西明寺城(さいみょうじじょう)
西明寺城の基本情報
通称・別名
- 高館城
所在地
- 栃木県芳賀郡益子町(西明寺)
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 益子(紀)氏
築城年
- 鎌倉時代前期
主な改修者
- -
主な城主
- 益子氏
廃城年
- 慶長2年(1597)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
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西明寺城の解説文
[引用元:Wikipedia「西明寺城」の項目]西明寺城(さいみょうじじょう)は、現在の栃木県芳賀郡益子町にあった中世の日本の城である。宇都宮氏の家臣益子氏の居城だった。別名を高館城。
【歴史・沿革】
西明寺城の起源は、西明寺のある高館山に京都から移住してきた紀氏(後の益子氏)が本拠を構えた事から始まった。
南北朝時代には、『結城文書』に「伊佐中郡御城、西明寺城、当城候」と記されており、関城、大宝城、伊佐城、伊佐中郡御城などと並んで、関東六城の一つに数えられ南朝方の最北端の拠点であった。その後、北朝方の攻撃を何度か耐えたが、1352年(正平7年)に関東六城の中で最後に落城した。
戦国時代に入ると、益子氏は一族内で内紛が続発し、衰退への道を歩むことになる。また、主家の宇都宮氏から離反と帰順を繰り返すようになった。
1590年(天正18年)、業を煮やした主君宇都宮国綱は大規模な討伐を実行し、益子家宗を誅殺して益子氏の領地を没収した。この際に廃城となる。
【構造】
西明寺城跡は現在、西明寺の寺域となっている。本堂脇の遊歩道を登っていくと本丸跡に展望台が設置されている。また、空堀なども散見される。[続きを見る]
西明寺城の口コミ情報
2020年02月12日 恭任非参議侍従
西明寺[西明寺城 寺社・史跡]
独鈷山西明寺。真言宗豊山派。
元は「益子寺」という名であったが、北条時頼(=西明寺殿)が本堂を修繕したのを期に、西明寺と名を改める。
宇都宮軍の中心武士団である紀清両党の益子氏(紀氏)の崇敬厚く、現在、楼門、三重塔、本堂厨子が国重要文化財に指定されているが、これら文化財は益子氏滅亡の際に焼失をまぬがれた物であり、焼き討ちをしなかった宇都宮軍の意外な信仰心ぶりが窺えるかも知れない。
御朱印は4種(坂東観音)(下野観音)(下野七福神)(閻魔大王)。閻魔大王の御朱印は有名になりすぎて、書き手の方が体調を崩してしまったので、参拝時間には注意して下さい。
2018年04月09日 栃木応援団下野守智ぞう
西明寺城
西明寺の事務所でオリジナルの笑う閻魔様ご朱印が頂けます。(一面書き600円、二面書き1000円)
受付時間が10:00~14:00(12:00~13:00昼休憩)の三時間ほど。
人気ご朱印と思われますので受付済ませてから境内見学や境内の蕎麦屋で食事されたりして時間つぶすと良いかと
2016年10月25日 まー刑部卿
西明寺城
益子町森林公園内の高館山に城跡有り。ナビ通りに進んでいくとやがて林道に入る。しばらく狭い道幅の道をひたすら進むと右手に入る道ありその先に駐車場が有ります。西明寺側からくるともっと近い。駐車場に案内板(縄張り図なし)と益子城懐古の石碑がある。すぐそばの階段を上っていく。郭跡に休憩スペースのイスがあった。土塁跡は見受けられたがいかんせん藪ではっきりとわからなかった。更に進むと三角点のところに『高館山 301.8m』と掲げられた板があった。ここから更に進んでいくと先程の駐車場へ戻ることが出来る。また近くにある西明寺の楼門・三重塔は国重文ほか閻魔堂の中も観れるので訪城後訪れるのもいいかと。ただし閻魔堂は16時前までに見ないと閉められてしまいます。