富谷城(とみやじょう)
富谷城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 茨城県桜川市富谷字城ノ内988
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 益子重綱
築城年
- 天正年間(1573〜1592)
主な改修者
- -
主な城主
- 加藤大隈守(益子氏家臣)
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁
指定文化財
- -
再建造物
- 碑
周辺の城
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桜町陣屋(栃木県真岡市)[8.6km]
西明寺城(栃木県芳賀郡)[8.7km]
真岡城(栃木県真岡市)[11.4km]
真壁城(茨城県桜川市)[11.4km]
久下田城(茨城県筑西市)[11.6km]
伊佐城(茨城県筑西市)[12.5km]
下館城(茨城県筑西市)[13.3km]
難台山城(茨城県笠間市)[13.4km]
中村城(栃木県真岡市)[13.6km]
笠間城(茨城県笠間市)[14.7km]
富谷城の口コミ情報
2025年04月11日 マグロ常陸介祐平
磯部館[富谷城 周辺城郭]
磯部稲村神社神主の磯部氏の居館です。神社の由来書には、「宇都宮家臣神主磯部嘉五郎は、軍役を勤めて結城氏に攻められ討死し、その父善七郎は結城氏に生け捕られたが赦免され神職を勤める」とあるようです。
能楽の曲目に「桜川」がありますが、神主磯部祐行が花見噺「櫻児物語」を鎌倉公方足利持氏に献上したものを将軍足利義教が目にして世阿弥元清に作らせたものです。
桜川磯部稲村神社(写真4,8枚目)そのものが、曲輪となっており、鳥居の両脇に土塁、神社の背後にも土塁の残欠と思われる塚(写真1枚目)があり、神社東側には空堀が見られます(写真5,6枚目)。
神社の東から糸桜方向に切通しが通っていますが(写真3枚目)、これは神社東側の居館部分の空堀でもあり、切通しに沿って土塁が見られます。土塁は下ったところで途絶えますが、先端部は土塁上にある祠の参道として新しいものですが石垣作り(写真7枚目)となっています。居館の西側には空堀があり、神社の空堀と二重の堀になっているようですが、桜まつりの最中ということもあり、薮への侵入はあきらめてしまい確認出来ていません。
居館部分にある糸桜は、派手さはありませんがキレイです(写真2枚目)。
2025年04月10日 マグロ常陸介祐平
谷中城[富谷城 周辺城郭]
谷中氏の居城です。益子氏と笠間氏の攻防では、谷中玄蕃允親子は橋本城に詰めたようです。その後谷中氏は、水谷蟠龍斎(正村)の家臣となったようです。
桜川市総合運動公園の東の山が城址となります。公園の駐車場に車を停め、Googleマップに「カリオン」と位置登録されている鐘の付いた塔(写真6枚目)の脇から山頂部を目指して登城しました(山の東側にある公民館付近から入るのが正解のようですが)。100m✕50m程の楕円形の単郭のお城で、周囲を空堀が囲んでいます。空堀は埋まってしまったのか、かなり薄めで、東側は帯郭のように感じられる程です(写真1~5枚目)。郭内も南北がやや高く中央部が低い削平の甘い状態です。山として傾斜が緩やかで、南東側のみ崖となっていますが、お城は崖の縁に沿っているわけではありません。南西側の麓に居館となっており(今回未確認、先人様がお城全体を口コミされています)、簡易的な詰城だったと思われます。
お城のすぐそばの薮の中に、生活感のある小型のテントがあり、現代の城主様がお住まいの様でした。
2025年04月09日 マグロ常陸介祐平
岩瀬城[富谷城 周辺城郭]
戦国期に岩瀬氏が居城したと伝わるようです。岩瀬氏は益子系図によると益子越後前司正宗(富谷に100貫文)の子孫されているようです。また、北西に1.5km程にある富谷城の加藤大隅が富谷城を明け渡し岩瀬城に移ったとされています。
小規模ながら、単郭の居館タイブではなく連郭式の平城です。
Googleマップで岩瀬城跡として登録されている場所が2郭のようですが、クリニックとなっている為、探索出来ていません。岩瀬城跡三郭跡と登録されている3郭は、薄めの土塁が見られるお堂と墓地になっており(写真8枚目)、東側は主郭を挟んだ二重の堀となっており(写真5,7枚目)、土橋のような構造が見られます(写真2,6枚目)。主郭の南西角には虎口があり(写真4枚目)、空堀に沿って土塁も見られます(写真3枚目)。主郭内部は薮となっています(写真1枚目)。
2025年04月08日 マグロ常陸介祐平
富谷城
益子氏の家臣、加藤大隅が城主とされています。関八州古戦録には、天正11年(1583年)益子筑後守重綱方として富谷城に加藤大隅守とその子大蔵少輔が城を守るも,結城の兵に城を明け渡し岩瀬に移ったと書かれているようです。
お城は採掘場入口の南側にあり、、採掘場の手前を右に曲がった溜池に向かう車道は堀底のようです。車道の南側には土塁があり(写真1枚目)、登った先が2郭となります。さらに南には主郭を囲む浅い空堀(写真2,3枚目)と北側部分は高さのある土塁があり(写真5枚目)、2郭から南に突き出して土塁のようになった先には(東側)水堀として機能する深い沢(写真6枚目)が流れています。主郭内部は2mを超える笹薮となっており(写真4枚目)、探索出来ませんでした。
お城から南西に300m程の場所に大雲寺というお寺がありますが、天正21年(1552年)結城政勝の開基で自画像に讃をしたものが納められています。また、お城から南西に200m程にある能福寺の沿革には正中2年(1325年)に加藤大隅守により創建とありますが、年代が合っていないようです(写真7枚目)。
お城の背後の富谷山に建つ富谷観音(小山寺)の三重塔(重要文化財)は、多賀谷朝経を大旦那として建てられたもので、大変見応えのあるものです(写真8枚目)。
2025年04月07日 マグロ常陸介祐平
富岡城[富谷城 周辺城郭]
坂戸城主小宅氏の家臣、稲川土佐が城主と伝わるようです。 また、戦記物には天正13年(1585年)結城晴朝の家臣片見伊賀守晴信のそのまた家臣の谷中玄蕃が守備し、笠間氏の家臣福原主膳により落城したと書かれているようです(桜川的世界参照)。
討ち入りには参加していませんが、赤穂藩で槍奉行を勤めた稲川十郎左衛門(220石)の先祖稲川土佐守は、慶長7年に常陸府中に入部した六郷氏に仕え、その後慶長16年には真壁に入部した浅野長重に仕えたようです。
城址標柱(写真6枚目)の前に車を停め、溜池の他を少し過ぎた薮の切れ目から取り付きました。お城は独立した台地を活用したほぼ単郭のもので、本丸の周りをやや甘めの空堀が囲んでいます(写真3,4枚目)。私が登り始めた西側の地点が、空堀が食い違った場所で、南側から緩やかに下っている空堀と、やや上段を北側から廻ってくる空堀を竪堀で繋いでいます(写真7枚目)。
東側の土塁上には八坂神社が鎮座しており(写真5枚目)、直線の参道がありますが、大手道は神社北側の道と思われ(写真2枚目)、北西の角に緩やかな虎口(写真8枚目)が見られます。本丸内部には小さな祠が祀られており、虎口周辺には土塁も残っています(写真1枚目)。お城の南西側は、ビニールハウスなどがある農家の庭先で、ビニールハウスのお城側が一段高い削平地となっていますが、郭なのか耕作の為のものか微妙な感じです。
小さなお城ですが、遺構はよく残っています。
2022年02月12日 昌幸安芸守更に吉
橋本城[富谷城 周辺城郭]
桜川市にある橋本城。
南北朝時代から続く城ですが詳細は不明。下野国と接し眼下には笠間街道(現国道50号)が通ることから、境目警護と街道監視の城として機能していたと思われます。
麓の黒爪神社に車を停め登城開始。堀切と横堀が交わる辺りから???となり、頂上を目指そうということで直登しました。その間たくさんの段郭を超えました。位置が分からないと疲労が倍増しますね(泣)
主郭に着き位置確認できました。
主郭周りは急斜面と大堀切に囲まれ流石山城といった様子ですが、何より岩石が点在していることに驚きました。よく考えたらこの辺りは県内屈指の墓石の採掘地。これが城郭に使われていたらどうなってたのかなと思いながら見学しました。
来訪者が少なく冬でも薮で縄張図は必須です。慣れた方との訪問をおすすめします。
【写真の説明】
①堀底道のようなところを登城。後世のものかと…
②主郭。中央に土壇がある。
③ニ郭。周りを低い土塁が囲む。
④ニ郭裏の大堀切。
⑤ニ郭下の堀切。
⑥主郭下の堀切。
⑦腰郭より主郭を見る。
⑧三郭から横堀へ繋がる、竪堀のような虎口のような遺構。
2022年01月29日 大膳大夫しろし
富谷城
堀や土塁っぽい所もありそうだったけど近くまでは行きにくいでした。さらに犬のうんこより明らかに大きなやつがいたのでもしや熊?と思い退散しました。
2021年05月09日 龍馬備中守【】
谷中城[富谷城 周辺城郭]
茨城県の桜川市にある谷中城♪橋本城と街道と桜川を挟む形で対面☆標高109mの山上に独地した城郭は別名を谷中館とも牙城(山上部)とも呼びます☆館跡は麓部の民家がある辺りにあって現在は土塁、郭等が残ってます☆山上の牙城は周囲を横堀で囲む単郭構造になっています☆周囲の横堀はかなり埋没してしまっています☆掘り幅は6、7mあり往時はもっと深かった事でしょう♪
この城郭は地元の土豪・谷中氏の城郭となっています♪戦国時代には笠間氏と益子氏のバトルの地になっていて谷中氏は笠間氏側に付いていて橋本城の城主も務めています☆
両者が激突した際の「富谷合戦」では笠間氏の軍勢が入った場所に「諏訪の峰」と言う名前が登場しますがそれがココ谷中城と思われます☆笠間氏が滅亡し、その後、宇都宮氏も滅亡し廃城になりました☆
2021年05月09日 龍馬備中守【】
岩瀬城[富谷城 周辺城郭]
栃木県の桜川市にある岩瀬城☆住宅街の中に高台がポツンとあってその上が城郭になります☆
歴史、詳細は一切不明となっています☆百姓同士の境界を巡る争いから益子氏と笠間氏の争い(冨谷合戦)が勃発!
この戦いは益子氏は冨谷城の加藤大隈守の軍勢と笠間方は橋本城の谷中玄蕃の軍勢のバトル☆合戦は始め益子氏方が有利に展開するも笠間氏方が盛り返し冨谷城も落城したと伝わっています☆この冨谷城とも近くなので往時、益子氏か笠間氏のいずれかの支城だった事でしょう☆
2021年05月08日 龍馬備中守【】
橋本城[富谷城 周辺城郭]
茨城県の桜川市にある橋本城♪登城中に切岸を走る巨大なイノシシ親子が印象的でしたw
橋本城の城歴は定かではありません☆笠間城の支城として機能した城郭は谷中豊前守が築城したと伝わってます☆下野の益子氏と笠間氏で起こった紛争の際には境目の城郭として需要な機能を果たしたのでしょう☆
爪黒神社の背後に聳える御獄山の南東側の峰のピークに城郭は存在します☆
遺構の残り具合は良好ですが2月に登城した際でも中々の藪具合…。人が余り入り込んでない様です☆南北に伸びる尾根上に郭を展開していてピークが主郭☆主郭南側には一段腰郭を挟み大堀切を展開☆この腰郭は土塁囲みがされていて南側からの侵入を警戒しています☆主郭北側、主郭の真下には横堀と堀切がそれぞれ残り二重に堀を造り遮断しています☆北尾根上には段郭を展開させていて、この方角に長く伸びて行きます☆爪黒神社のある登城口側が大手口と思われます☆爪黒神社の背後、堀底道☆大手道と思われる動線をヒタスラ登って行くと突如巨大な土塁が目の前に現れるのですが、ここいらからが城域になります☆明らかに門跡であろう土塁の前後には竪堀☆横堀と残ってます☆
下野国と常陸国の境目の城として機能した堅固な造りとなっています☆
2021年05月08日 龍馬備中守【】
磯部館[富谷城 周辺城郭]
茨城県の桜川市にある磯部館☆桜川磯部稲村神社と付近が館跡となっています♪歴史は不明ですが笠間氏の家臣・磯部氏の居館と思われます☆
下野国と常陸国の境目に立地していて富谷城の益子氏に対して磯部館は笠間氏側の最前線になった事でしょう☆
桜川磯部稲村神社の神主の磯部祐行は関東管領・足利持氏に花見噺「桜児物語」1巻を献上します☆この物語をもとに将軍・足利義教が世阿弥元清に作らせたのが謡曲「桜川」と伝わっています☆世阿弥元清は6代将軍・足利義教から疎まれていて佐渡に島流しにされています☆
見所はなんと言っても空堀です☆
東側に一条の長大なL字に折れを持った空堀を持ち、その更に東側にもう一条の空堀を持っていて二重空堀を造り込んでいます☆
境目の館なだけに見事な遺構を残します☆
2015年09月16日 武蔵守道灌?!
富谷城
採石所の手前が城跡のようです。
道路が城跡を分断しているらしく、自分は右側の遺構を見学しました。
土塁に空堀、土塁をよじ登ると別の主郭らしき場所も有りました♪(^^)
ただ、時期的に藪が多く、やはり冬場のほうがよく遺構を観られると思います。
2013年08月15日 シコタレ常陸介
富谷城
看板や目印となるものはありませんでした。ある坂道を上がって行くと採石所に辿り着きました。写真は採石所手前、左側の山です。堀っぽいのは確認しましたが蜂がいたから車から降りれず…また、坂道は採石所の私道の可能性もあるので注意。
2010年09月12日 半日皇帝下野守
富谷城
写真は、ネットを参考にして、この辺らしい、という場所のものです。