清洲公園
清洲公園([清洲城 関連施設])
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清洲公園の口コミ情報
2024年07月02日 前田利家猫耳メイド萌
清洲公園の概要
この公園は、「清洲村古城図」(旧尾張藩文庫・名古屋市蓬左文庫蔵)により、清洲城本丸・天守台の地域(東西四十間半・南北百一間)を包含する、約五千坪(16,500平方米)を保存し、織田信長公顕彰を目的として、大正十一年開園されたものである。
清洲城の沿革は、公園北端(東海道本線北側)天守台址に掲示してあるが、慶長十四年(1609)徳川家康が尾張藩都を清洲から名古屋へ遷すことをきめ、名古屋城郭と城下町の造成工事に着手し、同十五年より十八年迄の間に名古屋城の竣工と、清洲城下の町々・家々の新築移転がほぼ完了(清洲越し)清洲城は取り壊された。
尾張の中心都市であった清洲は、文明十年(1478)以来百三十年に亘る華やかな歴史の幕を引いて名古屋に生まれ変わったのである。
当時の臼引歌が残っている。
「思いがけない名古屋ができて 花の清洲は野となろう」
やがて清洲の旧市街地は逐次清洲新田として開発され、清洲城天守台址、約二百三十三坪(770平方米)の地のみは、尾張藩が清洲城址として保存し、明治以来宮内省付属地とされ、現在は県有地となっている。
明治十九年四月には、当公園地内を貫いて東海道本線が敷設された。
大正七年(1918)織田信長公への贈位を記念して、清洲公園建設が清洲町により計画され、設計を林学博士本多静六・田村剛両氏に依頼し、用地五千六百三十四坪(18,592平方米)を買収、大正九年県費補助事業として着工、同十年工事完了、同十一年開園した。公園樹木は町内有志の寄付によるものであり、公園建設費は四万八千六百十九円であった。
園内には織田家の木瓜紋を型どった信長池もあり、開園以来西春日井郡随一の公園として、歴史を探訪し、風景を賞する散策の客が多く、公園の内外周辺では、春の摘み草、五條川の舟遊び、魚釣り、夏のほたる狩り、川花火、秋の古城の月見、冬の雪見など風流の余情つきぬものがあった。
昭和十一年には、故竹田□太郎氏の寄贈により、二十六才 桶狭間出陣の雄姿を模した信長公銅像(作者 杉浦藤太郎 考証 関保之助)が建てられ、清洲のシンボルとなった。
その後、清洲公園の姿は、昭和三十八年の東海道新幹線の建設用地にかかったり、昭和四十七年に始まった清洲西部土地区画整理事業で公園西側が拡張となったり、昭和六十二年には、五條川の改修により土地が買収されたりして大きく変化し、現在は14,343平方㍍となっている。
平成九・十年の二ヵ年の整備事業により、当初の清洲公園の姿を生かしつつ、新しい清洲公園に生まれ変わった。
説明板より。 □は、金長。
織田信長公 桶狭間出陣乃歌
人間五十年 下天の内を くらぶれば
夢幻乃如しな里 ひとたび生を得て
滅せぬ者の 阿るべきか
愛知県知事 桑原幹根書
石碑碑文より。
織田信長公・濃姫之像・石碑・説明板等々色々あります。