武熊城(たけくまじょう)

武熊城の基本情報

通称・別名

武熊館、武熊故城

所在地

茨城県水戸市柳町2

旧国名

常陸国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

石河望幹

築城年

延文年間(1356〜1361)

主な改修者

主な城主

石河氏、江戸氏、東義久

廃城年

慶長7年(1602)

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

水戸城(茨城県水戸市)[0.9km]
吉田城(茨城県水戸市)[1.1km]
武田氏館(茨城県ひたちなか市)[3.0km]
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武熊城の解説文

武熊城(たけくまじょう)は、茨城県水戸市柳町にあった日本の城。

概要 

武熊城は、桜川右岸の標高約7mの沖積低地に位置する。往時は台地が存在し、台地全体が城館であった。慶安4年(1651)、千波沼新道(柳堤)築堤の土に利用するため削平され、現在は平地となり遺構は存在しない。しかし東台という地名が往時ここに城館があったことを示している。

構造 

『新編常陸国誌』によれば規模は南北4町余(約440m)、東西5町余(約550m)で、南側(横竹隈町)が大手、北側(十間町)が搦手であったという。現在でも搦手橋などの地名が残っている。右図は『国誌』、近世の町割、旧桜川の流路等をもとに推定した城域である。水戸城本丸・二の丸に匹敵する平面規模(4町×5町)であり、水戸城(0396)直近の東の出城として重要な位置を占めていたことは間違いない。

歴史 

武熊城は中世初頭、水戸城主・大掾資幹の弟の石川望幹が築城したとされる。応永13年(1406)、江戸通房が水戸に進出したのに伴い、城は江戸氏の属城となり、通房の弟通重が入って武熊氏を名乗った。永禄元年(1558)に佐竹義宣が水戸城を居城にして以後は、重臣・東義久の居城となったという。

参考文献 

『茨城県の中世城館』

情報提供:水戸市教育委員会


武熊城の口コミ情報

2021年03月16日 隼人佑かわちゃん
武熊城



城郭としては跡形もなく水戸竹隈市民センターの角に石碑が建ってるだけでした

2015年05月31日 武蔵守道灌?!
武熊城

今は竹隈市民センターになっているようです。(°▽°)

2011年08月11日 半日皇帝下野守
武熊城

周辺は市街地化しており、写真の城跡石碑以外は城跡の痕跡はありません。

武熊城の周辺スポット情報

 城趾碑(碑・説明板)

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