森田城(もりたじょう)
森田城の基本情報
通称・別名
- 竜崖城、龍崖城
所在地
- 栃木県那須烏山市森田字輪内
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 森田(那須)光隆
築城年
- 文治3年(1187)
主な改修者
- -
主な城主
- 森田(那須)氏、那須氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
烏山城(栃木県那須烏山市)[4.0km]
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茂木城(栃木県芳賀郡)[11.8km]
武茂城(栃木県那須郡)[12.7km]
神田城(栃木県那須郡)[13.3km]
倉ヶ崎城(栃木県さくら市)[13.3km]
舟戸城(栃木県芳賀郡)[15.6km]
岡本城(栃木県宇都宮市)[15.9km]
森田城の口コミ情報
2024年10月03日 池田紀伊守信輝
曹洞宗 芳朝寺[森田城 寺社・史跡]
武将・那須資隆の長男にして那須与一の兄である那須光隆の開基とされ、800年ほど前に創建されたお寺です。光隆は法名を大雲芳朝居士と号したことから、寺院名は大雲山光隆院芳朝寺という。
那須光隆は1187年に森田の地を分知され、森田城を築いて森田氏を称するようになり、その森田氏の菩提寺として芳朝寺が建立されました
はじめは森田字石原に建てられていたが、森田氏が没落して大田原氏領となってからは大田原氏の菩提寺となり、1703年の大田原清勝の時に現地へと移転された。
2024年10月03日 池田紀伊守信輝
大田原氏累代の墓碑[森田城 寺社・史跡]
芳朝寺境内には、初代増清をはじめ大田原氏累代の墓碑30基が鬱蒼とした木立の中に静かに立ち並んでおり、中世・近世の歴史を物語る貴重な史跡です。
2023年01月02日 大納言Z周防守369
森田陣屋[森田城 周辺城郭]
慶長5年(1600)頃に、大田原城主大田原綱清の次男、増清によって築かれた陣屋。土塁が残っている。JR烏山線、小塙駅から徒歩3,4分程度。駅南側に無料駐車場あり
2021年05月05日 石田大宰帥いしのすけ
森田城
芳朝寺というお寺さんの奥を登っていきます。最初、場所わからず、お寺入口付近にバイクを停めましたが、もう少し進むとちゃんと舗装された森田城見学者用の駐車場がありました。。お寺の池の脇を通って奥に進むと 大田原氏のお墓があります。そこからは 結構きつい登りですが、木の階段も整備されていますので、比較的歩きやすいかもです。途中、首がなんかかゆいと思ったらヒルがついてました。。薄手の服のときは、気をつけた方がいいです。本丸には案内板がありますが、草がのびていたこともあって、眺望はあまりよくなかったです。お寺の池の横を通る時、鳥の鳴き声のような、警報がなりますが、誰も出てきたりはしませんでした。お城見に来たといえば、いいと思います。
2015年06月26日 まさ宮内卿猛虎
森田城
駐車場やトイレは、芳朝寺に有ります。
森田城は、源平戦の数年前に森田地区を分地され、那須《資隆初代、以前は首藤》与一兄弟の長男光隆が築城。
下那須家の一員として、戦国時代迄栄えた。上那須一同《大田原家・大関家・》に千本親子が 謀殺され、下那須は解体。以後は上那須の最重臣大田原家が居住する。
本丸に行くには、山側の墓碑への案内が有ります。蓮池を右手に見て歩を進めると、山の中腹に那須光隆・大田原家の墓碑が有ります。
本丸には、更に山上に登ると行けます。スニーカーで可能。
本丸には、東屋が有り、夏草多く近寄れない。本丸に説明板が有りますが、其処からの眺望も良いです。まるで、弟達を監視する感じさえします。
2012年05月06日 初代征夷大将軍天下一の号
森田城
芳朝寺というお寺に駐車可。森田、大田原氏の墓碑の奥に散策路あります。散策路は良く整備されていて本丸からの眺望も良いです!
2010年06月12日 半日皇帝下野守
森田城
2〜3台駐車可能な駐車場あり。隣接するお寺の脇の遊歩道を登っていくと、大田原氏の墓があり、さらに登ると周辺が一望できる頂上に行けます。