千種城(ちぐさじょう)
千種城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 三重県三重郡菰野町千草
旧国名
- 伊勢国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 千種顕経
築城年
- 永徳元年〔南朝〕/弘和元年〔北朝〕(1381)
主な改修者
- -
主な城主
- 千種顕経、千種顕理
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(千種城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
菰野城(三重県三重郡)[3.1km]
上木城(三重県いなべ市)[13.4km]
采女城(三重県四日市市)[13.9km]
浜田城(三重県四日市市)[14.1km]
茂福城(三重県四日市市)[14.8km]
峯城(三重県亀山市)[15.4km]
黒川氏城(滋賀県甲賀市)[16.1km]
高野城(滋賀県東近江市)[17.0km]
神戸城(三重県鈴鹿市)[19.0km]
国府城(三重県鈴鹿市)[19.5km]
千種城の解説文
千種城の口コミ情報
2024年08月11日 RED副将軍
田光城[千種城 周辺城郭]
石積みが多様された梅戸氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
田光城(たびかじょう)と読みます
永延年間(987年〜989年)に田光隼則により築かれたと云われます。
田光隼則は梅戸氏に改姓しますが、梅戸氏は北勢53家のひとつに数えられ、幕府奉公衆として勢力を奮いました。
戦国時代には近江国守護の六角高頼の四男である六角高実を養子に迎えます。梅戸高実と称し、近江と亀山を結ぶ街道の通行税を徴収するために梅戸城を築いています。
1561年に梅戸高実が没すると次男の梅戸実秀が家督を承継するも、1568年に織田信長の北伊勢侵攻により落城し滅亡したとされます。
見所
近江八日市に至る八風峠を越える峠道と、員弁と亀山とを結ぶ街道の分岐点となる交通の要衝であり田光川北岸の断崖台地上に築かれています。
主郭は周囲に石積を伴う土塁が巡り、背後の西尾根は空堀で遮断し虎口から土橋が架かります。虎口の南側に天守台とも呼ばれる櫓台があります。西側虎口の他に南東と北側にも虎口が開口し、北側は桝形構造になっています。
西側尾根には土塁で区画された郭があり、南東の尾根にも数段の郭と堀底道が続いています。
石積みが多様されており、伊勢とはいえ六角らしさを感じるオススメ城です。
行き方は、国道306号沿いの多比鹿神社を目標に設定。境内の裏から登ることができ比高は約30mです。
ヤマビルの巣窟なので冬期の訪城をオススメします。
2024年02月29日 みその対馬守
千種城
駐車場が分からず、主郭まで登ってしまいました。5ナンバーまでなら行けると思います。城は整備されていて、堀切、土橋が見応えあります。支城の千種神社⛩️裏の金が崎城の堀、土塁は見応えあります。是非、合わせて見てください。
2024年02月03日 ショウちゃん
千種城
千種城は千種氏の居城として知られています。1568年に織田信長が滝川一益に命じて北伊勢を攻めたときに降伏しました。その後は織田信雄の領地となりますが、1584年に信雄と羽柴秀吉との問が不仲になると、秀吉は蒲生氏郷に攻めさせ、落城しています。現在城址には土塁や空堀などの遺構を確認できます。狭いですが車で本丸まで行けます🎵
2023年06月01日 RED副将軍
保々西城[千種城 周辺城郭]
主郭を巡る深い空堀と土橋が見事な朝倉氏の本拠地🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。康正年間(1455年〜1457年)に朝倉氏によって築かれたその居城とされます。
朝倉氏は、室町幕府の奉行衆であり、市場城、茂福城、中野城を築き周辺を支配していました。
1568年から1574年の織田信長による伊勢侵攻において家臣の滝川一益により攻められ落城。朝倉氏は滅亡したと云われます。
見所
朝明川の河岸丘陵上に築かれており、丘陵の南西端に単郭の主郭を配し、北側一帯に屋敷跡が広がります。
主郭は丘陵の端部であり西から南にかけての背後は崖地であり、北から東側にかけては土塁と深い空堀が巡ります。
また北と南東の2ヶ所に虎口が開口し土橋が架かっています。
屋敷跡もヤブ化していますが区間された土塁が明瞭で、全体的に極めて高い残存度の城跡です。
行き方は、北伊勢中央公園を目指してください。広い駐車場があり野球場のバックネット裏手辺りに登城口があります。全く登らないので楽ですが、夏期はヤブっているので避けた方が良いです。
2023年02月04日 安濃津中納言壱午
金ヶ原城[千種城 周辺城郭]
千種城の支城とされていますが、詳細不明です。現在は、千種神社の境内です。周囲にそこそこの規模の土塁と空堀が残っています。神社の駐車場から歩いてすぐです。千種城のついでに、時間がある方は行ってみてもいいかも。
2023年01月06日 RED副将軍
朝倉城[千種城 周辺城郭]
ヤブの中に深い空堀と虎口が見事に残る朝倉氏の拠点🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
朝倉城または市場城と呼ばれていますが伊勢国の城跡です。
朝倉城は土佐国が有名で但馬国にもあり、市場城は三河国が有名で伯耆国にもあります。
いずれにしても「じゃない方」は払拭できませんが遺構としては見事です✨
築城年代は不詳。朝倉氏の保々西城の支城であり、康正年間(1455年〜1457年)に保々西城が築かれる前から存在し、保々西城が築かれた後は支城となった様です。
朝倉氏は、室町幕府の奉公衆で、同族の保々西城朝倉氏、茂福城茂福氏、中野城中野氏と結んで勢力を保っていました。
1568年または1574年に織田信長の伊勢侵攻により保々西城とともに落城したとされます。
見所
朝明川北岸の河岸段丘に築かれています。
単郭方形の主郭で南を除く三方に土塁が巡り、その外側を折れが伴う深い空堀が巡ります。
北と南東に虎口が開口し、北の虎口には土橋が架かり見所のひとつです。
全体的にヤブで夏期の訪城は不可。マニア向け。写真は全く映えません。
行き方は、市場町公会所をまず目指してください。その奥に墓地があり説明坂があります。墓地の奥を進むと城域北側の空堀に架かる土橋に辿り着きます。
写真
①北側虎口
②③空堀
④空堀の底から
⑤⑥土塁
⑦土橋
⑧井戸跡
2022年12月26日 RED副将軍
千種城
主郭と二郭を隔てる空堀、土橋、土塁を併せた虎口が見事です✨
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。
南北朝時代に後醍醐天皇に仕えていた千種忠顕の子である千種顕経によって築かれたとされます。
千種忠顕は、南朝方として活躍し禅林寺城を居城としていましたが、千種顕経の時代に千種城を築いて禅林寺城から移ったと伝わります。
永徳年間(1381年〜1384年)に当主であった千種顕季の時代には北伊勢四十八家の棟梁として統括していました。
1555年、近江国守護の佐々木六角氏が北伊勢に侵攻。千種氏は六角氏重臣の後藤賢豊の弟を養子に迎えて和睦。以降は六角氏の配下となり北伊勢侵攻の拠点となりました。
その後、織田信長による伊勢侵攻の際には信長家臣の滝川一益の配下に属し、織田信長が本能寺で没し、1583年に来た伊勢が織田信雄の支配下となると織田信雄に属し、その後は豊臣秀吉に仕えました。
1615年、大阪夏の陣で当主の千種顕理が討死すると千種氏嫡流は途絶え、千種城は廃城となりました。
見所
主郭は公園として整備されており、西から南に土塁が巡ります。東側の二郭とは土橋が架かる空堀に土塁と虎口で区切られ一番の見所です。
主郭西側は大堀切で遮断されていますがヤブ化しています。
二郭の東側下は三郭で空堀も残っているみたいですが私有地となっていました。
2022年03月10日 安濃津中納言壱午
保々西城[千種城 周辺城郭]
北勢中央公園内の野球場近くの駐車場に駐車できます。そこから、案内に沿って野球場をグルっと回り込むと城の入口です。
入ればすぐに屋敷跡です。この屋敷跡がなんといってもデカい!!城主朝倉氏は守れるのか?と思うくらい。疑問に思いつつ、主郭に向かって進みます。所々に、虎口等の防御設備があり、ただの屋敷では無かったのかなと。看板の縄張りを見てみれば、驚く程の広さの屋敷!度肝抜かれました…主郭に入るには、1列でしか侵入できない細い土橋を通る必要が…土橋両側の堀も深い深い!写真で表現出来ないのがもどかしい。いざ、主郭に入ると鬱蒼とした薮…ま、まあ主郭までの遺構が素晴らしいので…
北勢最大級の城郭と称される城ですが、その名に恥じぬ名城ですね!また来城しようと思います。
2020年09月27日 みずのみや出雲守
千種城
城の入口に立つと、三段に分かれた急な階段が立ちはだかります。
「この先に何段続いているのだろう…」と不安になるかも知れませんが安心して下さい。
見えているものが全てです。
階段の上はもう二の丸です。
2020年04月17日 近江守Silvine
朝倉城[千種城 周辺城郭]
朝倉城は別名市場城とも言い、近隣の保々西城と同時期に築かれたと思われる城です。低土塁で田の字に区画された屋敷地と、深い堀と高い土塁で区切られた単郭方形の主郭からなり、保々西城と共通点が非常に多く見られます。
屋敷地は現在宅地となって消滅したところも多くありますが、集落内には一部土塁が残っています。主郭内は竹林で荒れ気味ですが、堀や土塁、井戸ははっきり確認できます。
地図のポイントの辺りに墓地があり、そこに城の説明書きと駐車スペースがあります。
2019年06月25日 しげぽん
千種城
よく整備された公園になってます。駐車スペースがないのでご注意ください。
近くに千草こども公園があり、車を停められるのでそこから登城するのが良いと思います
2016年02月28日 御狐神弾正尹双熾
千種城
行き方は千種小学校の南側を通る県道762号線を西へ進んで行くと右側に広いゲートボール場らしき広場がある。
そこを左に曲がり、すぐ右に曲がる。
南西に進んで、ゆるい坂を行くと千種城の投稿写真のように階段、説明板が見えてきます。
軽自動車ぐらいなら、そのまま山の上に駐車できるみたいですが狭いので、途中にあった広場に停めて歩いて行く事をオススメします。(広場から歩いても5分ぐらいなので)
子供が基地とか作って遊びそうな森の中の城址公園って感じです。妙にワクワクするサイズ感と雰囲気があります♪
遺構も土塁・空堀・土橋とわかりやすくハッキリと確認でき除草などわりと整備もされていて見やすかったです。
石碑にとまっている鷹がリアルでカッコいいです!
戦国時代、千種氏は員弁・桑名・朝明・三重四郡の北勢四十八家の棟梁となる有力者であったが、天正12年(1584)豊臣秀吉軍の蒲生氏郷に攻められ事実上滅ぼされた。同19年顕理のとき当城を失い、音羽村を与えられた。最後の城主顕理は元和元年(1615)大阪夏の陣で戦死し、千種氏は滅んだ。
現在は城跡に昭和2年(1927)建立の「千種城址」の記念碑が残っている。敷地の中央部に幅7メートル、深さ2メートルほどの空堀があり、その両面に本丸跡と二の丸跡、そして周囲には高さ2メートルの土塁がある。同38年1月に県指定史跡文化財となった。なお、千種家の菩提寺であり位牌がまつられている禅林寺は鵜川原地区下村にある。