大田原城

(おおたわらじょう)

通称・別名

龍城、龍体城、前室城

所在地

栃木県大田原市城山2

城郭構造
平山城
天守構造
築城主
大田原資清
築城年
天文12年(1543)
主な改修者
主な城主
大田原氏
廃城年
明治6年(1873)
遺構
土塁、堀、曲輪
指定文化財
市史跡(大田原城跡)
再建物
周辺の城
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高館城(大田原市) 9.6km
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御前原城(矢板市) 11.9km

大田原城口コミ情報

まさ大膳大夫猛虎 様[2017年04月20日]
今まで、駐車場がなく路駐したりしてましたが、お城山下に有った消防署が移転し、旧消防署は移転。其処に駐車場が出来ました。数十台停車可能です。

まー左京大夫様[2016年11月03日]
駐車場はなかったがいくつか置けそうなスペース有り。千石倉跡のところに二台、坂下門の土塁に一台置けます。置けない場合は坂下門前・三日月堀前にあるところに駐車出来ます。

まさ大膳大夫猛虎 様[2016年05月19日]
大田原城跡は、草木の手入れが良くされています。本丸は周囲が3~5Mの土塁に囲われ、3つの曲輪、3つの郭からなります。北東側は蛇尾川、北西側は461号線《日光北街道》に面し、南に平山城、比高25M程度が有る。本丸土塁迄は、川床から35M程度。
戦国期に、大俵資清公が水口城《現日赤病院北側に土塁残存》から、築城し移った。築城後に大田原と改名する。
江戸期には、幕府の意向で食糧庫を増設《上杉対策の為》し備蓄米を貯蔵した。江戸期に末まで戦禍も無く世襲した。
幕末には、新政府軍に参加の意向を示した。その為、戊辰戦争で、会津藩に攻められ、城下と三の丸を焼失。其を見た会津藩は引き上げた。以後、廃藩置県迄存続。

まさ大膳大夫猛虎 様[2014年12月11日]
戦国・江戸期の勝ち組と言えば、どの大名家かな?
幕府の直轄領や譜代大名は別にし、戦国の激動期に産声を上げ〜明治の廃藩置県迄、存続した大名家は、大田原家・大関家以外に有るだろうか?
大田原家は、戦国期には、那須家の重臣として、主家を盛り上げてました。
黒羽大関家に、大田原資清公の長男高増を大関に養子にし、次男を那須福原家(上那須)に養子に出しだ。大田原家は3男が家督相続です。
当時の那須家は、下那須家に実権を奪われ、上那須家は没落していた。大田原家は、那須七騎中最大級の発言力を得て、反対派の武将を大田原・大関の両家は封じ込め、上那須を盛り返し大名にさせた。 福原家は、再度の家督相続問題で、旗本・交代寄合として明治を迎えた。
大田原・大関の両家は、小大名家で有りながら、幕府の支援・保護《上杉対策として》も有り、廃藩置県迄存続した。大田原家を戦国・江戸期の勝ち組と言いたい。

田部朝臣土持左衛門佐様[2013年12月10日]
城自体は公園として整備されており、車で侵入する事が可能ですが、残念な事に駐車場は有りませんし、下手に二の丸近辺まで踏み込んでは廻すスペースもありませんから要注意。
土塁は極めて高く、本丸が完全にすり鉢になっていて、土塁というよりは壁の印象を受けます。よく崩れなかったと感心します。
残念なのはなにこれ?なステージ。

まさ大膳大夫猛虎 様[2013年10月25日]
本丸周囲は沢山の桜の木で覆われ、時節には花見で賑わいます。ライトアップされ、深夜まで酔い客でいっぱいです。
大田原は那須野が原の中核都市です。昭和30数年迄、十字交差点の中央に鐘灯籠が敷設されていたが、交通量増で今は路肩に移転。下部には道標(江戸・白河)の案内も有ります。その昔、道の中央には掘り割りが有り両側が、道路であったとか?
50年位前かな?TV番組の琴姫七変化では、旧大田原が紹介されました。上記の番組に掘り割りが映し出されてました。旧町名では、寺町・大手・元町・上町・仲町・下町・大久保・荒町・鍛治屋等有り、町名から過っての城下を忍ぶ事ができます。

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