白旗城
白旗城([黒羽城 周辺城郭])
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白旗城の口コミ情報
2025年03月11日 昌幸近江守更に吉
地元豪族大関氏が黒羽城に移る前の居城です。歴史については先人様が詳しく述べられています。那須氏傘下でありながらも敵対していた佐竹氏と単独講和を結んだ経緯があり、永禄年間には佐竹義昭がこの城を拠点としたようです。
縄張りは台地を堀で切った連郭式の城です。主郭と一番大きな3郭下は、堀が交差したり折れたり非常に複雑になっています。奥に進むに従い、堀は深く土塁は厚くなっていき破壊力を増していきます。一番奥の4郭は囮の堀があり曲がった先は行き止まりになっていて技巧的な遺構も見られます。
車はGoogleマップでの松尾芭蕉の“句碑説明版”の隣に駐車場がありそこに2台駐車可能です。そして背後の台地を目指していきましょう。
【写真の説明】
①出丸(台地の先端の郭)-2郭間の堀
②主郭-2郭間の堀
③主郭-3郭間の堀
④3郭下。堀が折れ敵方は見通しが悪くなる。
⑤3郭の4郭に面する土塁。分厚い。
⑥3郭-4郭間の堀
⑦4郭横堀。小振りで通路のようだが…
⑧4郭横堀は直角に折れ、その先は行き止まり。囮の堀だ。
2022年07月26日 天下左京亮直柔
城郭構造 山城
築城主 大関増清
築城年 応永年間(1394年~1428年)
主な城主 大関氏
廃城年 天正4年(1576年)以降
遺構 曲輪、土塁、空堀
所在地 大田原市余瀬335 他
【歴史】
白旗城は、応永年間(1394~1428)に大関増清が、現在の那珂川町松野より移り築いたと言われておりその後、天正4年(1576)に大関高増が黒羽城に移るまで約180年間の城砦であった。
増清が白旗城を築き大関城より移ったのち、11代増雄が八幡館、12代宗増が大関城、13代増次が再び白旗城を改修して移り、天正4年14代大関高増の時に黒羽城を築城し居城を移している。当時の城郭は、土塁、堀等で原形をしのぶことができるが、現在は杉林におおわれている。
白旗城は、湯坂川に沿って南東方向に舌状に伸びた白旗丘陵の突端部を利用した連郭式の山城で、南端の丘陵突端から郭が6つあり、北に向かうに従い次第に大きくなっている。これら郭の間には土塁と空堀がめぐらされ、東側には付け郭(馬場)がある。
城の北端は加茂神社あたりで南東に向かって二の丸・本丸と続きその先にも数郭の曲輪が連なっている。
本丸はほぼ中央にある曲輪で愛宕神社が祀られ、二の丸は中央部に浅い堀状の溝があり南北に区画され、南端と北端の堀に面して土塁が残っている。
現在、本城・二の丸・北城などの地名も残っており、北城の北側には大雄寺跡、南三の丸の東には帰一寺(きいちじ)跡がある。
白旗の地名は、源頼義が奥州の安倍頼時討伐の際、この山頂に白旗をひるがえし軍を揃えたことにはじまり、源義経も奥州の藤原秀衡のもとから、鎌倉の兄頼朝の旗上げにはせ参じる際にこの山に立ち寄ったといわれている。
余瀬(よぜ)の地名は、この地で軍勢を寄せ集めたことから寄勢と称され、後に余瀬と改められたといわれており、この集落には新善光寺跡・光明寺跡・大正院跡などがあり、城郭内外の要所に寺院が配置されていた。
【アクセス】
白旗城址には、国道461号線沿いの「道の駅 那須与一の里」から東へ約850m進み信号のある丁字路(ファミリーマート)を左に曲がり、約1.6㎞余瀬地区を目指して北上すると左側に白旗城跡(本城山)の案内板が設置されていて、すぐ近くには駐車場もある。
2022年07月25日 天下左京亮直柔
夏真っ只中、白旗城址🏯は雑草が生い茂り遺構などを確認することはできませんでした。
確認するというよりは、城址に入っていくことができませんでした。
近くの加茂神社⛩は、ある程度整備されていていました。
また、秋以降に白旗城の確認に行ってきます。