千本城(せんぼんじょう)
千本城の基本情報
通称・別名
- 須藤城、教ヶ丘城
所在地
- 栃木県芳賀郡茂木町町田字尾軽
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 千本為隆
築城年
- 建久6年(1195)
主な改修者
- -
主な城主
- 千本氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、帯曲輪、土塁、横堀(空堀)、番所跡
指定文化財
- 県史跡(千本城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
村上城(栃木県芳賀郡)[3.5km]
茂木城(栃木県芳賀郡)[5.5km]
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烏山城(栃木県那須烏山市)[9.6km]
舟戸城(栃木県芳賀郡)[13.3km]
西明寺城(栃木県芳賀郡)[13.9km]
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野口城(茨城県常陸大宮市)[16.8km]
岡本城(栃木県宇都宮市)[18.2km]
千本城の解説文
[引用元:Wikipedia「千本城」の項目]
千本城(せんぼんじょう)は、栃木県芳賀郡茂木町町田にあった日本の城。
別名を須藤城、教ヶ岡城。 規模は標高240m、東西に90m、南北に370m。
現在は『千本城跡』として栃木県指定史跡になっており、羽黒神社が鎮座し、サクラの名所としても知られている[1]。
概要
那須資隆の十男・為隆が、源氏に属して平家滅亡に功をあげたことで、1195年(建久6年)に千本を領して、教ヶ岡(千本)城を築いて以来、千本氏の居城となった[2]。
1551年(天文20年)1月には、千本資俊が芳賀高定と謀り、那須高資を誘殺する事件の舞台になる。
これが元で、1585年(天正13年)12月8日に、千本資俊および千本資政の父子は、殺害された那須高資の甥・那須資晴の陰謀に会い、烏山の太平寺にて謀殺され、城は落城した。
千本氏は一時断絶し、その後、茂木三郎の二男・義政が千本義隆と称し千本城に養子に入り、茂木系千本氏が誕生する。
1628年(寛永5年)、千本義等の時に、城は炎上したとされる。
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千本城の口コミ情報
2016年10月25日 まー刑部卿
千本城
道がわからなくなり近隣住民の方に聞く。やがて矢印板を見つけ車一台分の道路を進む。後にわかったが方形郭まで車で行けることがわかったが何分初登城のため慎重になり案内板手前にある水道局施設前に駐車。車一台分のスペースはある。徒歩約5分ほどで二の郭に着くが蜘蛛の巣がところどころに張っているので注意が必要。簡易トイレがあった。二の郭の門跡の土塁前に竹藪でよく見えないが空堀があるように見えた。北東部の広場(案内板より)という多分本郭にある羽黒神社手前の杉並木も中々良し。神社周りの土塁やその下の郭や堀切もよく見えたが下に降りはしなかった。
2015年06月13日 まさ宮内卿猛虎
千本城
610年 中国後漢和帝の時蔡倫が紙を発明。高麗の僧曇微が紙漉き術を我が国に。後に樹液から紙を産出。
760〜70年 奈良時代に、下野・常陸に写経紙産地が有った。
901〜22年 下野産紙《位記料紙》が献上。
1213〜18年 那須十郎(千本)為隆が烏山に越前より奉書漉き職人を招き那須奉書を創製。鎌倉時代に関東紙業が勃興、紙漉き栄える。
1590年〜那須三郎資明が《程村紙》を産出…安土桃山時代
1688年 徳川光圀が《紙専売仕法》を始め、以後水戸藩の製紙業は隆盛。西の内書の名が起こる。
1768年 水戸藩の紙問屋が鷲子(美和村)に移る。
1793年 諸国紙日誌に下野・常陸の名称・仕立・枚数が記され、 那須物として江戸に出荷。
1864年 天狗党の乱後、西の内紙の商権は完全に烏山に移行。
1901年 内務省で選挙人名簿投票用紙は、程村紙・西の内紙と定められた。
1970年 烏山教育委員会は程村紙の工芸技術を町重文指定。
1977年 程村紙が文化庁より、無形文化財指定。
2014年12月04日 太田大宰大弐道灌?!
千本城
なかなかわからない千本城址,、地図のポイント付近で怪しげなお寺を発見!!そして案内板があったので、読み込んでいくと、まぁ確かに城址でしたが千本城址ではなかったので運営さんに『場所間違ってない?』とメール♪…暫くすると地図のポイントが道路の右側にずれ、運営さんからお詫びのメールが(笑)…後日あらためてリア攻めできました♪なかなか見応えがありましたよ(⌒‐⌒)