百済寺(ひゃくさいじ)
百済寺の基本情報
通称・別名
- 百済寺城
所在地
- 滋賀県東近江市百済寺町他
旧国名
- 近江国
分類・構造
- 城郭寺院
天守構造
- なし
築城主
- 伝・聖徳太子
築城年
- 伝・推古天皇14年(606)
主な改修者
- -
主な城主
- 堀秀政
廃城年
- -
遺構
- 石垣、土塁、横堀(空堀)、竪堀、本堂、赤門、仁王門
指定文化財
- 国史跡(百済寺)、国重要文化財(本堂)
再建造物
- -
周辺の城
-
鯰江城(滋賀県東近江市)[4.9km]
高野城(滋賀県東近江市)[5.1km]
勝楽寺城(滋賀県犬上郡)[7.1km]
目加田城(滋賀県愛知郡)[8.4km]
佐久良城(滋賀県蒲生郡)[9.7km]
箕作城(滋賀県東近江市)[10.0km]
高室山城(滋賀県犬上郡)[10.3km]
敏満寺城(滋賀県犬上郡)[10.3km]
和田山城(滋賀県東近江市)[10.6km]
佐生日吉城(滋賀県東近江市)[11.8km]
百済寺の解説文
[引用元:Wikipedia「百済寺」の項目]
百済寺(ひゃくさいじ)は、滋賀県東近江市百済寺町にある天台宗の寺院。山号は釈迦山。本尊は十一面観音。開基は聖徳太子とされる。金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の1つとして知られる。境内は国の史跡に指定されている。また、紅葉の名所としても知られている。
歴史
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する。寺伝によれば、推古天皇14年(606年)、聖徳太子の建立という。聖徳太子は当時来朝していた高麗(高句麗)の僧・恵慈とともにこの地に至った時、山中に不思議な光を見た。その光の元を訪ねて行くと、それは霊木の杉であった。太子はその杉を、根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音像(植木観音)を作り、像を囲むように堂を建てた。これが百済寺の始まりであるといい、百済の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と号したという。
百済寺の史料上の初見は11世紀の寛治3年(1089年)であり、聖徳太子創建との伝承がどこまで史実を反映したものかは不明であるが、百済寺という寺号から見て、この寺は渡来系氏族の氏寺として開創された可能性が高い。平安時代には、近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台宗の寺院となり、「湖東の小叡山」や「天台別院」とも称されるようになった。
平安時代から中世にかけて、北谷・東谷・西谷・南谷に1,000近い坊を持つなどかなりの規模をもった寺院だったようだが、明応7年(1498年)の火災で本堂とその近辺が焼け、その数年後の文亀3年(1503年)、近江守護六角高頼と守護代伊庭貞隆との争いに巻き込まれてほとんど焼失した。この2回の火災で創建以来の建物ばかりでなく、仏像、寺宝、記録類なども大方焼けてしまった。
それでも寺勢はやがて回復し、戦国時代に来日した宣教師のルイス・フロイスは当寺のことを「地上の楽園」とその書簡に書いている。
元亀4年(1573年)4月、織田信長に抵抗を続けていた六角承禎が百済寺の近くにあった鯰江城に籠城した。その際、百済寺は六角氏の味方をして兵糧を運び入れ、また六角軍の妻子を匿うなどをしたため同月11日に信長による焼き討ちに遭い、またも全焼した。ただ、本尊の植木観音は約8㎞離れた場所にある奥の院に避難させて無事であった。
天正12年(1584年)、堀秀政によって仮本堂が建立される。慶長7年(1602年)には寺領146石5斗を安堵され、次いで元和3年(1617年)には将軍徳川秀忠より寺領100石を安堵される。
寛永11年(1634年)に天海大僧正の弟子亮算が入山して塔頭の千手坊の名を喜見院に変更し、当地は彦根藩の飛び地でもあったために彦根藩からの支援も得て復興が行われ、慶安3年(1650年)に本堂・仁王門・赤門が完成した。よって本堂をはじめ現在の建物はすべて近世以降の再建である。
万治元年(1658年)、井伊直滋が父である彦根藩主の井伊直孝に廃嫡されると当寺で出家している。
喜見院は今とは別の場所にあったが、元文元年(1736年)に焼失し、翌元文2年(1737年)に仁王門下の左方に移転し、1940年(昭和15年)に現在地に移転して本坊となっている。参道両側には石垣で出来た僧坊跡である百坊跡・二百坊跡・七百坊跡がある。
なお、織田信長の焼き討ちを受ける前はこの寺院で「百済寺樽」といわれる清酒を酒造していたが、焼き討ちの被害によって廃止された。2017年(平成29年)には百済寺樽の復活プロジェクトが成功し、444年ぶりに『百済寺樽』が完成、数量限定で販売された。
また、「釈迦山」という山号は大変珍しく、百済寺のみである。現在は紅葉の名所となっている。
境内
赤門を入り参道を進むと途中左側に本坊の喜見院があり、そこから石段を上ったところに仁王門、さらに上ったところに本堂が建つ。
- 本堂(重要文化財) - 慶安3年(1650年)再建。入母屋造、檜皮(ひわだ)葺き。中世以来の密教仏堂の形式を残しつつ細部には近世的特質の現われた建築。元来の本堂は現在地の裏手にあり、規模も大きかった。また、旧本堂の右方(南)には五重塔が建っていた。
- 鐘楼(東近江市指定有形文化財)
- 三所権現社(東近江市指定有形文化財) - 祭神:熊野三所権現
- 弁天堂
- 五重塔跡
- 仁王門 - 慶安3年(1650年)再建。
- 喜見院 - 本坊。
- 庫裏
- 書院(国登録有形文化財) - 1940年(昭和15年)再建。
- 不動堂
- 庭園「天下遠望の名園」 - 昭和時代中期に鈍穴流花文造園三代目・山村文七郎により作庭された池泉回遊式庭園。
- 表門
- 百坊跡 - 石垣が残る。
- 二百坊跡 - 石垣が残る。
- 七百坊跡 - 石垣が残る。
- 赤門(総門、東近江市指定有形文化財) - 慶安3年(1650年)再建。
- 阿弥陀堂
- ねずみ地蔵
- 井伊直滋の墓
文化財
重要文化財
- 本堂
- 木造十一面観音立像 - 植木観音。本尊、一木造で像高2.49メートル。本堂安置[1]。奈良時代の作で滋賀県最古の木造仏である。奈良時代作の木造仏では京都府京都市山科区にある安祥寺の十一面観音立像(2.52メートル)に次いで全国二番目の大きさである。
- 絹本著色日吉山王曼荼羅図
- 黒漆蒔絵箱(紺紙金泥法華経入り) 1合
- 金銅唐草文磬 1面
- 鈸子(ばっし) 1対・銅鑼 1口 - それぞれに建長八年丙辰八月日の刻銘がある。
国指定史跡
- 百済寺境内
国登録有形文化財
- 喜見院書院
滋賀県指定有形文化財
- 紺紙金泥妙法蓮華経 開結経共 部分10巻
東近江市指定有形文化財
- 赤門(総門)
- 鐘楼
- 熊野三所権現社
- 木造聖観音坐像
- 木造如意輪観音半跏思惟像
- 金銅弥勒半跏思惟像
- 木造不動明王二童子像 3躯
- 木造毘沙門天立像 附:永正九年造立願文一紙
- 絹本著色黄不動図
- 絹本著色如意輪観音図
- 神馬図絵馬 2面
- 石曳絵馬
- 三十六歌仙屏風 1双
- 孔雀文銅磬 1面
- 百済寺懸佛7面 附:1面 8面
- 熊野三所権現御正躰(鏡板)
- 百済寺境内出土遺物 6点
- 瀬戸灰釉瓶子(中世墓出土)
- 常滑三耳壺(中世墓出土)
- 白磁四耳壺(中世墓出土)
- 土師質筒型容器(中世墓出土)
- 常滑ニ筋壺(中世墓出土)
- 信楽桧垣文壺(塔跡出土)
東近江市指定名勝
- 百済寺境内
前後の札所
- 近江西国三十三観音霊場
- 15 金剛輪寺 - 16 百済寺 - 17 大覚寺
- 湖国十一面観音菩薩霊場
- 9 石馬寺 - 10 百済寺 - 11 金剛輪寺
- 聖徳太子霊跡
- 33 西方院 - 34 百済寺 - 35 長命寺
- びわ湖百八霊場
- 63 金剛輪寺 - 64 百済寺 - 65 長壽寺
- 神仏霊場巡拝の道
- 140 永源寺 - 141 百済寺 - 142 日牟禮八幡宮
交通アクセス
- 東海道線能登川駅から近江鉄道バス「角能線」、百済寺本町停留所から東に徒歩1.2km。乗車時間35分。運賃は2018年8月現在、能登川駅より大人740円、近江鉄道本線愛知川駅前より大人560円。
- 近江鉄道八日市駅からちょこっとバス「愛東線・北回り」、百済寺本坊前停留所下車。乗車時間約30分。運賃は2018年8月現在、大人均一200円。
- 近江鉄道八日市駅からちょこっとバス「愛東線・南回り」、愛東北小前停留所から東に徒歩1.5km。乗車時間約25分。運賃は2018年8月現在、大人均一200円。
- 名神ハイウェイバス京都線特急「百済寺」下車、徒歩約20分。乗車時間は京都駅より約60分。名鉄バスセンター・名古屋駅より約100分。運賃は2018年8月現在、名鉄バスセンター・名古屋駅より大人1,600円、京都駅より大人1,300円。
- ※近江鉄道バスと名神ハイウェイバス京都線は1時間に1便程度、東近江市ちょこっとバスは両路線とも1日3便のみの運行となっている。名神ハイウェイバス京都線は特急のみ停車し、超特急は停車しない。
その他
- 2023年(令和5年)、NHKが百済寺から許可を取り、本堂で連続テレビ小説「ブギウギ」の撮影のリハーサルを行っていたところ、縁側の床板を支えていた木材が折れ、床板約20枚が5メートルにわたり大きく陥没する事案が発生した。
参考文献
- 井上靖、塚本善隆監修、岡部伊都子、濱中光哲、濱中光永、北角良澄ほか著 『古寺巡礼近江6 湖東三山』、淡交社、1980年。
- 『日本歴史地名大系 滋賀県の地名』、平凡社。
- 『角川日本地名大辞典 滋賀県』、角川書店。
- 『国史大辞典』、吉川弘文館。
- 観峰館・令和5年度特別企画展『近江・聖徳太子伝承社寺の美術―地域に根付いた文化財たち―』、2023年。
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百済寺の口コミ情報
2024年10月22日 はっちゃん
百済寺
湖東三山のステキなお寺でした。近くの永源寺が良かったです。紅葉の時はきっと素晴らしいと思います。
2024年10月19日 yunyun
百済寺
可愛い猫がいるお寺です😺庭園の池には鯉がたくさんいます!参道をしばらく歩くと荘厳な本殿があります!
2024年07月28日 RED副将軍
百済寺
聖徳太子創建の古刹
オススメ度 ★★★★★
606年に聖徳太子の勅願により創建されたと云われ、百済国の梵閣龍雲寺を模されたとされます。
平安時代に比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台宗の寺院となり天台別院とも称されました。
戦国時代には城塞化され、ルイス・フロイスも訪れて「地上の楽園」と書簡に記録しています。
1573年には織田信長と敵対する六角義賢に与したため焼き討ちに遭い焼失。奥の院に退避させていた本尊や経巻類は残っています。
1584年、豊臣家臣である堀秀政の寄進により仮本堂が建立。
江戸時代となると寺領は安堵され、1650年には彦根藩井伊氏の寄進により本堂、仁王門、山門が再建されました。
見所
湖東三山(百済寺、西明寺、金剛輪寺)のひとつであり紅葉の名所であります。西明寺と金剛輪寺の本堂は国宝ですが、百済寺は織田信長の焼き討ちにより焼失し江戸時代に再建されたため重要文化財です。
戦国時代には城郭寺院として武装化したため野面積みの石垣、土塁、空堀などが残ります。
特に湖東流紋岩の石垣は美しく、織田信長も安土城の建造に参考にしたと云われますが、焼き討ち後に安土城の石垣に利用するために多くの石垣が崩され運ばれたとされます。
赤門の付近に空堀や土塁が残り、参道の左右や本坊、僧坊跡には石垣が残ります。
2023年12月05日 シゲ越後守豊右衛門
百済寺
湖東三山の一つである百済寺。紅葉が有名ですので、リア攻めには紅葉の季節がオススメです。所々に当時の石垣があり、また信長に焼き討ちにあった歴史に触れることができる散策には、もってこいです、
2023年04月30日 サスケ左近衛少将
百済寺
こちらの本堂。国の重要文化財に指定されているんですが、床板を支える木材がこのように折れてしまっています
2022年11月29日 次郎坊
百済寺
紅葉がとても綺麗でした。入場料は600円でした。
2022年11月28日 野良犬しろチロ丸
百済寺
秋は紅葉が綺麗です。お寺の入場料は600円です。
2022年11月05日 かげちゃん参號
納経所(御朱印所)[百済寺 御城印]
百済寺の御朱印は、本坊脇の納経所で拝受出来ます。種類は、"百済寺城"の御城印を含めて4,5種類ありました。ただし、百済寺城の御城印は、書き置きタイプのみです。後、先に御朱印帳を納経所に預けてから本堂にお参りするのが、正しいみたいです(^_^;)
2022年09月18日 竹に雀騎馬隊サンゴ摂政
百済寺
レンタカーで他の湖東三山の西明寺と金剛林寺も回られてはと思います。歩くと遠いけど、車なら近いし効率良く回れると思います。
2022年08月29日
百済寺
紅葉には、少し早いですが。夏草もいいものですよ。
庭園は管理してる方も見えるし、適度な草むらで。
ツツジその他見頃もいろいろありますので。
要塞都市であった頃の千坊を復元CGとかで、見てみたいですね
2021年11月21日 ばらく~だ
百済寺
この時期はちょうど紅葉が見頃で、とてもきれいでした🍁この百済寺の参道の石垣と石段は、信長が安土城築城の際に参考にしたとの説明文がありました。
2021年07月28日 kaz-h河内守
百済寺
下界と隔離された、古を感じられる場所。石垣も風情あり、近江の平地を見下ろせなかなかの場所でした。
2021年04月04日 玄蕃助がげちゃんⅡ号T型
百済寺
【金剛輪寺】
百済寺と同じ”湖東三山”のお寺さんです。奈良時代に行基さんによって開山されて、慈覚大師が法話(説法?)された事をきっかけで天台宗になりました。室町時代に近江を治めていた六角氏や京極氏に兵糧米や軍資金を強要されてから、城郭寺院になったみたいです。本堂までの参道が長いクランク状態になっていたり、参道脇が石垣だったり、本坊の明寿院の入口脇に櫓台らしき石垣があったりします。で、御朱印ですが、拝観受付窓口か明寿院で日によって拝領できる場所が違うので、受付のおばさんに確認して下さい。タバコは、所々に喫煙スペースがあるので安心して下さいw
2020年11月21日 桜丹波守とも
百済寺
階段が少し大変ですが、苔が生えた趣のある石垣が観れます♪
小さな石のため、信長に曳かれなかったと、説明書きがありました。
2020年10月20日 虎之助24
百済寺
階段は辛かったですが、雨上がりで苔が綺麗でした。
2017年01月09日 OROKA参議
百済寺
お寺の中腹までは車で行けました、湖東三山なので駐車場もたっぷりあります。そこから入山料を払って立派な庭園→坂を登って本堂へ。
現地の説明板には300ほどの郭があり、当時は石垣で覆われていたが、信長の焼き討ちの後に安土城の石垣に使うために壊し引き抜かれたとありました。本堂へと向かう道では、積み直した石垣と、チラホラ取り壊しを逃れた当初の石垣が残っているように見えます。それを探してみると面白いです。
本堂は焼き討ちの後に再建されたもので、なかなか味があります。そして、本道から降りる時には郭群がよく見え、城郭として使用した事が意識できます。
また、駐車場より下にある赤門付近には、空堀もありました。