光明寺
光明寺([黒田城 寺社・史跡])
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光明寺の口コミ情報
2023年11月02日 前田利家猫耳メイド萌
光明寺は白鳳年間に建立されたと伝わる古刹で、寺の標柱には開創白鳳六年と刻まれています。
ここには、家康が徳川になる前、松平元康と名乗っていた時の言い伝えが残っています。
永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで、今川義元が討たれ独立を果たした松平元康と、今川義元を討ち取った織田信長との間に、永禄五年(1562年)清洲城で、『清洲同盟』が結ばれました。
光明寺に伝わる伝承によると、清洲同盟が締結された夜、織田家と松平家の間で酒宴が行われ、織田信長が酔い醒ましと称して松平元康を連れ出し、共に馬を走らせて光明寺近くにあった「光明寺城」に向かったという。この城から北にある稲葉山城を見ながら「美濃を制する者が天下を制するか」と話したと言う。
そして、織田信長は光明寺に滞在していた「青井意足」を紹介した。この青井意足は豊前宇佐郡の生まれと称しているようですが、別の伝承では光明寺城主神戸氏の一族であるともされています。
青井意足は「源八幡太郎義家の軍法」を伝える人物であるとし、織田信長もこの義家の軍法を手に入れたかったというが、織田氏は平家の流れを組む一族であることから断られていたとし、信長は同盟締結の礼として、源氏の出である元康を紹介したという。
元康は数日にわたり光明寺に滞在し、青井意足より源八幡太郎義家の軍法を授かったという。この軍法を継ぐ者は名前に"義"か"家"継ぐ事になっており、元康は今川義元から授かった「元」を「家」に変え、松平家康と称するようになったという。