大田原城(おおたわらじょう)

大田原城の基本情報

通称・別名

龍城、龍体城、前室城

所在地

栃木県大田原市城山2

旧国名

下野国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

大田原資清

築城年

天文12年(1543)

主な改修者

主な城主

大田原氏

廃城年

明治6年(1873)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡(大田原城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

佐久山城(栃木県大田原市)[7.3km]
黒羽城(栃木県大田原市)[7.7km]
高館城(栃木県大田原市)[9.6km]
矢板城(栃木県矢板市)[11.7km]
御前原城(栃木県矢板市)[11.9km]

大田原城の解説文

大田原城(おおたわらじょう)は、1543年に大田原資清によって下野国大田原の蛇尾川西岸、比高約25メートルの龍体山に築かれた平山城

概要
城郭配置は北から北曲輪、本丸、二の丸、三の丸とし、大手は西の奥州街道に面した。

関ヶ原の戦い時の戦功による5000石加増により大田原藩が立藩され、明治維新まで累代大田原氏がこの城を拠点としてこの地を治めた。

戊辰戦争の際、大田原藩は新政府軍につき本城は対会津攻めの重要拠点視され、1868年(慶応4年)5月、旧幕府軍による攻撃を受けて三の丸が炎上した。1873年、廃城令により廃城。

城址は1961年12月8日に大田原市の史跡に指定され、花見の名所として大田原市民に親しまれている。

大田原市旧市街地には城下町時代の往時を偲ばせる敵の来襲に備えた狭い道、鍵型に曲がった道などの面影が随所に残る。江戸時代中期の大田原城城門は大田原氏の菩提寺でもある大田原市光真寺の門として移設されていたが、現在の光真寺大門は1825年に焼失したものを再建したものである。

大田原城の北1.5kmの大田原市町島字水口の水田地帯には大田原城築城以前の大田原氏の館である水口(みなぐち)館跡がある。また、同市佐久山には那須氏の那須資隆の次男・那須泰隆(やすたか)が1187年(文治3年)に築いた佐久山城跡がある(現在は御殿山公園)。いずれも1961年に大田原城跡と共に大田原市の史跡に指定されている。

大田原城の口コミ情報

左京進ダンゾウ様[2017年07月19日]
駐車場らしき砂利敷スペースを尻目にバイクで登坂すると地元の自転車を押した奥様方がこれ以上は歩きでしか行けないよ~と親切にも教えて下さいました。
城の解説板まではバイクでも行けましたが時間がないので登城は諦めました。
今度は登城するぞ

まさ大膳大夫猛虎 様[2017年06月29日]
東を流れる蛇尾川は、扇状地であり伏流水の流れる川で、常時水量は少ない河川です。
大田原城築城時は、水対策が必須でした。那須野ヶ原に立地し、城は造っても水無では生活不可と。その為、蛇尾川上流空から疎水工事をした。沿線の住民には、綺麗な侭大田原に通水する事を強要した。防御の為外堀に又飲料水に使用。
明治期の疎水改修工事には、乃木将軍からも援助《乃木神社の灌漑用水溜め池に引き込み》を得たと記録されてます。投稿写真にも有ります。
現在、その水は農業用に利用されてます。480年現役で働き続けているのです。先人の労苦に感謝です。

まさ大膳大夫猛虎 様[2017年04月20日]
今まで、駐車場がなく路駐したりしてましたが、お城山下に有った消防署が移転し、旧消防署は移転。其処に駐車場が出来ました。数十台停車可能です。

まー武蔵守様[2016年11月03日]
駐車場はなかったがいくつか置けそうなスペース有り。千石倉跡のところに二台、坂下門の土塁に一台置けます。置けない場合は坂下門前・三日月堀前にあるところに駐車出来ます。

まさ大膳大夫猛虎 様[2016年05月19日]
大田原城跡は、草木の手入れが良くされています。本丸は周囲が3~5Mの土塁に囲われ、3つの曲輪、3つの郭からなります。北東側は蛇尾川、北西側は461号線《日光北街道》に面し、南に平山城、比高25M程度が有る。本丸土塁迄は、川床から35M程度。
戦国期に、大俵資清公が水口城《現日赤病院北側に土塁残存》から、築城し移った。築城後に大田原と改名する。
江戸期には、幕府の意向で食糧庫を増設《上杉対策の為》し備蓄米を貯蔵した。江戸期に末まで戦禍も無く世襲した。
幕末には、新政府軍に参加の意向を示した。その為、戊辰戦争で、会津藩に攻められ、城下と三の丸を焼失。其を見た会津藩は引き上げた。以後、廃藩置県迄存続。

まさ大膳大夫猛虎 様[2014年12月11日]
戦国・江戸期の勝ち組と言えば、どの大名家かな?
幕府の直轄領や譜代大名は別にし、戦国の激動期に産声を上げ〜明治の廃藩置県迄、存続した大名家は、大田原家・大関家以外に有るだろうか?
大田原家は、戦国期には、那須家の重臣として、主家を盛り上げてました。
黒羽大関家に、大田原資清公の長男高増を大関に養子にし、次男を那須福原家(上那須)に養子に出しだ。大田原家は3男が家督相続です。
当時の那須家は、下那須家に実権を奪われ、上那須家は没落していた。大田原家は、那須七騎中最大級の発言力を得て、反対派の武将を大田原・大関の両家は封じ込め、上那須を盛り返し大名にさせた。 福原家は、再度の家督相続問題で、旗本・交代寄合として明治を迎えた。
大田原・大関の両家は、小大名家で有りながら、幕府の支援・保護《上杉対策として》も有り、廃藩置県迄存続した。大田原家を戦国・江戸期の勝ち組と言いたい。

田部朝臣土持左衛門佐様[2013年12月10日]
城自体は公園として整備されており、車で侵入する事が可能ですが、残念な事に駐車場は有りませんし、下手に二の丸近辺まで踏み込んでは廻すスペースもありませんから要注意。
土塁は極めて高く、本丸が完全にすり鉢になっていて、土塁というよりは壁の印象を受けます。よく崩れなかったと感心します。
残念なのはなにこれ?なステージ。

まさ大膳大夫猛虎 様[2013年10月25日]
本丸周囲は沢山の桜の木で覆われ、時節には花見で賑わいます。ライトアップされ、深夜まで酔い客でいっぱいです。
大田原は那須野が原の中核都市です。昭和30数年迄、十字交差点の中央に鐘灯籠が敷設されていたが、交通量増で今は路肩に移転。下部には道標(江戸・白河)の案内も有ります。その昔、道の中央には掘り割りが有り両側が、道路であったとか?
50年位前かな?TV番組の琴姫七変化では、旧大田原が紹介されました。上記の番組に掘り割りが映し出されてました。旧町名では、寺町・大手・元町・上町・仲町・下町・大久保・荒町・鍛治屋等有り、町名から過っての城下を忍ぶ事ができます。

「発見!ニッポン城めぐり」を始めるには?

「発見!ニッポン城めぐり」は、iPhone・Androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「発見!ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「発見!ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「発見!ニッポン城めぐり」 発見!ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore