茂福城(もちぶくじょう)

茂福城の基本情報

通称・別名

所在地

三重県四日市市茂福町26

旧国名

伊勢国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

朝倉(平)貞冬

築城年

応永年間(1394〜1427)

主な改修者

主な城主

茂福(朝倉)氏

廃城年

遺構

土壇

指定文化財

市史跡(茂福城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

浜田城(三重県四日市市)[4.6km]
桑名城(三重県桑名市)[8.9km]
采女城(三重県四日市市)[9.9km]
長島城(三重県桑名市)[11.4km]
菰野城(三重県三重郡)[12.3km]
神戸城(三重県鈴鹿市)[14.7km]
千種城(三重県三重郡)[14.8km]
小木江城(愛知県愛西市)[16.7km]
大草城(愛知県知多市)[18.4km]
大野城(愛知県愛西市)[18.6km]

茂福城の解説文



茂福城(もちぶくじょう[1])は、三重県四日市市富田地区茂福町里ノ内(伊勢国朝明郡(北勢地方))にあった日本の城。北勢四十八家・朝倉氏の居城。四日市市市指定史跡[2]

歴史 

桓武平氏、平維茂の子孫の平貞冬が、15世紀初頭の1400年前後に越前国朝倉より茂福へ来て茂福城を築き、朝倉氏を名乗った。保々西城の朝倉備前守と同族の朝倉一族である。朝倉下野守が北勢四十八家として茂福氏と称した。

城跡は朝明川と海蔵川が形成した沖積平野に位置し、縄文時代~古代の里ノ内遺跡と同じ場所にある。

戦国時代の永禄年間(1560年)には、関氏を巻き込みつつ羽津城の田原氏と争い、神戸氏の援軍が富田浜に上陸して茂福合戦が起きた。

永禄10年(1567年)に、最後の城主・茂福掃部輔盈豊は、織田家の武将滝川一益に裏切りの不信をもたれて長島城へ誘い出され殺害された。城主を失った茂福城兵は滝川勢と激しく戦ったが攻め落とされた。滝川一益は目代として山口氏を置き、茂福地域を統治した[3] 。この茂福氏滅亡の年代は永禄10年(1567年)説のほか、永禄11年(1568年)説、元亀二年(1571年)説がある[4]

== 遺構 ==

近鉄名古屋線の線路脇に土壇状の高まりがあり、石碑が建立されている [5] 。この土壇は主郭北西隅の土塁の一部で、主郭部は60メートル×65メートルの規模で、土塁と空堀が左右にあった。土塁以外の遺構は埋没し、現況では残存していることが分からないような状態である。

三重県道富田山城線道路の整備事業などにより、発掘調査が行われている。四日市市教育委員会や三重県埋蔵文化財センターが調査を担当し、 1977年(昭和52年)から2012年(平成24年)までの間に複数回実施されている。主郭を巡る堀が検出されている。

遺物 

黒色粘土質土層から遺物が出土した。出土遺物は羽釜・壺形土器・山茶碗・下駄・中世の陶器・土師器・木製品・常滑焼などで、中世土師器は京都系と中勢地方と北勢地方の体部から口縁にかけてやや強いヨコナデが認められるものである。

土器・陶磁器類のほかに木製品もあり、長さ13.6センチメートル以上×幅5.4センチメートル以上×厚さ0.7センチメートルで、長辺の片方は尖っており、長径4センチメートルの孔が一箇所に突かれた、板状に加工されたものが出土した。

交通 

鉄道

  • JR関西本線 富田浜駅から徒歩で約10分。

自動車

  • 東名阪自動車道 四日市東ICから三重県道64号上海老茂福線経由。
  • 駐車場はなし。

参考文献 

  • 『茂福城跡 - 四日市都市計画道路富田山城線道路改良事業に伴う埋蔵文化財発掘調査記録-』 四日市市茂福城跡調査会、1978年(昭和53年)2月

  • 『茂福城跡2 - 四日市市埋蔵文化財発掘調査報告書26-』 四日市市教育委員会、2000年(平成12年)8月

  • 『茂福城跡・里ノ内遺跡3 - 三重県埋蔵文化財調査報告249-』三重県埋蔵文化財センター、2004年(平成16年)3月

  • 『茂福城跡4 - 四日市市埋蔵文化財発掘調査報告書33-』 四日市市教育委員会、2004年(平成16年)11月

  • 『茂福城跡5 - 四日市市埋蔵文化財発掘調査報告書45-』 四日市市教育委員会、2012年(平成24年)6月

  • 『ふるさと富田』21 - 24ページ

茂福城の口コミ情報

2024年07月04日 図書頭RedKing
茂福城



江戸時代の東海道沿いで加えて近鉄電車も通っている田園地帯では、近世から営々と都市化が進められて、尚進化しているのでしょう。
すぐ西に垂坂公園のある小山の方が、或いは隣の久留倍官衙遺跡の方が防衛上も展望も良さそうです。
古代の東海道ルートが、官衙遺跡に近くて海岸線が沖に伸びていったとすると、城の目的が違うのでしょう。
東海道沿いには、由緒ある式代社や、お伊勢さんのお古の資材製鳥居の神社等々が居並ぶことから、地域住民だけでない街道を往来する人々にとっても茂福の象徴だったのでしょう。

2024年05月26日 RED副将軍
茂福城



越前朝倉氏の庶流である茂福氏の居城🏯

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。応永年間(1394年〜1427年)に平貞冬により築かれたのが始まりと云われます。
平貞冬は桓武平氏の系譜とされ、越前朝倉から戦乱を逃れてこの地へ逃れて土着。朝倉貞冬と称して築いたのが茂福城です。
その後、朝倉下野守が北勢四十八家として茂福氏と称し、代々足利氏に仕えて茂福を領しました。
1560年、同じ北勢四十八家である羽津城の田原国虎と茂福城の茂福盈豊が争った茂福合戦が勃発。神戸氏勢の援護を受けた茂福氏が勝利したとされます。
1567年、茂福盈豊は伊勢に侵攻してきた織田信長に降りましたが、六角義賢に内通していたとされ滝川一益により長島城で謀殺。その後、茂福城には滝川一益家臣の山口次郎四郎が目代として入城したとされます。

見所
朝明川と海蔵川に挟まれた標高2mの沖積地に築かれています。
現在は近鉄名古屋線の線路沿いにあり、宅地および農地化によりほぼ消失。主郭の北西隅部とされる土塁が残り、城跡碑と案内板が立っています。

2023年04月26日 伊勢守ヒロピン
茂福城

最近事務所が立ち駐車スペースが無くなりました。近鉄線踏切東側で攻略

2023年03月31日 安濃津中納言壱午
山城城(下野城)[茂福城  周辺城郭]



江見名藤七郎秀宗の居城。代々、江見名氏が居城としましたが、織田信長により滅ぼされました。

看板の裏に空堀を確認できました。ですが、竹薮がひどいので、奥へ入る気にはなれず。真の城マニアならば、薮などものともせず入るのでしょうが、私には無理でした。またまだ精進してまいります。

入った猛者の方がいれば遺構の状況を教えてください!

2023年01月08日 課長大和守Ver.B
伊坂城[茂福城  周辺城郭]



伊坂城は伊坂ダムの東側にある細長い丘陵上にあった城ですが、新名神高速の建設に伴い北側1/2程度の遺構が失われています。
築城者は伊坂氏で江戸末期の文献から永禄11年の織田軍侵攻により落城したと見られていましたが、高速建設時の発掘調査から天正年間辺りまでは城が存続していたことが判明したとか。

肝心の遺構ですが主郭の北側土塁や内枡形辺りは残念ながら残っていませんが、三方の土塁や堀切、井戸などは健在でした。
城域東側の屋敷地周辺の遺構も難を逃れているようですが、竹と薮蚊の猛威にあまり隅々まで見られていません…(^^;
また発掘調査時に検出された櫓門の礎石がダム駐車場の西に移設されており、伊坂城の説明もそちらで見ることが出来ます。

アクセスはダム駐車場より北側の林道から高速側へ向かい、高速を跨ぐ伊坂城橋手前から高速沿いに伸びる遊歩道を歩くと楽に主郭まで辿り着けます。
新名神建設で遺構はほぼ消滅していると思われる方もおられるかもですが、まだまだ城として見どころが残っていましたのでダムカード収集がてらぶらりと訪問してみて下さい(^^)

2022年08月08日 安濃津中納言壱午
富田城[茂福城  周辺城郭]



三日平氏の乱の際に、伊勢平氏一党が築いた。その後は南部氏が入り、代々この地を治める。ちなみに南部氏は北勢四十八家の1つ。織田信長の伊勢侵攻で時の城主、兼綱は自刃、落城する。

現在は、富田幼稚園や富田小学校の敷地内となっています。城としての遺構は皆無です… 写真中央右のイチョウの木は富田城の名残だそうです。

2022年05月26日 兵部卿スーさん
茂福城



近鉄の電車の中から茂福城の立て札が見えます。Google mapsには記載されてないので、電車から見た位置と城めぐりの位置を頼りに富田駅から歩きました。線路沿いのこんもりした丘でした。

2022年05月09日 釆女正佐吉。
東坂部城[茂福城  周辺城郭]



北勢2城目、先人様の口コミ拝見し東坂部城へGO!口コミに従い『浄光坊』さんの駐車場をお借りしました。この辺り道が狭く、駐車場の出入り口も狭めなのでご注意を。グーグルマップで『浄光坊』を検索すると、お寺を囲むようにぐるんと逆U字の道があります。道右が逆三角のコンクリになっており、この直角部分から登城しました。

すぐ郭に出ます。すると奥から山菜を手にしたご婦人にバッタリ!どう見てもお寺のお庫裏さん風情。「ビックリした〜」と仰られ(そりゃそうだ)、私もビックリしてアワアワワ不審者状態。とりあえず「すみません、お邪魔しています。お城を見させていただきます」と頭を下げ「どうぞどうぞ」と軽くご挨拶。コレだけじゃ山菜泥棒と間違われちゃう!と慌てて「土塁とかあるんですよね」と付け足しそれとなく、城です山菜じゃありませんアピ。お庫裏さんは「そうそう。向こうはあまり手入れしてないからこっちからが良いわよ」と右ルートを示して下さいました。

しかしこういう咄嗟の時って難しい。キョドって上手くお話しできない。癒し系って言うの?柔らかい雰囲気で相手の会話をスムーズに引き出せる人が本当に羨ましい。後から思えば、何かの時用に手土産でも準備しておけば良かった、とかお城の由来をお聞きすれば良かった、とか。大体そもそも梯子が立派過ぎたじゃん!下山時見たら、横すぐお庫裏さんだし。行きは周り全然見てなかった…。まずはご挨拶に伺ってから登城すべきだったと反省。下山時も外にいらっしゃったので、ご挨拶できたのが幸いでした。
もし行かれる方があれば、ぜひ地元銘菓でも持参し、ご挨拶してから登城して下さい。(ついでにお城の謂れも聞いて私に教えて♡)

お城は郭と土塁と堀。土塁は高さ3〜5メートル程でしょうか。郭の向こうは完全に裏山、いえ完全に裏庭でした。日頃からお手入れされてるようで、割れタイルが敷いてあったり様々な植物が植えられたりで、お庭状態でした。その奥は竹藪で詳細不明。

今回初めて北勢のお城を訪問しましたが、良い印象を持ちました。人が親切だし、ざっと辺りを見渡したところ低山が多く、体力に自信のない方でも登城できる城が多そうな雰囲気。ぜひまた訪れたい土地です。

あ、でも、親切にして下さったのは、もしかしてだけど私に伝説の采女の面影を重ねられたからかもしれません…。

2022年05月08日 釆女正佐吉。
茂福城



リア攻めしたいの。でもガチ山城は気分じゃないの…。そんな揺れる乙女心にフィットする平城&平山城。北勢向けてGO!まずは平城茂福城へ。

わお!丸いこんもりした木が見えてきた!ゴールデンな今の気候は、新緑を目にするとテンション上がる!さてさて駐車場はと…。ん?仮設トイレがあるわね?工場中?今日はお休みみたいだからちょっと失礼して停めさせていただきます。

この土壇が城の主廓の北西角に当たるのね。フェンスの外側も土塁が残ってるみたい。よし、北へ回って撮ってみる!踏切、線路めっちゃ近!城から数メートル。城と電車…これめっちゃ映えるヤツじゃん!おーっとカンカン鳴りだした。電車が来るわ、クルワ、郭…キタキタキタキタ--‼︎パシャっ…パシャっ…連写とかどうやんの?電車近!怖!ハァ楽しい…え?また鳴り出した!またクルワ、曲輪、パシャっ…パシャり…。…えーッ⁉︎また廓?パ、パシャ…り…。

大袈裟でなく、数分起きに近鉄電車が通過します。旅先で電車見るのってテンション上がり、旅情をかきたてられます。これもきっとゴールデンな気候と線路脇にあるお城のおかげ。

北から南から畑からしきりに見て写真撮ってると、地元のお爺さんから「イエでも建てはんの?」と話しかけられました。(イエイエ、イエは建てません)「この辺は市の指定区域やからね〜」おずおずと「茂福城を見に来ました。」とお話しすると「あの茂福神社辺りまで城があったらしいんやけどね。探せばウチに資料とかあるんやけどな〜。」(ナンパかしら?)「信長にエラい目に負うたで。あの山は焼き討ちされて100人亡くなっとる」などなど教えてくださいました。親切なお爺さんでした。

この辺りは正に『信長被害者友の会』大幹部。茂福城は北勢四十八家(北勢地域に勢力をもった小規模の城主・豪族の集合体)の一つで、最後の城主茂福盈豊は、織田家の伊勢国攻略の先鋒、滝川一益に殺害され、その後落城しています。

とにかく、ビビりで腰ひけで連写も出来ない私でも何とか城&電車の写真が撮れましたので、めぐらー兼鉄ちゃんならば必ず!映え写真が撮れるのでオススメです。ただ、土壇の北東をL字に囲むように低土塁ならぬ低コンクリが出来上がっており、建築確認済の板も取り付けてあるのが気になります。映え狙いならば、近い時期に訪れるのが吉かもしれません。

2022年02月06日 安濃津中納言壱午
中上城[茂福城  周辺城郭]



別名花戸城。坂太郎左衛門の居城とされる。坂太郎左衛門は後に、蓮如に帰依し、花戸山遍崇寺を建立する。

三孤子川に掛かる橋付近に看板があり、道路沿いに駐車できます。橋を越え民家を通り過ぎると「花戸城の跡」と書かれた石碑が見えて来ます。石碑前の道路の突き当たりまで進むと工場が見えます。その付近に入口があり、少し進むと墓があります。お参りしてから進むと、何本もの土塁が見えてきます。その付近が城域でしょうか。竹藪で分からづらく、そこまで土塁の高さはありませんが、この辺りの城では遺構は残っている方でしょう。曲輪東側は断崖絶壁で、ちょっと怖い。

看板は新しく、地元の方々に愛されている事が伺えます。近くにお住まいの方々の整備に感謝します。

2021年06月13日 安濃津中納言壱午
西坂部城[茂福城  周辺城郭]



1204年、三日平家の乱で若菜五郎によって築かれる。室町時代、赤堀藤太郎が一時期、居城としたと伝わる。

現在は、僅かながら土塁、石碑、看板があります。三重城山公園として整備されており、低山なので散歩には丁度良いです。曲輪らしい跡はあります。土塁は低く、藪だらけです。堀切などは確認できませんでした。

2021年06月08日 安濃津中納言壱午
東坂部城[茂福城  周辺城郭]



歴史は調べても全く出てこないため、詳細不明です。

浄光坊の北側一帯の林が東坂部城です。浄光坊の駐車場をお借りしました。なかなか良い雰囲気のお寺です。お参りしてから行きましょう。境内を出て城の方へ向かいます。東側に入口らしいものがあり、そこから入れます。他にも入口はあるかもしれません。

いよいよ入ります。あまり期待していなかったのですが、思いのほか立派な土塁、空堀が残っています。伊賀甲賀地方でお馴染みの単郭式のようです。藪だらけですが、土塁の上に登って、1周できます。

遺構としては大満足です。近隣の茂福城や浜田城と比べれば、コチラの方が断然オススメです。こちらに来た際は、ぜひ立ち寄られてみては?

2021年05月22日 安濃津中納言壱午
大矢知城[茂福城  周辺城郭]



伊勢小守護代、大矢知氏の居城。1568年、滝川一益の伊勢侵攻により、落城。その後、大矢知氏は柴田勝家に仕える。

現在は配水場となっており、看板のみが立っています。残念ながら、遺構は確認できませんでした。

2021年04月20日 安濃津中納言壱午
萱生城[茂福城  周辺城郭]



北勢四十八家の一つ、春日部宗方によって築かれた。ちなみに伊勢春日部氏は武蔵春日部氏と縁があるらしい。永禄11年、滝川一益の侵攻を受け、撃退。しかし、天正元年に攻略され、廃城となる。小牧・長久手合戦時は徳川家康が城を修復し、佐久間正勝を守将としている。

現在は暁学園の敷地内となっているため、遺構はほとんど残っていません。遺構としては唯一、『髪のびの井戸』が残っています。これは天正元年の織田軍による侵攻の際に、城内にいた女人衆たちが身を投じた井戸です。戦前までは石積が残っていたそうです。

山腹は未だ、手付かずの藪であるため、遺構が残っているかもしれないですね。

2020年08月12日 安濃津中納言壱午
蒔田城[茂福城  周辺城郭]

蒔田相模守宗勝の居城として知られています。その後、春日部氏が入城し織田軍の滝川一益に攻められ落城したとされています。横浜市にも蒔田城があるので関係あるかも…

現在は長命寺の境内となっています。規模は小さいですが水堀が綺麗に残っています。長命寺の入口に蒔田城の説明板があります。土塁などの造形物は無いので土が好きな方はお勧めできないかも…

住宅街の中なので駐車場が有りません。近くのミニストップの駐車場をお借りしました。

北伊勢の城はほとんど織田軍の侵攻により落城し歴史的にはあまり知られていませんが、小さな土豪がこの地で精一杯生き残る努力をしていたと思うと何だか儚く思いましたが、その努力が垣間見えて少し目がうるっと来ました…他の北伊勢の城で想いにふけってみるのも良いかもしれませんね。

茂福城の周辺スポット情報

 伊坂城櫓門礎石(移設)(遺構・復元物)

 石碑・説明板(碑・説明板)

 蒔田城(周辺城郭)

 伊坂城(周辺城郭)

 萱生城(周辺城郭)

 大矢知城(周辺城郭)

 東坂部城(周辺城郭)

 西坂部城(周辺城郭)

 富田城(周辺城郭)

 中上城(周辺城郭)

 山城城(下野城)(周辺城郭)

 垂坂山古戦場跡(寺社・史跡)

 久留倍官衙遺跡(寺社・史跡)

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