや付近探索の為、異例の14日間の連泊です。
更に此処では、俳句の投稿受付をしてます。誰もが、投稿可能です。私もUPしてます。
2013年12月30日 まさ宮内卿猛虎
高館城[黒羽城 周辺城郭]
源平合戦の弓の名手与一の父親、那須四代資隆公による築城。 東国武士の元祖的存在です。那須家が繁栄の頂点に有ったのは、室町時代で関東八屋形《佐竹・結城・宇都宮・那須・小山・千葉・長沼・小田》に数えられた時期でしょう。家臣や一族に恵まれて那須七騎《一族…千本・烏山・芦野・伊王野・福原 家臣…大田原・大関》と称される武将に、取り囲まれてました。 戦国の世の中でしたから、良い事は続かず内部分裂で、組織はズタズタになります。一時期は、本家のお家断裂の危機も有りました。家臣の援助にて再興されますけど。
2013年09月29日 ばしこん
黒羽城
駐車場・トイレ共に完備しております。城跡専用の駐車場より側にある黒羽体育館の駐車場を抜ければ本丸側にも同じく駐車場・トイレ共に完備しております。ただし自販機は在りませんので各自で用意しましょう。ここはあじさいが沢山植えて在るので、観光がてらなら6月が最適でしょう。
2012年07月07日 半日皇帝下野守
黒羽城
2012年7月7日攻略。6月下旬〜7月上旬は、城址公園を中心に「あじさいまつり」が開催されており、とても見頃です。
黒羽城の周辺スポット情報
本丸(遺構・復元物)
矢倉(遺構・復元物)
三の丸の腰郭?(遺構・復元物)
本丸枡形(遺構・復元物)
本丸土塁(遺構・復元物)
堀切(遺構・復元物)
本丸空堀(遺構・復元物)
土塁(遺構・復元物)
堀跡(遺構・復元物)
白旗城跡説明板(碑・説明板)
説明板(碑・説明板)
根小屋城(周辺城郭)
白旗城(周辺城郭)
高館城(周辺城郭)
岩谷要害(周辺城郭)
金丸氏要害(周辺城郭)
久保城(周辺城郭)
青木要害(周辺城郭)
川田館(周辺城郭)
亀山城(周辺城郭)
鹿子畑翠桃邸跡(寺社・史跡)
大雄寺(寺社・史跡)
大関家代々墓地(寺社・史跡)
雲厳寺(寺社・史跡)
トイレ(トイレ)
トイレ(トイレ)
駐車場(駐車場)
大田原市観光協会(その他)