茂福城(もちぶくじょう)

茂福城の基本情報

通称・別名

所在地

三重県四日市市茂福町26

旧国名

伊勢国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

朝倉(平)貞冬

築城年

応永年間(1416〜1422)

主な改修者

主な城主

茂福(朝倉)氏

廃城年

遺構

土壇

指定文化財

市史跡(茂福城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

浜田城(三重県四日市市)[4.6km]
桑名城(三重県桑名市)[8.8km]
長島城(三重県桑名市)[11.5km]
菰野城(三重県三重郡)[12.3km]
願証寺(三重県桑名市)[13.9km]

茂福城の解説文

茂福城(もちぶくじょう)は、かつて伊勢国北勢地方の朝明郡に存在した日本の城。北勢四十八家の朝倉氏の居城。三重県四日市市富田地区の小城。所在地は三重県四日市市富田地区茂福町。

歴史
桓武平氏の平維茂の子孫の平貞冬が、15世紀の1400年前後に越前国朝倉より茂福へ来て茂福城を築き、朝倉を名乗った。北勢四十八家として朝倉下野守が茂福城を築城して茂福氏と称した。永禄年間(1560年)に羽津城主の田原氏と争い神戸氏の救援軍が富田浜に上陸して戦国時代に茂福合戦があった。
保々西城の朝倉備前守と同族である。茂福城跡は縄文時代から~古代の里ノ内遺跡と同じ場所にある。三重県四日市市富田地区茂福町里ノ内(伊勢国朝明郡茂福村の考古学遺跡)。三重県四日市市北部の中小河川の朝明川と海蔵川の沖積平野に位置する。中世の遺跡。室町時代から戦国時代にかけての城舘である。
永禄10年(1567年)に、最後の城主の茂福掃部輔助身の(かもんのすけ)盈豊は、織田家の武将の滝川一益に忠誠心がない裏切りの不信をもたれて長島城へ誘い出されて(出頭して)殺された。茂福城主(朝倉氏)を失った茂福城兵は、滝川勢と激しく戦ったが、攻め落とされた。滝川一益は、目代として山口氏を置き、茂福地域を統治した。
保々西城の朝倉備前守と同族の朝倉一族であった。
織田氏の伊勢侵攻で北勢四十八家の朝倉氏が滅亡した時期は、永禄10年(1567年説)と永禄11年説(1568年説)と元亀二年(1571年説)がある。

データ
土塁は少し残存していることが分かる。遺構は残存していることが分からないような状態である。立派は茂福城跡地の石碑が建立されている。
近鉄名古屋線の線路脇にあり、城跡に小さな土壇と石碑が建立されている。小さな土壇が、茂福城主郭北西隅の土塁の一部で主郭部は60m×65mの規模で主郭を包囲する土塁と空堀が左右にある。
永禄3年に、羽津城主の田原氏と茂福城主の朝倉氏が争い、関氏(関一族)を巻き込んでの茂福合戦では、茂福城の朝倉氏側が勝利した。北勢四十八家の一つ朝倉氏は永禄10年に織田信長による北伊勢侵攻で茂福城が落城して朝倉氏は滅亡した。

遺物
遺物は羽釜・壺形土器・山茶碗・下駄・中世の陶器・土師器・木製品・常滑焼・京都系と中勢地方と北勢地方の体部から口縁にかけてやや強いヨコナデが認められる土師器。木製品は板状に加工された。長さは13.6cm以上。幅は5.4cm以上。厚さ0.7cm。長辺の片方は尖っており、長経4cmの孔が一箇所に突かれている。発掘期間は1977年(昭和52年)から~2004年(平成16年)8月の27年間の長期間調査であった。半分が現在は田んぼである。半分はフェンスと案内図がある立ち入り禁止となっている 調査方法は以下3方法である。
発掘調査の方法。
立会調査の方法。
試掘調査の方法。
地表約6.6cmまでは駐車場の表土・砂利石・耕作地に堆積する。三重県教育委員会が発掘調査。三重県埋蔵文化財センターが発掘調査を担当した。三重県道富田山城線の道路の整備事業が発掘のきっかけである。
下層は以下となっている。上層部にふい黄色砂層があり、下層部にオリーブがある。...

茂福城の口コミ情報

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