山岡城
山岡城([和田城 周辺城郭])
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山岡城の口コミ情報
2024年12月20日 ʀᴇᴅ副将軍
織田信長の家臣である山岡景隆・景友の拠点🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。山岡氏は大原氏の一族であり、城主の名に山岡景隆・山岡景友の名が伝わります。
山岡氏は、山岡資広が瀬田城に移り山岡氏を称したのが始まりとされ栗太郡を拠点としていました。佐々木六角氏に属していましたが、1573年に織田信長と足利義昭の争いにより信長包囲網が布かれると織田信長に仕え、佐久間信盛の与力となったとされます。
1582年に本能寺の変で織田信長が没すると、明智光秀からの誘いもありましたが断り、瀬田橋を焼き落として安土城に攻め寄せるのを防いだとされます。
1583年の賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家に付いたため、羽柴秀吉により山岡景隆は改易となり甲賀で隠遁したとされます。
山岡景友は、1584年の小牧・長久手の戦いでも織田信雄に属して豊臣秀吉と戦うも、後に豊臣秀吉の家臣となり所領は安堵され御伽衆にも加わります。その後、道阿弥と号して豊臣秀吉の没後も徳川家康の近習となり使者として活躍しました。
見所
毛枚川西岸の丘陵先端部に築かれています。
大きく三つの郭で構成されており、大半が民家の敷地となっています。北側の郭の西側から北側にかけて土塁が残り、西側に虎口が開口しています。
城域東側は削られており、往時は更に規模が大きかった様です。
近隣の大福寺には山岡景隆・山岡景友の墓所があります。
2021年09月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
大原城は和田城の北西約1.5km、杣川の西岸、標高約226mの丘陵北東辺端部上平場に主郭が存します。東麓の舗装路からの比高は20m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、城域の半分以上は民家の敷地、お城は個人所有の土地に立地していると思われるので訪ねる際は細心の注意を払いましょう。自分は目立たぬよう、隠れるように散策しました。又、車を捨てるなら直近にある大福寺の駐車場がよいでしょう。
築城年代は不明ですが、築城者は大伴氏(伴氏)の後裔、伴四党の一つ、大原氏の一族、山岡氏とされています。近江伴氏の系譜は諸説あるようで、平安時代末期に三河伴氏から近江国甲賀郡大原村に遷住した伴資乗を祖とするものと伴大納言善男の九世の孫、資兼の末孫、資業を祖とするもの、もしくはそれらの合わせ技があるようです。
…こう説明するとあんまし面白くない…この山岡氏は戦国時代に比較的著名な人物である山岡景隆と山岡景友(道阿弥)を輩出したと書けば興味が湧くかな。山岡景隆は六角氏の被官(六角氏の軍事的中核の一つであった。)として当初織田信長に抵抗しますが、その後は信長の信頼厚い南近江の有力国人として京への重要な渡河点の一つである瀬田城(本領であった志賀郡、栗太郡を安堵されたということなのかな。)を任されていました。景隆は本能寺の変において明智光秀に同心せず、瀬田の橋を落として光秀のタイムテーブルを狂わせる働きを示し、弟の景友は関ヶ原の戦いで地味ながらも重要な役割を果たしています。
お城はこの地方に多いとされる単郭方形の縄張ではなく、縄張図を見ると4つの郭で構成された連郭式のお城だったようです。通称Ⅲ郭と通称Ⅳ郭は一般住宅とその敷地となっていますが、城内最高所である通称Ⅰ郭と通称Ⅱ郭はよくその雰囲気を残していると思います。特に通称Ⅱ郭は現況たぶん個人宅のお庭ですが、高く厚い(櫓台があったと思う。)土塁と虎口が素晴らしいです。又、通称Ⅰ郭西側の切岸は高さと角度がかなりのもので往時はとても登れないものだったでしょう。
家人に声を掛けてから散策しようと思ったけど、当日は人の気配が全く感じられませんでした。もし付近で人の姿を見掛けたら訪問の目的を告げた後にリア攻めした方がよいでしょう。ややマニア向け。