蓮華寺説明板
蓮華寺説明板([蜂須賀城 碑・説明板])
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蓮華寺説明板の口コミ情報
2025年09月27日 猫耳和装メイド萌え
蓮華寺
町で最古の歴史をもち、蜂須賀の弘法さんと親しまれ、今から千二百年程前に弘法大師によって開かれたと伝えられています。
多彩な文化財と豊かな自然環境が整っており、約三町歩の境内を有した、当町最大の寺院です。境内地には、直接ご覧いただくことはできませんが、天然記念物榧(かや)の木、県名勝の庭園があります。また、ここの寺は、尾張西部に残る唯一の大規模自然林として、昭和五十年県の自然環境保全地域第一号に指定されており、生きた自然の博物館を形成しています。特別指定地域の中心に蜂須賀山(11.8㍍)があり、山頂に二等三角点が設置されています。(立入注意)
また、戦国時代に活躍した蜂須賀小六公の菩提寺でもあり、蜂須賀小六・家政両公のご位牌をはじめ、貴重な文化財を多数蔵し
木造仏頭 (藤原期作)
法華経 紫紙鎌倉版 八巻 (室町期作)
金剛界及び胎蔵界曼荼羅 (鎌倉期作)
など、県指定文化財となっています。
また、南西へ100㍍程の所に、蜂須賀小六正勝公の旧宅跡碑があります。蜂須賀村では明治二十年、正勝公の没年三百年、家政公没年二五十年を期に郷土の英雄を顕彰する動きが高まり、昭和二年、地元の運動が実を結び顕彰碑が建てられる運びとなりました。南西には、堀をめぐらせ、一㌶にも及んだという蜂須賀城があったと伝えられています。
蜂須賀小六正勝公
大永六(1526)年生〜天正十四(1586)年没。美和町蜂須賀にて生誕。豊臣秀吉に仕え、永禄九(1556)年、墨俣一夜城の構築に尽力、天正元(1573)年には、近江長浜の内に所領を与えられ、同九年には播磨龍野城主となる。高松城攻めでは開城に尽力、秀吉公の中国大返し(明智光秀追討)の名□役となっている。秀吉公の参謀としてその名も高く、阿波一国を実子家政公に譲り、自らは最期まで秀吉公のそば近くに仕えた。蓮華寺には、位牌、墓碑が残っており、門前には顕彰碑がある。
蜂須賀家政公
永禄元(1558)年生〜寛永十五(1638)年没。美和町蜂須賀にて生誕。小六正勝公の実子。父とともに豊臣秀吉に仕え、天正六〜十(1578〜1582)年秀吉公の中国攻めに従軍。後、四国・九州征伐、小田原攻めと活躍。天正十三(1585)年には阿波徳島城主十七万六千石を与えられる。家政公が藩祖としてその礎を築いたことにより、蜂須賀家は代々徳島城主として明治維新に至るまで繁栄した。蓮華寺には父正勝公との合葬墓碑がある。また、位牌も残っている。
旧案内看板 (写真より文字起こしにの為、一部不鮮明で判別不能です。)
池鈴山 蓮華寺 (蜂須賀弘法)
【蓮華寺の由緒】
当寺は、嵯峨天皇 弘仁九年(818)、弘法大師(空海)によって開基された。大師が熱田神宮で千座護摩供を修した際、西北に無二の霊地があるとの霊告を受け、訪ね来た地が当地で、ここに伽藍を建立した。また阿伽井(井戸)を掘ったところ五鈷鈴(ごこれい︰法具)が現れ、清水が湧き出たことから山号を池鈴山(ちれいざん)と称した。鎌倉時代の文永元年(1264)には良敏(りょうびん)上人(熱田大宮司の息子)を迎え。中興の第一世となる。江戸時代には初代徳島藩主である蜂須賀家政及び歴代藩主による厚い庇護を受け、また明治に至るまで尾張藩から寺領五十石を賜った。戦国武将の蜂須賀正勝公・家政公の菩提寺としても知られる。
【弘法大師の御開帳と二十五菩薩お練り供養(市の無形民俗文化財)】
弘法大師、自らの尊像(身代わり大師像)を年に一度、御開帳している。出世大師の御開帳とも称され、開帳中は、多くの参拝者で賑わい、とりわけ四月第三日曜の午後からは、「二十五菩薩お練り供養」(下写真)が執り行われ、格別の賑わいを呈している。
【地名蜂須賀の由来について】
一説には弘法大師が、里民を悩ます黄蜂を加持により封じ塚を築いたことから、この地を八(蜂)塚と呼び、それがいつしか蜂須賀になったという。
あま市教育委員会
蓮華寺の説明板が新しくなり、周辺史跡地図や蜂須賀城についての記載は削られていました。
写真が不自然な角度なのは、ガラス面に写り込みを避ける為です。









