浜田城(はまだじょう)
浜田城の基本情報
通称・別名
- 鵜の森城
所在地
- 三重県四日市市鵜の森1
旧国名
- 伊勢国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 田原忠秀
築城年
- 文明2年(1470)
主な改修者
- -
主な城主
- 田原氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁
指定文化財
- 市史跡(浜田城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
茂福城(三重県四日市市)[4.6km]
采女城(三重県四日市市)[5.4km]
神戸城(三重県鈴鹿市)[10.2km]
菰野城(三重県三重郡)[11.2km]
桑名城(三重県桑名市)[13.5km]
千種城(三重県三重郡)[14.1km]
国府城(三重県鈴鹿市)[15.4km]
峯城(三重県亀山市)[15.8km]
長島城(三重県桑名市)[16.0km]
亀山城(三重県亀山市)[19.4km]
浜田城の解説文
[引用元:Wikipedia「浜田城」の項目]
浜田城(はまだじょう)は、伊勢国三重郡(現三重県四日市市鵜の森一丁目)にあった日本の城(平城)。
概要
文明2年(1470年)、この地を治める田原忠秀によって築かれた。田原氏は、もともと上野国赤堀庄に住んでいたが、応永年間(1394年 - 1428年)に田原景信が伊勢に移り、四日市の赤堀に城を構えたとされる。景信は、長男の盛宗を羽津に、次男の秀宗を赤堀に、そして三男の忠秀を浜田に配して、これを赤堀三家と称した。
忠秀は、浜田城の西方にあった東海道を海に近い東に移して交通の便を図った。また市場の整備をおこなったのも彼の頃で、四日市という地名も忠秀のころに生まれた名前といわれる。
伊勢軍記によると、忠秀の二代後の田原元綱の時、織田信長の家臣、滝川一益に攻められ落城。 元綱は討死したが子の田原重綱は城を脱出し、織田信雄に属していたが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで討死し、田原家は滅んだとされる。 四日市市教育委員会によると、この浜田城落城は天正3年(1575年)の事で、その際に浜田城は廃城された。
また『勢州軍記』によると小牧・長久手の戦いの時、滝川雄利が松ヶ島城を開城した後、浜田城に移って籠城したとされる。
現在城跡は茶室「泗翠庵」を備えた鵜の森公園となっており、公園内の鵜森神社には忠秀以下四代の霊が祀られている。神社の周囲に土塁が残っている。また、同神社南側の池は、かつての浜田城の堀の一部である。
構造
近鉄四日市駅に近いことから周囲が市街地化しており、現状では鵜の森神社周辺に土塁の一部が現存しているに過ぎず、当時の城の詳細は不明である。
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浜田城の口コミ情報
2024年10月20日 長谷川兵部丞平蔵
浜田城
石碑と案内板、神社の本殿が曲輪❓と思われる遺構が認められます。藤原秀郷ゆかりの兜があります。同じ敷地内にある「泗翠庵」では美味しい和菓子とお抹茶で一服できます。
2024年10月19日 池田紀伊守信輝
鵜森神社[浜田城 寺社・史跡]
鎮座地は浜田城の旧跡で、文明年代(1400年代)より浜田城主田原家が崇敬した社でした。元は江田神社あるいは鵜森大明神と称していました。
江田神社と称したのは、江田川、江田町等の旧地名に由来すると言われています。鵜森の語源は昔付近一帯が松林の続く海岸で、海鵜が多く生息していた森ということに由来しており、自然発生的に社号となりました。因みに、地名として“鵜の森”と表現するようになったのは昭和38年5月1日に新町名制度が誕生した際に、読み易くするために「の」を1字挿入して“鵜の森”としたからであります。
城跡は、昭和二年(1927)に四日市市によって買収され、現在の鵜の森公園になりました。尚、公園は昭和三十年浜田城跡として市の指定記念物に指定されました。
2024年07月04日 図書頭RedKing
浜田城
三重県の経済の中心、大四日市の近鉄四日市駅すぐ、鵜の森神社の中にあります。東海道筋で街中のことですから神社と公園の形で市民に親しまれています。
神社の中に丁寧な説明板があって、四日市の歴史と一読の価値あります。石碑の文書も実に親切に現代語訳されています。
2024年06月21日 はるお
浜田城
まちなかの公園で静かな良い所でした。神社の歴史も興味深かったです。
2023年08月20日 課長大和守Ver.B
楠城[浜田城 周辺城郭]
楠城は1369年伊勢国司北畠顕泰配下の諏訪十郎正信が築城、諏訪氏三代が拠った後楠木氏が入り八代目楠木正盛が1584年小牧長久手合戦において加賀野井城にて羽柴方に討たれ城も落城、そしてここに楠木正成から連なる楠木宗家も絶えたとのことです。
城跡は三方を河川、残る東を海に面した要害の地ですが、現在は農地の中に明治期に城跡を示す為植えられたと言う楠の大木と石碑、説明板があるのみで遺構は消滅しています。
近畿に住んでいると馴染み深い楠木氏ですが、北伊勢に終焉の地があるということになかなか感慨深いモノを感じました(´ω`)
城跡自体はあっさりしているので周辺城郭と合わせて是非☆
2022年12月14日 RED副将軍
浜田城
地名の語源ともなった四日市の市場を整備した田原氏の居城🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
1470年に田原忠秀により築城。
田原忠秀は、上野国の有力土豪である赤堀景信の三男です。
赤堀氏は、伊勢国司の北畠氏に仕えて移り住み、赤堀景信の次男の赤堀秀宗が上野国赤堀城を継ぎ、長男の田原盛宗が伊勢国羽津に、三男の田原忠秀が伊勢国浜田に配して城を構えました。「赤堀三家」と呼ばれました。
田原忠秀は市場の整備を行い、このことが四日市の語源となりました。
1575年、織田信長による伊勢侵攻において、滝川一益に攻められ、当主であった田原元綱は討死。
田原元綱の子である田原重綱は美濃国へ逃れた織田信雄に仕えるも、1584年の小牧長久手の戦いにおいて加賀野井城で討死。田原氏は滅亡しました。
見所
現在は、鵜の森公園と鵜森神社の境内となっています。冠木門が復元され城跡碑と案内板が立っています。
土塁が残っているとのことですが、神社周辺と公園西側にも土塁っぽいのがありますが判然としません。かなり改変を受けており遺構はほぼ消失していると思います。
四日市市駅前から徒歩5分の好立地であり少しでも残っているだけマシです。
駐車場はありません。仕事で来た際に立ち寄りました。
2022年10月19日 きむねこ
浜田城
近鉄四日市駅から徒歩5分の距離にあります。公園の一角で石碑と募金で完成した門があります。
2022年05月27日 兵部卿スーさん
浜田城
近鉄四日市駅から森が見えているのが鵜の森公園でかつての浜田城跡です。その中のこんもりした丘に鵜森神社があり、その一角に城の碑と説明板が立っています。この神社には城主だった田原氏四代の霊が祀られているそうです。
2022年04月01日 足軽織部正かとざえもん
赤堀城[浜田城 周辺城郭]
石碑があるだけで、城郭などは残っていません。約700年ほど前に赤堀氏が築いたのことです。
2022年04月01日 足軽織部正かとざえもん
四日市陣屋[浜田城 周辺城郭]
今は中部西小学校にあります。江戸時代に四日市代官所としてあったらしいです。
2021年11月26日 おっちゃん868号
浜田城
現在、城跡は鵜の森公園になっており土塁が一部残るのみで、鵜森神社が建っています。南側の池はかつてのお堀だったと言われています。
2021年06月06日 安濃津中納言壱午
羽津城[浜田城 周辺城郭]
上野国赤堀庄に土着していた田原氏が、伊勢に移り、この地に城を構える。元亀3年、信長による伊勢侵攻で落城する。小牧・長久手合戦後、廃城となる。
現在、城址には主郭、僅かながら土塁が残っています。看板や立派な石碑も設置されています。主郭は近鉄名古屋線で分断されてしまっています。私が訪れた際、駐車場は何故か封鎖されていました。この辺りは道が狭いので注意!近鉄阿倉川駅から徒歩での登城が可能です。
2021年05月01日 課長大和守Ver.B
羽津城[浜田城 周辺城郭]
羽津城は15世紀後半頃に田原盛宗によって築かれ、以降6代にわたり1570年前後に織田軍の北伊勢侵攻により滅ぶまで赤堀三家の一拠点として存在した城です。
現在は公園となった主郭の真ん中を近鉄名古屋線が貫通し、2分割された中央部を橋で繋いでいます…(^^;
西側部分には土塁や空堀の痕跡がうっすら残り、城跡碑や説明板も建っています。
また東側部分は広場になっていて遺構は無いですが周辺住宅地との高低差が城を偲ばせています。
アクセスは近鉄阿倉川駅から程近い位置で、クルマの場合も駅近辺に置いて向かわれると良いと思います。
2021年04月22日 御弾正大弼
浜田城
四日市駅からすぐのところの公園の一角にあります。高台を予想してましたが、平地でした。広くはないですが見どころの多い神社でした。
2021年01月31日 能登守さとみっくす
浜田城
近鉄四日市駅付近にある浜田城。現在は鵜森神社と化し、復元された冠木門をはじめ、石碑説明板、土塁らしきものがあります。
なかなかいいところなので行ってみてください。
2020年11月14日 てるちゃん
浜田城
市民の公園になっています。土塁らしき盛り土、かつての物か不明です
2016年09月14日 ソバッソ80.0
浜田城
遺構はほぼ残ってないっぽいっす
アプリの示す場所にある「鵜の森公園」→「鵜森神社」の境内に土塁が残ってる程度だとの事。
実際に見ましたが、遺構なのか後世の造成なのかは僕には分からんです。
平和な公園があり、近隣住民たちの憩いの場になっていました。
ジイ様が歩行器を使って散歩して
お母さんと女のコが遊んでて
若いカップルが昼間からイチャイチャしてて
そんな中、僕はカメラ片手に遺構はないかー遺構はないかー、と30分もフラフラとしてました。
ガツガツと遺構を探さずに、のんびりと公園を散策するが良いかと。
ただ、東海道と四日市工業地帯との位置関係から、交通の要衝を押さえる城郭だった事は読み取れます。
古地図片手に移動される前の東海道を探しながら歩くのも面白そうです。
2016年02月21日 御狐神弾正尹双熾
浜田城
田原美作守忠秀によって築かれた城。
現在城跡は茶室を備えた鵜の森公園となり、公園内の神社に、忠秀以下四代の霊が祀られています。
公園側はかなり整備され遺構を確認することは難しいですが、神社側は一周するかのように土塁が巡っています。
茶室…泗翠庵(しすいあん)では一服400円でお菓子と抹茶が楽しめます。