河和田城(かわわだじょう)
河和田城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 茨城県水戸市河和田町1019
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 鍛冶貞国
築城年
- 延元元年〔南朝〕/建武3年〔北朝〕(1336)
主な改修者
- -
主な城主
- 鍛冶貞国、江戸氏、春秋氏
廃城年
- 天正18年(1590)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 市史跡(河和田城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
見川城(茨城県水戸市)[2.7km]
加倉井館(茨城県水戸市)[4.2km]
長者山城(茨城県水戸市)[5.2km]
水戸城(茨城県水戸市)[6.2km]
武熊城(茨城県水戸市)[6.8km]
吉田城(茨城県水戸市)[6.8km]
飯沼城(茨城県東茨城郡)[9.1km]
武田氏館(茨城県ひたちなか市)[9.4km]
那珂西城(茨城県東茨城郡)[10.0km]
湯崎住吉城(茨城県笠間市)[10.7km]
河和田城の解説文
河和田城の口コミ情報
2024年08月25日 長森原
軍配団扇の碑[河和田城 碑・説明板]
◯吉田神社の軍配団扇の碑
吉田神社は元々は河和田城の鬼門を守る八幡宮でしたが、水戸光圀の命により元禄九年に日本武尊を合祀して吉田神社に改称されました。
御神体は、後三年の役の帰路のおり源義家からこの地の長者塩沢金兵衛に下されたと伝わる軍配団扇です。
河和田はかつて石岡(常陸国国府)から水戸を経由して陸奥に至る古代東海道の通過地点でありました。(石岡〜小美玉〜笠間〜鯉淵〜河和田〜台渡里官衙→陸奥)
河和田周辺には様々な義家伝説が残っており、古代からこの地が交通の要衝であった事が伺えます。
石岡から台渡里官衙のあった渡里町(長者山城が有る地)までの約27kmの官道(古代東海道、別名五万堀古道)は点在する遺構から、定規で引いたようなほぼ一直線の官道だったと推定されており、かつては河和田城の西1kmくらいの所を通過していた事になります。
2024年08月24日 長森原
河和田城
水戸市立博物館「江戸氏展」の解説によると河和田城は、水戸城から鯉淵・宍戸に向かっていた古街道(現・岩間街道=県道30号線)を監視し水戸城の西の守りを担う役割の城であったとされていました。河和田城の城域のすぐ北側・天徳寺前あたりを、当時の主要な街道が東西に通過していた訳です。
河和田城の北西部分には二重三重に土塁と空堀が堅牢に築かれており、西方の鯉淵や宍戸方面への築城者の強い防衛意識が見て取れます。(写真1・2)
天正17年に起きた江戸氏の内紛(神生の乱)の際は、水戸城主・江戸重通は西方の鯉淵城の動きを警戒し、平戸氏(江戸氏代官・小幡城在番衆差配人)らに小幡城在番衆を、河和田城へ派遣するよう命じています。
「急度申届候、仍額田へ五三日中可及調儀候、再三如申届、其口之人数、足軽・鉄放・歩弓・歩鑓、人別足軽・鍬取・鎌持・まさ切、それ/\二十一両人つゝ被定奉行、無油断催促可然候、将亦中妻境目菟之躰ニ候間、其口々人数・鉄放、自今晩二番河和田へ、可被相越候、初番ニ天神林京兆催促申候上野・長岡・大戸口々人数、只今有催促、可被相越候、恐々謹厳、
四月十八日 (江戸)重通(花押)
平戸弾正忠殿
嶋田中務少輔殿」
また、近年の発掘調査により河和田城南西面にも道路状遺構が見つかっています。
河和田城のあるこの地が、桜川の水運と併せて交通の要衝であった事が推察されます。
◯「広報みと」水戸の城散歩・河和田城〜江戸氏を支えた水の城
https://www.city.mito.lg.jp/page/68195.html
2023年07月10日 マグロ常陸介祐平
河和田城
室町時代初期に大掾氏の家臣鍛冶氏により築城されたと伝わる城で、大掾氏に取って変わった江戸氏の家臣春秋氏が居城したようです。
城域は広く、広範囲に遺構が見られます。天徳寺の入口には土塁があり、入口すぐを墓地沿いに進むと二重の堀に挟まれていることに気付きます。墓地の突き当たりは立ち入り禁止ですが、本堂裏の内側の堀が水堀になっいる事が確認できます。直線距離で300mほど離れた報仏寺は土塁に囲まれており広さのある曲輪だったことがわかります。
八坂神社の裏側が遺構の保存状態が良いようですが、立ち入り禁止のようです。
2020年09月14日 国府左京大夫城介
河和田城
河和田城の遺構は、複数箇所に分散されています。河和田小学校、報佛寺、天徳寺を目安にしてください。ただし、私有地の中にも遺構があるので、勝手に入らないようにして下さい。車を停めるならば、報佛寺、天徳寺の駐車場を利用するのがいいと思います。
写真1:河和田小学校の入口正面にある石碑
写真2:天徳寺にある土塁
写真3:報佛寺の山門
2017年07月25日
河和田城
私有地内に水堀と土塁。小学校周囲などに、遺構が散見されます。
赤塚駅からバスで行けます。
2015年05月31日 武蔵守道灌?!
河和田城
河和田城跡石碑は報佛寺山門にあります♪(°▽°)
立地
河和田城は、東茨城台地の中央部を流れる桜川が開析する標高約30mの湿地帯と微高地内に曲輪が展開する。河和田城の範囲は東西約900m、南北約900mと広大である。天徳寺・報仏寺・八坂神社・河和田小学校が所在する東西約510m、南北約600mの範囲には土塁・堀等の遺構がよく残っている。
構造
曲輪は、Ⅰ~Ⅶ郭(西郭と呼称)とⅧ~Ⅹ郭(東郭と呼称)に大別される。東西郭の間には南北に用水が流れ、両脇に湿地帯(水田)が広がる。すなわち、河和田城は曲輪の中央を縦断する幅約30mの湿地帯の両側に、東郭と西郭が展開する特異な形態を呈する。Ⅰ郭の防禦施設は手厚く、西側は4~5重土塁(推定)と4重の堀、北側は3重土塁と2重の堀、西側は2重土塁と堀1条が囲む。
Ⅱ郭は、湿地帯とほぼ同レベルで舟入の機能が想定される。Ⅲ・Ⅴ郭は両郭をつなぐ土塁・堀が発掘調査で検出され(松浦・新垣2019)、同一曲輪として捉えたほうが良いかもしれない。
Ⅳ・Ⅵ・Ⅶ郭は、いずれも小さな曲輪である。Ⅳ郭とⅦ郭の境(八坂神社付近)の土塁は枡形虎口を呈し、大手であった可能性が高い。南側では宿に関連する遺構と遺物が検出されている(水戸市教育委員会2016)。
Ⅷ郭は、内部南寄りに二重土塁があり、南北2つの曲輪に分かれる可能性がある。南側では、墓域が検出されている。Ⅸ郭は、報仏寺境内に位置する。西側の湿地帯を背に南・北・東の三方に土塁が取り囲む。Ⅹ郭は、遺存状態が悪く不明瞭な点が多い。
歴史
河和田城は、建武4年(1337)、大掾氏家臣の鍛冶弾正貞国(川和田入道)が築いたとされる。元中4年(1387)、難台山城の戦いの軍功により河和田城は佐竹氏配下の江戸通景が城主となる。応永33年(1426)、通景の子通房が水戸城主となり、河和田城は江戸氏の重臣である春秋尾張守幹治が城主となった。しかし、天正18年(1590)佐竹義宣による水戸城攻めにより江戸氏は没落し、翌日の12月20日に水戸城の支城を攻撃、この際河和田城も落城したとされる。特徴
河和田城は三~五重の土塁や堀といった防禦遺構が注目されがちだが、第一の特徴は手厚い防禦施設を備えながら、東の水戸城(0396)と西の中妻三十三郷(江戸氏の穀倉地帯)を結ぶ物資の中継・集積拠点としての機能を有した水城という点にある(関口2007)。城郭北側の桜川沿いには土塁が複数残存し、桜川からⅡ郭にかけて舟入遺構があり、城内に進入できた可能性がある。さらに城の周辺には桜川西遺跡・経塚遺跡・圷遺跡・赤塚遺跡等の中世の遺跡が分布し、活発なヒト・モノの往来があったことが発掘調査によって確認されている。また、外城・東組・南組等の地名も残る。このように河和田城は、主郭はもとより周辺の関連遺跡についても考古資料の蓄積が目覚ましく、城とそれに付帯する宿や村の実態を解明できる重要な城館遺跡である。
参考文献
・『茨城県の中世城館』