土岐政房墓・成就院跡
土岐政房墓・成就院跡([田代城 寺社・史跡])
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土岐政房墓・成就院跡の口コミ情報
2022年09月27日 前田利家猫耳メイド萌
土岐氏は、清和源氏の流れをくむ、中世に美濃一帯を地盤に栄えた武家で、南北朝時代から戦国時代にかけては、この地方の守護職を勤めた一族です。土岐政房は、美濃国 第八代守護 成頼の長男で、第九代守護となりました。
明応四年・五年(1495・1496)の船田合戦では、弟 元頼を後継にしようとする、父 成頼、石丸利光らと戦い、これを打倒して権力を確立します。永正六年(1509)には守護所を革手から、長良川北岸の福光に移しました。
永正九年(1512)以降、守護代(守護の政務を代行する役職)の斎藤氏一族との間で対立が深まり、度々争いが起こります。永正十四年(1517)十二月には、ついに守護代 斎藤利良が政房の長子 頼武を擁立して兵を挙げ、政房との間で跡目をめぐり合戦になりました。一度は政房が敗北し、その後、頼武と利良を越前に追放するなど争いが続くさなか、永正十六年(1519)六月に没しました。
この地は寺屋敷と呼ばれ、成就院の跡と伝えられてきました。政房の墓には「承隆寺殿海雲宗寿大禅定門」と銘があります。『稲葉郡志』では、茜部神社裏手の、この寺屋敷一帯が、政房開基の承隆寺跡であると推定しています。成就院は、その塔頭と考えられ、この地には開基 天叟和尚の墓もあります。
説明板より。
住宅地や田畑となり、寺院跡の痕跡はなく、地名に寺屋敷と残るのみたが、境川近くに位置するので、砦としての利用も出来る様に、この地に建立されたのだろうか?