高野城(たかのじょう)
高野城の基本情報
通称・別名
- (高野館、お鍋館)
所在地
- 滋賀県東近江市永源寺高野町
旧国名
- 近江国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 小倉実房
築城年
- 不明
主な改修者
- 織田信吉
主な城主
- 小倉氏、織田氏
廃城年
- -
遺構
- (発掘調査:石垣)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板(高野館遺跡)
周辺の城
-
百済寺(滋賀県東近江市)[5.1km]
鯰江城(滋賀県東近江市)[6.7km]
佐久良城(滋賀県蒲生郡)[6.8km]
日野城(滋賀県蒲生郡)[9.3km]
大塚城(滋賀県東近江市)[11.2km]
勝楽寺城(滋賀県犬上郡)[12.1km]
箕作城(滋賀県東近江市)[12.9km]
目加田城(滋賀県愛知郡)[13.3km]
高室山城(滋賀県犬上郡)[14.2km]
後藤館(滋賀県東近江市)[14.6km]
高野城の解説文
高野城の口コミ情報
2023年02月19日 RED副将軍✳️
和南城[高野城 周辺城郭]
コンパクトながらも虎口、堀切、土橋、石積みが残る小倉氏の拠点🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。南北朝時代に和南実経によって築かれた和南氏の居城と伝わります。
和南氏は、清和源氏の系譜である小倉氏の庶流です。小倉氏は佐久良城を本拠地とし愛知・神崎・蒲生の三郡を支配し佐々木六角氏や蒲生氏と争っていました。
小倉氏はやがて内紛により分かれ、和南氏は小倉西家に属します。
1558年、小倉西家は織田信長に付いて、小倉宗家が属する佐々木六角氏と戦い、和南山合戦の舞台となりました。
翌年に焼失し廃城となった様です。
見所
尾根筋に郭が連なり、それぞれは堀切と土塁で区切られています。堀切は土橋が架り明瞭に残っています。
土塁にも石積みが見られます。
しかし、削平状況等に後世の改変とも思われる部分があります。
超マイナーですが面白い城跡です✨
行き方は、和南集落の多度神社を目標に設定。東背後の尾根上に築かれています。比高は50mくらいで直ぐに辿り着きます。
2022年04月05日 昌幸近江守野面積み㊉
和南城[高野城 周辺城郭]
東近江市の和南(わなみ)城。
歴史は先達の方が詳しく述べられていますので、そちらをご覧になって下さい。
城のつくりは内側を石積みで囲まれた削平地を主郭とすると、山側に土橋と堀切で区切られた郭が二つあり(ただし削平されていません)、尾根の先端に一つ確認できます。なお主郭には庭園跡があったらしいのですが残念ながら気づけませんでした。最高所に主郭がないので、街道監視の城ではないかと思われます。
多度神社を目指して行けばいいと思いますが、いかんせん駐車スペースがありません。地区内の道は大変細いため軽自動車でないと無理です。私は気持ち広くなってた所にギリギリに停め、さっと見学しました。多度神社裏の防獣柵を抜け直登、2〜3分で城域です。
【写真の説明】
①多度神社から登り切った所の郭。物見がありそう。
②多度神社方向へ落ちる竪堀。
③物見郭からの虎口。
④主郭
⑤主郭土塁
⑥堀切1
⑦土橋越しに堀切1を見る
⑧堀切2と土橋
2020年09月02日 【熊】近江守Silvine
九居瀬城[高野城 周辺城郭]
九居瀬城は東近江市永源寺町九居瀬にあり、先に口コミに挙げた和南城と同じく、小倉氏西家の城です。
土塁は見られませんが、石積が残っているのが特徴で、主郭内に堀切も残ります。
国道から永源寺ダムを渡った先の公園に登城路があります。公園までは川向かいに道路もあり駐車場もありますが、私が行った際には通行止めになっていました。南北に山頂があり、登城路から山道が整備されていますが、道なりに行くと北の山頂(標高471m)にたどり着きます。ここが出丸で、道なりに行くと下りになり鉄塔ですが、そちらには進まず、南へ道なき道を進まなければないけません。南の山頂(標高487m)が主郭です。北の山頂からは10分程度、麓の公園からは40分程度です。
2020年05月02日 【熊】近江守Silvine
和南城[高野城 周辺城郭]
和南城は東近江の山沿いに勢力を持っていた小倉氏(西家)の城です。小倉氏は六角氏に属する佐久良城の宗家と独立志向の強い永源寺山上城の西家に分かれて争い、結果西家が宗家の主を討ち取りますが、その後に六角氏麾下の蒲生氏に攻め込まれて敗れ、小倉氏は勢力を衰退させる事となります。
城は東近江市(旧永源寺町)の和南町にあり、紅葉橋から県道188号線を南下した先のカーブの奥にある多度神社から獣避け柵を開けて登ります。道はよくわかりませんが尾根に向かって登り、5分ほどで主郭です。
主郭は石積の入ったしっかりした土塁で囲まれています。スロープ状の土橋から一段上がったところに庭園跡と見られる窪地や丸石の石積が見られますが、この辺りは削平が甘く斜面になっています。さらに尾根を登ると土塁とはっきりした堀切があり、ここまでが城域です。
近くの永源寺は紅葉の名所として有名ですが、小倉氏の争いに巻き込まれ全山焼失し江戸期に再興されました。こちらも併せて観光されると良いかと思います。
2012年11月05日 ŧ‹”ŧ‹”。
高野城
紅葉橋を渡り、高野神社の鳥居をくぐって約150m左手の茶畑奥に案内板がありますが、それ以外はなし。
周りも、畑や民家も石垣が多くひょっとしたら当時の石が使われているかも?
また、橋の手前には山上藩の住居跡も
2010年09月12日 古楽侍従広家
高野城
織田信長の側室お鍋の方が、本能寺から関ヶ原まで住んだ城。
歴史
織田信長の側室、お鍋の方ゆかりの城館だ。築城年代は定かではないが、城は康安元年(1331)に寂室元光が開いた永願寺の門前にある。この地は六角氏領として小倉氏が治めていた。
元亀元年(1570)、織田信長は越前朝倉氏攻めの最中に浅井氏の謀反に遭い、千草越えで岐阜へと帰還した。その時先導したのがお鍋の方の夫である小倉右京亮だった。六角氏の家臣でありながら信長を助けたことを咎められ、右京亮は自害。その際にお鍋の方は信長を頼り側室となり、やがて信長の7男信高と8男の信吉を産んだ。
後にお鍋の方は豊臣秀吉からこの地を与えられて屋敷を設け、信吉とともにこの地を治めた。しかし慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後に領地を没収され、信吉とともに京都で生涯を閉じた。
遺構
現在は土地改良事業などにより消滅している。中世から山越えのルートとして知られた千草越えや八風街道を睨み、北は高野山、残りの3辺を愛知川に守られた立地だ。
発掘調査により、上下二段以上の曲輪が連続する、石垣と土塁で囲まれた東西80m×南北60m以上の城館であることが確認された。枡形虎口と巨大なスロープが検出され、在地の土豪が築いた城館とは一線を画す様相だったようだ。中世の石垣が発掘されており、顎だしの技法も確認されている。
交通
・名神高速道路八日市ICから車で約15分参考文献
・『図解 近畿の城Ⅴ』戎光祥出版、2018年。