伊冨利部古墳
伊冨利部古墳([黒田城 寺社・史跡])
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伊冨利部古墳の口コミ情報
2022年06月08日 前田利家猫耳メイド萌
一宮市指定文化財 史跡 伊富利部古墳
伊富利部古墳は、高さ四㍍、直径約二十㍍の円墳である。昭和三十九年(1964)より、始まった区画整理により明らかになった「門間遺跡」の中心的存在である。この付近では、円墳の痕跡や横穴式石室の基底部と思われる、石組みも発掘調査で検出されており、相当数の後期古墳があったとされている。
伊富利部氏(伊福部ともいう)は、正倉院文書に「伊福部大磨」という名が記されており、伊富利部神社を氏神とする有力な豪族で、門間一帯に住んでいたことが伺える。尚、神社に保管されている古剣は、この古墳からの出土品とも考えられる。
一宮市教育委員会
古墳説明板より
伊富利部神社御由緒
式内伊富利部神社は、伊福部氏の祖神若都保命を祀る命は天孫瓊々杵命の御兄神 天火明命の裔弟彦命の御弟神に座します。延喜式神祗巻九に葉栗郡十座の内伊富利部神社 本国帳に従三位 伊富利部天神と載録せられ、相殿に上門間荘の一の宮として誉田別命を祀り、正八幡宮と申し従古より社殿棲闇高く聳え棲門宝蔵あり数十の末社、神官邸宅等周囲一里に達する神域なりと言伝えらる。後花園天皇の康正元年(1455年)社殿焼失し社地をも減ず、後奈良天皇 弘治二年(1556年)和田河内守願主となり社殿を再建す。又、正親町天皇 天正十年(1582年)黒田城主 澤井左衛門尉雄重、深く尊栄して之を再建神慮を慰め奉る。
石碑碑文より
古墳のある神社の認識で訪れたが、黒田城主 澤井家ゆかりの地(澤井家領徳之碑あり)と知らずに訪れたので、ある意味城絡みの史跡で良かったです。
伊福部氏の屋敷があったからか、住所に北屋敷と地名が残されている。
駐車場は、二の鳥居(朱色)の北側に数台分あります。