『尾張勤王青葉松事件之遺跡』碑
『尾張勤王青葉松事件之遺跡』碑([名古屋城 寺社・史跡])
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『尾張勤王青葉松事件之遺跡』碑の口コミ情報
2021年08月01日 【城郭道】たっきー
【青葉松事件】
慶応四年(明治元年)一月二十日
二之丸御殿南側にあった向屋敷(現在の愛知県体育館)の庭で、渡辺新左衛門ら三人の重臣が『朝廷により死を賜う』とだけ宣告され、処刑された。さらに、二十五日までに、評定所(現在の愛知県産業貿易会館)で十一名の命が奪われた。
当時、京都にいた前藩主・徳川慶勝は、尾張藩が天皇方につくか、幕府方につくかの決断に迫られていた。藩士の中でも対立があった。なお、尾張藩の決断は中部地方の藩に影響を与えるものであった。
そうした中、朝廷は倒幕の大号令を出し、東征を開始。慶勝は、朝廷に、藩論統一と周辺大名の動きを誘引するよう、京都から帰国を命令された。慶勝は名古屋に帰ってくると、佐幕派と目をつけた渡辺新左衛門らを処刑し、藩論を勤皇倒幕に統一。これを青葉松事件(当時、渡辺新左衛門家では、自ら『青葉松』と名乗っていたことが由来)という。
しかし、事件に関する証拠が隠滅されていることから、真相は不明である。
【昭和五十六年】
名古屋出身の作家・城山三郎が事件に興味を持ち、中日新聞に『冬の派閥』を執筆。
【現在】
二之丸に石碑と説明板が建つ。
【考察】
我の考えです。
何か裏で隠されていそうな事件ですね。慶勝が朝廷からの命令を守るためにやった可能性がありますし、何かもっと大きな存在が裏で操っていた可能性もあります。真相は不明。でも、こうやって考えるのが楽しいんですよね。