千種城(ちぐさじょう)
千種城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 三重県三重郡菰野町千草
旧国名
- 伊勢国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 千種顕経
築城年
- 永徳元年〔南朝〕/弘和元年〔北朝〕(1381)
主な改修者
- -
主な城主
- 千種顕経、千種顕理
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(千種城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
菰野城(三重県三重郡)[3.1km]
上木城(三重県いなべ市)[13.4km]
采女城(三重県四日市市)[13.9km]
浜田城(三重県四日市市)[14.1km]
茂福城(三重県四日市市)[14.8km]
峯城(三重県亀山市)[15.3km]
黒川氏城(滋賀県甲賀市)[16.1km]
高野城(滋賀県東近江市)[17.0km]
神戸城(三重県鈴鹿市)[19.0km]
国府城(三重県鈴鹿市)[19.5km]
千種城の解説文
千種城の口コミ情報
2020年09月27日 みずのみや出雲守
千種城
城の入口に立つと、三段に分かれた急な階段が立ちはだかります。
「この先に何段続いているのだろう…」と不安になるかも知れませんが安心して下さい。
見えているものが全てです。
階段の上はもう二の丸です。
2020年04月17日 近江守Silvine
朝倉城[千種城 周辺城郭]
朝倉城は別名市場城とも言い、近隣の保々西城と同時期に築かれたと思われる城です。低土塁で田の字に区画された屋敷地と、深い堀と高い土塁で区切られた単郭方形の主郭からなり、保々西城と共通点が非常に多く見られます。
屋敷地は現在宅地となって消滅したところも多くありますが、集落内には一部土塁が残っています。主郭内は竹林で荒れ気味ですが、堀や土塁、井戸ははっきり確認できます。
地図のポイントの辺りに墓地があり、そこに城の説明書きと駐車スペースがあります。
2020年04月17日 小野近江守湖青
保々西城[千種城 周辺城郭]
滝川一益の大活躍によって終焉を迎えた、という理由で菰野城(土方氏の陣屋となる前は北勢五郡を任された滝川一益が代官所を置いた)の関連城郭として口コミ投稿しますが、同じ朝倉氏繋がりなどで考えると茂福城の関連城郭のほうが妥当…?なんて悩んだり。いつかリア攻めマップの距離制限がなくなったら(現在は登録城にそれぞれ付属するスポット扱いなので、全国地図には反映されない)そんな悩み?楽しみ?も雲散霧消するのでしょうか。
本題に戻りまして、案内標柱に従い整備された見学路を行くと、すぐに土塁に囲まれた住居区画が見えてきます。素人(私)目にも人為の跡が明瞭なので見過ごすことは無いと思います。そして北虎口から主郭部へ入って行くのですが、突然現れる深さ7メートルほどの豪快な空堀と、それを渡すまさに字の通りの土橋に思わず声が出ます(個人の感想であり効果を保証するものではありません)。私の拙い写真だと、えーまた大げさな、って感じに思われる方もみえるかもでお城に申し訳ない限りながら、本当に凄いんです…(語彙力)。もうひとつの虎口は東につけられています。こちらも美しい枡形が…え?薮の写真しかないですか?はい、遺構の残存具合は良好だけど、笹が元気で。それでも実際に見ると虎口の折れ具合はわかります。いつか、西に聳える鈴鹿の山々のような笹枯れがおきる日を待つか、冬に訪れるか、想像力を強くもって見つめるかすると良い気がします。
余談ながら、甘いもん好きな方なら、ここから茂福城方面へ向かう途中、大矢知城近くに石田三成っぽい名前の和菓子やさんがあるのご存知かもですが、そこのかき氷もリア頂き、空堀の深さと白玉のフワッフワさについて感動を共有したいな…収束したコロナら。そんな平和な日が、早く訪れるよう努めよう、と思うのでした。
2020年04月17日 小野近江守湖青
北勢中央公園駐車場(北西側入城口最寄)[千種城 駐車場]
保々西城への入城路のうち、車でお越しの場合の最短かつアップダウン無しの駐車場とルートのご案内です。
駐車場はスポットの位置、北勢中央公園西駐車場が最寄です。ここから、一塁側でも三塁側でもお好みの応援席からセンターバックスクリーンを目指します。バックスクリーン裏には保々西城の案内柱が建っていますので、それに従ってお進み下さい。
グーグルマップさんなどで検索すると表示される登城口は駐車場がありませんのでこちらから行かれる場合は北勢中央公園の遊具などが見える東側の駐車場に車を止められるとよいと思います。駐車場はありませんがこちら(農道側)の登城口には立派な案内板が設置されています。
どちらのルートも、小さなお子様連れのリア攻めでも無理なく公園の一部のような感覚で行けるよう整備されていますが時期によっては笹がうるさい時もあるかもしれません。
2020年04月17日 小野近江守湖青
田光城[千種城 周辺城郭]
田光(タピカ)城の築城年代は定かではありませんが、永延年間(987年~989年)に田光(後に梅戸氏に姓を改めています)隼則によって築かれたと伝わります。
戦国時代に梅戸氏は近江国佐々木六角氏の六角高頼の四男高実を養子に迎え、通行税を徴収するために新たに梅戸城を築いたとされます。しかし永禄11年(1568年)織田信長の北伊勢侵攻により田光、梅戸両城とも落とされることとなりました。
地勢的には、鈴鹿山脈から東へ高度を下げていく尾根の先端部の丘陵に位置し、南を田光川、北は断崖、西の尾根は大堀切で断ち、東に多比鹿神社、田光の集落という感じです。近江と伊勢を結ぶ八風越と千種越の伊勢側中間地点にあり、それを後の巡見街道と呼ばれる道で繋ぐ位置にあることからも軍事、経済上の要衝であることがわかります。
お城の規模は、東西250m、南北80mの範囲に渡ります。主郭は広く周囲に石積を伴う土塁が巡っています。主郭だけでなくいたる所に石積を多用しているのが印象的です。西尾根は堀切で断ち切り虎口に明瞭な土橋を架けています。西虎口から出た尾根には土塁で囲まれた屋敷跡区画のようなものがあります。西虎口の南側には天守台とも伝わる櫓台があり、現在は櫓では無く村の庄屋さんだった諸岡家のお墓が佇んでいます。虎口は他に南東隅と北側にあり、北側は右に屈折して入る構造になっています。南東虎口から神社へ伸びた尾根には数段の曲輪があり、堀底道が続いています。大手筋にあたることから、最も技巧的な縄張となっていて、好きな方には堪らないと思います。
多比鹿神社を目標に訪れるのがわかりやすいと思います。車訪城の場合は公会堂駐車場を利用させていただきます。入城口は、神社本殿裏側や神社北側の道路からだとⅤ郭から順番に攻める感じで。または主郭西の堀切のもっと西の林道からも、屋敷跡群を貫く土橋?を渡って攻め入れます。
お花好き、ご当地モノが好きな方にはぜひまた来る春に、シデコブシの自生地とあわせてタピ活に訪れて頂けたら、なんて。
2019年06月25日 しげぽん
千種城
よく整備された公園になってます。駐車スペースがないのでご注意ください。
近くに千草こども公園があり、車を停められるのでそこから登城するのが良いと思います
2016年02月28日 御狐神左近衛大将双熾
千種城
行き方は千種小学校の南側を通る県道762号線を西へ進んで行くと右側に広いゲートボール場らしき広場がある。
そこを左に曲がり、すぐ右に曲がる。
南西に進んで、ゆるい坂を行くと千種城の投稿写真のように階段、説明板が見えてきます。
軽自動車ぐらいなら、そのまま山の上に駐車できるみたいですが狭いので、途中にあった広場に停めて歩いて行く事をオススメします。(広場から歩いても5分ぐらいなので)
子供が基地とか作って遊びそうな森の中の城址公園って感じです。妙にワクワクするサイズ感と雰囲気があります♪
遺構も土塁・空堀・土橋とわかりやすくハッキリと確認でき除草などわりと整備もされていて見やすかったです。
石碑にとまっている鷹がリアルでカッコいいです!
戦国時代、千種氏は員弁・桑名・朝明・三重四郡の北勢四十八家の棟梁となる有力者であったが、天正12年(1584)豊臣秀吉軍の蒲生氏郷に攻められ事実上滅ぼされた。同19年顕理のとき当城を失い、音羽村を与えられた。最後の城主顕理は元和元年(1615)大阪夏の陣で戦死し、千種氏は滅んだ。
現在は城跡に昭和2年(1927)建立の「千種城址」の記念碑が残っている。敷地の中央部に幅7メートル、深さ2メートルほどの空堀があり、その両面に本丸跡と二の丸跡、そして周囲には高さ2メートルの土塁がある。同38年1月に県指定史跡文化財となった。なお、千種家の菩提寺であり位牌がまつられている禅林寺は鵜川原地区下村にある。
情報提供:菰野町教育委員会