西明寺城(さいみょうじじょう)
西明寺城の基本情報
通称・別名
- 高館城
所在地
- 栃木県芳賀郡益子町益子字高館
旧国名
- 下野国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 益子(紀)氏
築城年
- 鎌倉時代前期
主な改修者
- -
主な城主
- 益子氏
廃城年
- 慶長2年(1597)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
富谷城(茨城県桜川市)[8.7km]
真岡城(栃木県真岡市)[10.2km]
桜町陣屋(栃木県真岡市)[10.8km]
茂木城(栃木県芳賀郡)[10.8km]
村上城(栃木県芳賀郡)[11.4km]
舟戸城(栃木県芳賀郡)[12.1km]
千本城(栃木県芳賀郡)[13.9km]
笠間城(茨城県笠間市)[15.4km]
中村城(栃木県真岡市)[15.5km]
久下田城(茨城県筑西市)[15.9km]
西明寺城の解説文
[引用元:Wikipedia「西明寺城」の項目]
西明寺城(さいみょうじじょう)は、栃木県芳賀郡益子町にあった中世の日本の城。宇都宮氏の家臣益子氏の居城だった。別名高館城。
歴史・沿革
西明寺城の起源は、西明寺のある高館山に京都から移住してきた紀氏(後の益子氏)が本拠を構えた事から始まった[1]。
南北朝時代には、『結城文書』に「伊佐中郡御城、西明寺城、当城候」と記されており、関城、大宝城、伊佐城、伊佐中郡御城などと並んで、関東六城の一つに数えられ[2]南朝方の最北端の拠点であった。その後、北朝方の攻撃を何度か耐えたが、1352年(正平7年)に関東六城の中で最後に落城した。
戦国時代に入ると、益子氏は一族内で内紛が続発し、衰退への道を歩むことになる。また、主家の宇都宮氏から離反と帰順を繰り返すようになった。
1590年(天正18年)[3]、業を煮やした主君宇都宮国綱は大規模な討伐を実行し、益子家宗を誅殺して益子氏の領地を没収した。この際に廃城となる。
構造
西明寺城跡は現在、西明寺の寺域となっている。本堂脇の遊歩道を登っていくと本丸跡に展望台が設置されている。また、空堀なども散見される。
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西明寺城の口コミ情報
2025年12月31日 マグロ常陸介祐平
尾羽氏館[西明寺城 周辺城郭]
宇都宮氏の一族とも益子氏の一族ともされる尾羽氏の館と伝わります。平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて活躍した、宇都宮氏3代目の宇都宮朝綱が建久3年(1192年)嫡子業綱を亡くし、出家してこの地に「尾羽寺」を建立していることから、尾羽氏の館が存在したのは、平安時代のことと思われます。朝綱が横領により流罪となり、許されるとこの地に亡くなるまで隠棲しています。近くにある綱神社は、配流先の土佐の賀茂神社を勧請したとされています。尾羽寺は現在の地蔵院に繋がるとされています。また、朝綱はこの地を宇都宮家の墓所と定め、初代宗円から大正時代の当主正綱までの墓が並んでいます。墓所の墓守は宇都宮氏の旧臣の黒子氏が複数勤めていたようですが、同族だけということではなく、山田氏・松野氏・田中氏・藤田氏などの旧臣達が一様に黒子に改姓したことによるようです(地蔵院の墓地は黒子姓だらけです)。
尾羽氏の館なのか、朝綱の隠居所としてのものなのか、お寺のものなのかは分かりませんが、地蔵院の北側には3mを超える高さの土塁が見られ、並行する綱神社への参道は空堀のようにも感じられます。お寺の南側にも土塁状の土盛りがあり、背後は山となっており、館としての体裁はなんとか整っています。
宇都宮氏の本拠地からはかなり離れており、独立性の強い重臣益子氏の西明寺城の麓の墓所が水戸藩士となってからも旧臣に守られながら継続したのは、凄いことだと思います
2025年12月30日 マグロ常陸介祐平
西明寺城
宇都宮氏の家臣で、芳賀氏と並ぶ楠木正成も恐れた紀清両党の益子氏のお城です。南北朝期には北朝に付いた主家宇都宮氏に従い京など各地を転戦しますが、空城となっていた西明寺城は南朝方の春日顕時に攻められ落城し、南朝の拠点とされたようです。戦国期になると主家宇都宮氏に対して離反・帰順を繰り返し、最終的には天正17年に宇都宮国綱の家臣芳賀・多功・塩谷氏らとの合戦で家宗は討死し、お城は廃城になっています。
お城は、主郭である高館山がハイキングコースとなっており、コースからは、派手さはありませんが、多くの遺構を見ることが出来ます。Googleマップに位置登録されている「益子城懐古」(写真8枚目,石碑・説明板あり)に車を停め主郭の高館山を目指して登るとすぐに段状の郭が現れ、かなり薄目ではありますが連続した虎口が並び(写真1枚目)、所々に土塁も見られます。山頂部の主郭には土塁(写真4枚目)や井戸のような石組みがあり(写真3枚目)、はっきりとした虎口が見られます(写真2枚目)。コース西側を下る途中も虎口や空堀を渡る土橋(写真5枚目)を通過し益子の森と西明寺の分岐点を益子の森方面に進むと階段が設置された切岸の下には堀切があり(写真6,7枚目)、その先にも堀切があります。分岐点に戻り下ると小さなアンテナが並ぶ広い郭があり、少し下ると車を停めた場所に戻ります。
お城は広大でコース以外にも遺構は残るようですが、コースだけでも山城を堪能出来ました。
2025年12月29日 マグロ常陸介祐平
益子古城[西明寺城 周辺城郭]
紀貫之の子孫ともされる、本姓紀氏の益子氏のお城です。平安時代後期にはこの地に根付き、代々宇都宮氏の重臣として活躍しています。戦国時代勝宗の代になると、他の芳賀氏などの宇都宮氏の家臣との対立から、宇都宮氏を離反し、結城氏配下の水谷氏と結ぶなど独立した動きをするようになります。その後は帰順と離反を繰り返し、独自に武田信玄と結び上野に出兵し、信玄から感状を賜り、宇都宮氏に帰順すると勝頼戦い、内藤昌月と跡部勝資を敗走させ、宇都宮国綱から感状を賜っています。
家宗の代になると、領地を接する笠間氏と争うようになり、主君宇都宮国綱とも対立します。天正17年(1589年)になると芳賀氏らの軍勢により益子古城は詰城の西明寺城とともに落城しています。家宗は討死したとも、浅野長政の客将となり和歌山で無くなったともされるようです。
お城は本郭・東郭・西郭・南郭・北郭の5つの郭で構成されており、発掘調査で本郭(写真1,2枚目)からは主殿とそれを囲む10棟の建物址、各郭からも建物址や井戸などが検出されています。建物の規模や配置、遺物の陶器や中国製磁器から、戦国時代に約50年間存続したことが判明しており、天正17年に落城した益子氏のお城はこのお城と考えられるようです。
公園として整備され改変された部分も多いようですが、東門前の主郭の空堀は、ジェットコースターのような段差があり、南郭・東郭・北郭を仕切り、西郭北側の腰郭(写真5枚目)まで続く、面白い構造でした(写真3,6,7枚目)。また、後世のものかもしれませんが、西郭の南側から西側にかけて土塁(写真4枚目)が見られます。
東郭には益子焼の人間国宝だった濱田庄司氏が住んでいた旧濱田庄司邸(写真8枚目)が残り、登り窯も見られます。また、東門の中は益子焼が展示されています。
2025年12月28日 マグロ常陸介祐平
山本古屋城[西明寺城 周辺城郭]
16世紀半ばに高塩半入道の子の高塩伊勢守政平が築城したと伝わるようです。天正11年(1583年)益子家宗が宇都宮氏に背くと水谷蟠龍斎の援軍を得て山本古屋城を攻め、城は落城しています。那須家家臣の塩谷氏の家臣の高塩氏は、益子氏流七井氏の後裔と称しており、地理的に七井に近い山本古屋城の高塩氏も同族と思われます。
説明板(写真1枚目)によるとお城の規模は東西に約250m、南北に約200mで、説明板の向かいには立派な東西に土塁(写真2枚目)と北に折れた部分には、横矢掛りがはっきりとした深い空堀(写真3~6枚目)が見られます。堀底は落葉で隠れていますが、東側にある牛舎からの汚水が流れており、靴の中に汚水が入るという失敗をしてしまいました。横矢掛りを確認したい方は、気をつけてください。
近くにある光明寺の高塩氏の墓域には古い五輪塔(写真7枚目)が見られます。戦国期のものでしょうか。また、500m程北には益子町の文化財に指定されている光明寺薬師堂(写真8枚目)があり、本尊の薬師如来像は高塩伊勢守の本尊と伝わるようです。
2025年12月27日 マグロ常陸介祐平
田野城[西明寺城 周辺城郭]
長堤八幡宮の社記に、永禄3年(1560年)に笠間時朝15代の孫、羽石内蔵介時政が始めて田野城を築くとあるようですが、近くにある長谷寺は文永11年(1274年)に羽石氏初代宗時により建立されており、鎌倉~室町時代時代の五輪塔が存在することから(写真4,5枚目)、田野城も古い時期から存在したものと思われます。永禄2年に小田氏治が結城城を攻めた時に、結城方として田野城主羽石内蔵介盛長の活躍が関八州古戦録に書かれているようです。天正13年(1585年)、羽石盛長は結城晴朝に対して逆心ありとされ、久下田城主水谷蟠龍斎に攻められ田野城は落城、盛長(=時政)は討死しています。
盛長の娘の桜姫は2人の子供と逃げ出し葦原に隠れますが、見つかってしまい落命します。地元住民は桜姫の墓(塚)を作り、後に塚には桜の木が生えたそうです。「道の駅ましこ」の裏には、塚はありませんが桜の木と葦原が復元され、説明板が設置されています(写真3枚目,桜本・桜姫の伝説)。
田野城はその後、蟠龍斎により山本古屋城攻めで高塩氏を追討したとされる添谷俊永(近江介?)が城主となり、現在も添谷氏がお住まいのようです。城域は広大で、結構距離の離れた田野小学校も含まれるようです。
お城の位置はGoogleマップに登録されていますが、登城口が見つからず近所の方に尋ねたところ、添谷さんのお宅にお城を見たいと話をすると見せてもらえるかもしれないとのことでした。一見、虎口のような雰囲気のあるお宅の入口(写真1枚目は右側の土盛り、2枚目は入口脇の神社)からは人気を感じられず断念しました。堀と土塁が囲む構造が残っているようです。また、城域とされる普門寺には、大郷戸廃寺跡付近から出土した大量の五輪塔のうち1基が移されています(写真6,7枚目)。五輪塔は、益子氏のものかもしれないようです。
2025年12月20日 イカ天相模守リーダー
益子城懐古石碑および高舘城跡案内板[西明寺城 碑・説明板]
県道262号線(益子公園線) には、順番に番号看板が振られてあり17番が駐車場及び登城口になります。そこから5分もかからず、普通にリアできます。
2025年11月30日 アッサー
生田目城[西明寺城 周辺城郭]
生田目公民館に車を置かせていただきました。東側に古墳群もあり、散策できるようです。コスモスの時期は、よさそうです。城跡まで、のんびり歩いて、リア攻めしました。井戸跡や寺子屋跡、空堀など整備されていて見やすかったです。サクッとまわれて楽しめました。
2024年10月09日 マグロ常陸介祐平
小宅城[西明寺城 周辺城郭]
オヤケジョウと読みます。宇都宮氏の重臣芳賀氏が領域の東端を抑えるために、芳賀氏11代高俊の三男高真が永仁2年(1294年)に築城したとされています。位置的には益子氏のテリトリーのような感じですが、ライバルの芳賀氏系のお城です。宇都宮氏が改易された慶長2年(1597年)に廃城となり小宅氏は当地で帰農しています。
お城の保存状態は良好で、主郭は南側を除き、深い堀と高い土塁に囲まれ、北側は凸型に張り出しており、横矢が効きまくりという印象を受けます。堀底を進むとジグザグがよくわかります(写真1~6枚目)。南西部に虎口がついていますが小さめで、郭内は激しい薮になっています。北側の土塁もよじ登ってみましたが、内側も高さがあり、薮が激しい為、降りるのは断念しました。郭内が2段になっているとの事ですが、確認できておりません。主郭の東側にも祠のある堀に囲まれた狭い郭がありますが、土塁は無く、堀も浅いため、主郭とは造りが異なります(写真7,8枚目)。
先人様も書かれていますが、小宅氏には享徳5年(1456年)を最古に、宇都宮氏や芳賀氏からの宛行状・感状・書状など9通が伝わっており町指定の文化財に指定されています。
小宅氏の一族には、佐竹氏の家臣になるものもおり、羽生田城の合戦で義宣から感状をもらい、子孫は秋田藩士となっています。
2024年10月08日 マグロ常陸介祐平
亀岡八幡宮[西明寺城 寺社・史跡]
小宅城から西に400mほどの所に位置します。小宅氏初代高真の兄の東宮大膳亮重宗が社司を務めたとされているようです。
亀岡八幡宮は、源義家が奥州へ向かう途中、芦沼あたり(現在の場所から1.5kmほど北東)で石清水八幡宮を遥拝、戦勝を祈願したところ大霊亀が現われ奇瑞示したので大いに喜び、その後夷賊を討滅、凱旋後に社殿を創建し勅命により亀岡八幡宮と称したのが始まりとされます。その後の奥州合戦では、頼朝も武運長久を祈願、建久8年に現在地に遷座しています。神社の境内には亀の石像が数多く並び、独特の雰囲気があります。
この神社、個人的に好物の城郭疑似構造がみられる神社で、南側をのぞき三方を土塁が囲み、駐車場付近は2m程度の高さがあります。本殿裏側右手には神社としては珍しい桝形虎口状の構造も見られます。小宅城から西に600mに位置していますが、堀は無く神社としての構造だとは思いますが、土塁大好きな方は小宅城と合わせて参拝されるのもよろしいかと思います。
春の菜の花と桜が綺麗な所のようですが、今の季節は二期咲の桜の花を見ることが出来ます(分かりづらいですが写真2枚目,後ろは古墳)。
2024年10月07日 マグロ常陸介祐平
七井城[西明寺城 周辺城郭]
七井地区の中心地にありますが、断片的に遺構が残っています。七井中央通りの突き当たり、旧国道の裏側には、クランクした土塁と空堀(写真2,3,4枚目)、その北側の畑の奥にはしっかりした土塁が見られます(写真5枚目)。東に50mほど離れた民家の裏が本丸で、L字型に土塁が残っています(写真1,6枚目)。
本丸付近で地元の年配の方にお城について尋ねたところ、郷土史に大変詳しい方で、しっかりと説明して頂きました。
一般的には、永禄2年(1559年)に益子勝宗が矢島城主七井綱代を破り、七井の地に七井城を築城し、5男の勝忠(七井を名乗る、後に宇都宮国綱に背き毒殺される)を置いたとされます。
詳しい方の説明では、元々七井城は矢島城そばの日枝神社の神官岩松氏(吉国?)が城主を務めており、築城の5年後の永禄2年に益子氏に攻められ落城したとのことでした。(その方曰く、出丸を持つ大規模な城だったとする方もいるが、そこまで大きくはなかったのではないかと独自の考えをお持ちでした。ちなみに、その方の自宅は子供の頃に土塁と堀を慣らして建てたとの事です。)本丸の南には、神道の諡の入った岩松氏の墓地(古いものではありません)があります。日枝神社そばではなく、この地に墓所があることに真実味を感じます。
2024年10月06日 マグロ常陸介祐平
館坂城[西明寺城 周辺城郭]
日本城郭大系に「広大な平山城。付近に円通寺あり」のみ書かれている情報量の少ないお城です。円通寺の鐘楼の上の遊歩道らしき道を進みましたが、薮が酷く土塁らしき土盛りや堀らしき溝は見られますが、まとまりがなく縄張りを感じ取ることは出来ませんでした(スキルの問題ですね)。お寺のすぐ裏にある県指定文化財の入定塚古墳もだいぶ荒れていました。
麓にある円通寺は、応永9年(1402年)創建のお寺で、表門は国重要文化財、一切経塔は江戸時代後期の建築物ですが、県指定有形文化財に指定されています。
2024年08月28日 マグロ常陸介祐平
生田目城[西明寺城 周辺城郭]
ましこ世間遺産に登録されているお城です。益子勝直の四男、勝広が生田目氏を名乗り築いたとされていますが、古文書等には記録されていない為、詳細は不明のようです。
切り通し状の坂(写真5枚目)を登ると説明板のあるⅢ郭にでます。入り口近くには土塁(写真6枚目)があり、寺院跡でもあるこの郭には、寺子屋が再建されています。右側奥は、櫓台のようにも見えるⅡ郭(写真1枚目)があり、南側の切岸は折れ(写真3枚目)が見られます。寺子屋の先の土塁の間を抜けると広めの主郭(写真8枚目)があり、さらに先には折れのある空堀(写真2枚目)、南側には帯郭も見られます。
単純な縄張りですが、遺構の状態は良好で、整備もされており見やすいお城です。
2024年05月24日 伊豆坊伊豆守
西明寺城
令和6年5月22日現在、駐車場から城趾へは倒木のため立ち入り禁止になっていました。益子の森側からも立ち入り禁止になっていました。
駐車場は走行スペースを考えると、数台程度駐車できるかなと思います。
とある本で、栃木県の訪問すべき城ランキング1位でしたので期待して行ったのですが、本丸まで行けず、とても残念でした。
2024年04月01日 Sデストロイヤー安房守
西明寺城
坂東三十三箇所の30番目。笑う閻魔大王の御朱印が魅力的です
2023年07月16日 見城
益子古城[西明寺城 周辺城郭]
益子焼に誘われて訪れた街道を歩くと、街道の地名は『城内坂』。気がつけば益子古城と呼ばれる小高い丘『御城山遺跡』の本丸に向かっていました。本郭は遺跡広場、東郭は工房広場、南郭は陶芸美術館、西郭は芝生広場となるようです。城郭が街に溶け込んでおり、得した気分になりました。
2023年01月14日 横浜エキスポ上野介智ぞう
山本古屋城[西明寺城 周辺城郭]
大永年間(1521~28年)、高塩半入道の子で笠間氏の家臣高塩伊勢守政平が築いたと伝えられている。
天正十一年(1583年)高塩伊勢守正平は久下田城の水野谷幡龍斎に攻められ落城したと云われる。
里山カフェひだまりさんでランチに舌鼓を打ちながら店の人と城のお話していたら近所に城跡あるよ。と言われひだまりさんに車をおきつつ見に行ってきました。
廃屋跡近辺に食い違い虎口らしいものあり。
良くわからず近所の人に聞くと光明寺裏手あたりがそうらしく、
ご自由に散策してください。と言われて探すと牧場らしきものの入り口近辺に城の案内看板をみつけ、その看板あった牧草地帯のようなものを横切ると、土塁と堀切発見
後で縄張り図確認すると、縄張りはけっこう広く兵士溜まりのよーな城だったのかな?と勝手に連想してました
2022年10月17日 里のシロクマ右馬頭
西明寺城
峠北駐車場より高館山城
峠駐車からは右手の尾根を登るといくつかの郭を通って主郭へ、左側の坂道を進むとキャンプ場へ進む道になります。今回は右手の尾根を登って行きます。その前に一段上の池を見て行きます(この城の水場だったのでしょうか)尾根を登ると虎口の様な土塁があります、なにしろ登山道以外はすべてヤブです。
いくつかの土塁を過ぎ、いままでより大きめ土塁、虎口を抜けると主郭に到着です。右手に櫓台跡、広い空間があり2から3m位の岩がかたまっています。主郭の南側土塁を下の郭に降りて行くと谷底に、登る時にみた池が見えました。主郭北西の尾根の虎口を抜けて降りて行くと土橋状の道になる(両側に堀があります、ヤブで最初気付かず)左手はキャンプ場へ行く道、右手は大堀切のある尾根。右手を進み、この城のメイン大堀切を見る(この堀に沿って進むと、先程の土橋に行きつきます。)
キャンプ場分岐に戻り峠駐車場へ、そして西明寺へ下山。とにかく城域は広く登山道を歩くのみでした、笹薮と蜘蛛の巣との闘いでした。山城めぐり、山と城が同時に楽しめる事はサイコーです。
2022年10月17日 里のシロクマ右馬頭
西明寺城
西明寺門前より見晴らし台まで駐車場は門前の駐車場が空いていたので利用しました。主郭の本郭までハイキングコースを歩いてイザ!登城(登山靴、ストック使用)まずは、西明寺、趣きのある堂塔伽藍、そして閻魔さまへご挨拶(躍動感ある御顔)。境内を抜け登山口へ。古西明寺城内を登って行きます。
山城独特のジグザグ道、侵入を阻止する土塁と曲輪(ほとんどヤブの中)道を進むと「権現平」古西明寺城の主郭だったそうです。(段郭になってます.まわりはヤブ)そして、堀切りを過ぎ堀底道を登ると見晴台に着きます、櫓台(四阿)を中心にぐるりと回りながら上がっていくようになってます。(ヤブと蜘蛛の巣との闘い)
2022年09月14日 三男坊.k大学頭
駐車場[西明寺城 駐車場]
高館山展望台の近くに益子の森に向かう山道の入口があり、そこに10台ほど車を停められる広場があり、そこに城の説明板もある。
2022年01月10日 大膳大夫しろし
西明寺城
あるあるお寺編かと思いきやキッチリ山城でした。ちょっと時間が無かったのであんまり見られなかったけどあっちこっち遺構がありそうでした。
2022年01月06日 リュウト安房守
西明寺城
林道を登って行くと頂上付近にキャンプ場の駐車場に止めれます。止めてから林道を少し歩くと西明寺へ行くハイキングコースで駐車場から上に行く道を行くと天守跡に行けます。
2021年05月07日 龍馬備中守【】
木幡城[西明寺城 周辺城郭]
栃木県の芳賀郡にある木幡城♪木幡城は木幡集落の背後・丘陵先端に築かれています☆
築城年代不明の城となります☆
益子氏の家臣と推測されている飯村内記の築城と伝えられています☆戦国期には益子氏の支城だと考えられていて北東側の近距離に敵対していた茂木氏の高岡城があって境目の城として互いに対峙していたと推測出来ます☆
卵型に近い主郭の周囲に副郭を環郭式に廻らしていて、その外周に空堀を巡らして守りを固めています☆縄張りは面白いモノ何ですが藪が凄く分かりにくくなってしまっています。。縄張り図だと副郭の外周の空堀が大きそうです☆何処かのタイミングで藪狩りが行われる事を望みます☆
2021年05月05日 石田左近衛大将いしのすけ
西明寺城
内陣に入るには受付で300円お支払いする必要があります。一度、階段登ってからだと面倒になると思うので、要注意。本堂裏手から、山道を登っていく。案内板らしきものは見当たらず、不安になりつつも登る。途中、三又に分かれる所で、ここかなと左の道を進むと本丸に出られました。本丸には展望台があり、益子の街並みが見下ろせます。これは土塁かな、堅堀かなと思うけれど、案内はないです。もう少し整備していただけるといいなと思いました。益子では、歩いてまわる散策をおすすめしてるようで、ゴールデンウィークということもあり、結構、歩いている人とは行き合いました。西明寺には、四角い竹の林もあります。
2021年05月04日 龍馬備中守【】
益子古城[西明寺城 周辺城郭]
栃木県の芳賀郡にある益子古城☆益子氏の最初の居城と伝わってます☆その後益子氏は益子城を築城し、そちらに移ったと言われています☆
が、益子古城の堀切の切り口を見ると戦国時代にも使われていたんじゃ無いか?という様な立派な堀切を持っています☆近隣に益子城☆更には西明寺城もあります☆西明寺城は詰城という事で間違いないと思われますが、益子古城に益子城☆近い場所に2つの城郭が…謎です☆
益子古城は大きく分けて本郭、北郭、南郭、東郭、西郭5つの郭から分かれていて低丘陵地に城郭を構えます☆本郭を中心にして各主要郭は堀切で区画しています☆各主主要郭には腰郭が数段付属しています☆城下には城内坂と呼ばれる、街道になるのかな〜?動線も残っていて、更に益子城は近所です☆歩いてみた感想ですが益子古城は益子氏の初期の城でその後に益子城を造る☆ただ同時期に益子古城も改修したんじゃ無いかな〜?2つの城郭は別の城として紹介されていますが距離を見るとほぼ一つの城として機能したんじゃ無いか?と思いました☆
現在、益子古城は公園になっていて陶芸メッセ・益子もあるし楽しめる城郭になっています☆現存する堀切の規模は予想以上に大きくて感激しました♪
2021年05月04日 龍馬備中守【】
益子城[西明寺城 周辺城郭]
栃木県の芳賀郡にある益子城♪
宇都宮氏の家臣・益子氏の城郭となります☆益子古城とは直線500mも無い位置に存在している為に一帯を城下として形成していたんじゃ無いかな〜?と思われます☆そして、西明寺城が詰の城として機能した☆
宇都宮氏の有力な家臣だった益子氏ですが15代・益子家宗は宇都宮氏からの自立を企てていき北条氏と内通☆西明寺城で反旗を翻しましたが宇都宮国綱の軍勢に攻められ落城☆益子氏は滅亡しちゃいました☆
城郭は私有地になっています☆
あらかじめ、許可を得てお入り下さい♪
2021年05月04日 龍馬備中守【】
益子陣屋[西明寺城 周辺城郭]
栃木県の芳賀郡にある益子陣屋☆現在益子城の麓にあり個人宅になっています☆この辺り一帯が陣屋だった様です☆
江戸時代に造られた、この陣屋は益子村、生田目村、上大羽村、深沢村、七井村、清水村の6ヶ村を支配する為の出張陣屋でした☆
陣屋門みたいのもありましたが、これは後世建て直しの様です☆
黒羽藩主・大関氏の所領となって小関氏がこの地に陣屋を置いたのが始まりとなります☆
2021年05月04日 龍馬備中守【】
館坂城[西明寺城 周辺城郭]
栃木県の芳賀郡にある館坂城☆この城についての歴史は詳細は不明となります☆別名を館宮坂城、石岡城とも呼びます☆
益子町にある名刹【円通寺】の南側の森が城郭になります☆印象としては陣城の様な顔をしていて攻める為の砦の様な特徴を持っていて郭は土塁囲みがされています☆
この円通寺ですが、室町時代に良栄の開山で創建されたと伝えられていて当初は学問寺でした☆戦国時代に大伽藍の一部が焼失してしまい、その後には時の天皇・上皇の勅命から勅願所となりました☆江戸時代には江戸幕府から朱印状も貰っているなど古くから栄えた寺となっています☆
近隣の城郭には益子古城☆反旗を翻した益子氏を攻める為の城郭か?となれば宇都宮氏?いずれも城郭としては戦国期のものと思われます♪
2021年05月01日 龍馬備中守【】
七井城[西明寺城 周辺城郭]
栃木県の芳賀郡にある七井城☆築城主は益子勝忠になります♪宅地の中に土塁と空堀が残ってます☆
益子勝宗の子の益子勝忠が七井に住み七井氏を称していきます☆
ただ…益子勝忠は宇都宮氏に叛いて戦い尾羽寺で毒殺されてしまいました☆
益子勝忠の子の益子忠兼は茂木氏と新福寺で戦って戦死…。。同時期に七井城は落城してしまいました☆その後、廃城になったと伝わっています☆
小貝川の支流の大羽川と小宅川に挟まれた、低台地上に築かれています☆城域は市街化が進んでいますが宅地の合間を縫う様に北・南・西の3ヶ所、土塁と空堀が残存しています☆北遺構は駐車場裏に立派な土塁が20m以上、姿を残してます☆南遺構はクランクした空堀と土塁が綺麗に整備されていて地元愛を感じます♪周囲を歩くと遺構は残ってます☆
2021年05月01日 龍馬備中守【】
矢嶋城[西明寺城 周辺城郭]
栃木県の芳賀郡にある矢嶋城☆
矢嶋城は七井頼治が築いたと伝わります☆
七井氏は矢嶋城を居城として代々この地に生きました☆
戦国期には益子勝宗の攻撃で矢嶋城は落城。。落城後は七井氏は多田羅に移りました☆
益子氏の所領となって行くのですが益子勝宗は子の益子勝忠を入れ益子勝忠は七井城を居城として七井氏を称しました☆
日枝神社の北側一帯が城郭ですが現在畑になっていて土塁が残るのみとなっています☆
方形型の城郭の形は面影を残してます☆
2021年04月30日 龍馬備中守【】
小宅城[西明寺城 周辺城郭]
栃木県の芳賀郡にある小宅城☆益子氏と並んで宇都宮氏の有力な家臣だった芳賀氏の一族・小宅氏が築城したと伝わります☆
鎌倉時代に芳賀氏の11代目の芳賀高俊の三男・芳賀高真が小宅城を築いてから戦国時代の芳賀高良の代に廃城になるまで代々城主をつとめた旧家となります☆
【小宅家文書】という手紙が9通ほどあります☆この9通の中には感状や書状などが入っている訳ですが、全て主君の宇都宮氏や一族の芳賀氏に宛てた文書が残ってます☆
中には那須氏と戦った喜連川合戦での功を労う感状や(宇都宮俊綱→小宅氏に宛てた)領主間の争いを示すものなどが残っています☆
現在も子孫の方が持たれているのですが凄いですね♪
城郭としては小宅川に向けて北から伸びた低丘陵の先端に築かれています☆
見所としては主要部を取り巻く空堀で横矢が掛かる様に屈折させています☆深さも5mくらいあって見応え抜群です☆
早朝に行ったので朝陽がキラキラしてました♪
2021年03月13日 【籠城中】下野守智ぞう
益子城[西明寺城 周辺城郭]
城周辺をくまなく回りましたが、どうやら私有地に囲まれているみたいで、あらかじめ入る許可とか得ないと入れない様子。
残念ですが、登城断念しました💦
2021年02月11日
小宅城[西明寺城 周辺城郭]
宇都宮重臣芳賀氏家臣の小宅氏の城。小宅交差点よりちょっと手前のリカーショップ向かいの消防団詰所に車を止めさせて頂き、隣の坂道を登った先に見える森が小宅城
メチャ良好に遺構が残っています。ビックリです。土木量も半端ない。
何故こんな素晴らしい城を保存に乗り出さないのか理解に苦しみます
2021年02月11日
益子古城[西明寺城 周辺城郭]
陶芸メッセ益子の建物の周りが益子古城跡になります。案内看板や大堀切、切岸、土塁などが確認出来ます。かつて益子氏は本拠地をここに構え、臨戦時には西明寺城を使っていたようです。
目印は益子窯元共販センター。奥の坂道を上に上がっていきます。陶芸メッセ前まで車で行く事も出来ます。
2020年02月12日 恭任非参議侍従
西明寺[西明寺城 寺社・史跡]
独鈷山西明寺。真言宗豊山派。
元は「益子寺」という名であったが、北条時頼(=西明寺殿)が本堂を修繕したのを期に、西明寺と名を改める。
宇都宮軍の中心武士団である紀清両党の益子氏(紀氏)の崇敬厚く、現在、楼門、三重塔、本堂厨子が国重要文化財に指定されているが、これら文化財は益子氏滅亡の際に焼失をまぬがれた物であり、焼き討ちをしなかった宇都宮軍の意外な信仰心ぶりが窺えるかも知れない。
御朱印は4種(坂東観音)(下野観音)(下野七福神)(閻魔大王)。閻魔大王の御朱印は有名になりすぎて、書き手の方が体調を崩してしまったので、参拝時間には注意して下さい。
2018年04月09日 【籠城中】下野守智ぞう
西明寺城
西明寺の事務所でオリジナルの笑う閻魔様ご朱印が頂けます。(一面書き600円、二面書き1000円)
受付時間が10:00~14:00(12:00~13:00昼休憩)の三時間ほど。
人気ご朱印と思われますので受付済ませてから境内見学や境内の蕎麦屋で食事されたりして時間つぶすと良いかと
2016年10月25日 まー刑部卿
西明寺城
益子町森林公園内の高館山に城跡有り。ナビ通りに進んでいくとやがて林道に入る。しばらく狭い道幅の道をひたすら進むと右手に入る道ありその先に駐車場が有ります。西明寺側からくるともっと近い。駐車場に案内板(縄張り図なし)と益子城懐古の石碑がある。すぐそばの階段を上っていく。郭跡に休憩スペースのイスがあった。土塁跡は見受けられたがいかんせん藪ではっきりとわからなかった。更に進むと三角点のところに『高館山 301.8m』と掲げられた板があった。ここから更に進んでいくと先程の駐車場へ戻ることが出来る。また近くにある西明寺の楼門・三重塔は国重文ほか閻魔堂の中も観れるので訪城後訪れるのもいいかと。ただし閻魔堂は16時前までに見ないと閉められてしまいます。









