百田藤兵衛城
百田藤兵衛城([伊賀上野城 周辺城郭])
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百田藤兵衛城の口コミ情報
2025年03月04日 ʀᴇᴅ副将軍
第二次天正伊賀の乱において伊賀衆を率いた百田藤兵衛の拠点⚔
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。百田氏により築かれたと云われます。
百田藤兵衛は当地の有力土豪であり、1581年の第二次天正伊賀の乱に際しては伊賀衆の中心人物でした。
北伊賀の伊賀衆は約2,800人が比自山城に、約1,500人が平楽寺に籠り織田信長に抵抗したとされ、比自山の麓に居城を構えた百田藤兵衛と福喜多将監が中心的な役割を担い、それぞれ比自山城に付随する長田丸・朝屋丸を守備したとされます。 この長田丸と朝屋丸は比自山城の南北の郭群とする説と、山麓にある百田藤兵衛城および福喜多将監城とする説があります。
比自山城の戦いは、比自山に城を築いたことを聞いた蒲生氏郷は滝川一益や丹羽長秀の到着を待たず攻撃を開始。 筒井順慶と筒井定次の父子は大手から突撃するも数多の石矢を浴び敗走。
搦手からの侵攻を目指した蒲生氏郷は町井貞信と福喜多将監の猛攻を受け、織田信長勢は退却したとされます。
勢いに乗った伊賀衆は長岡山で野営をしていた筒井順慶に夜襲をかけ、筒井順慶は兵力の半数を失ったとされます。
しかし、伊賀衆は兵糧庫であった平楽寺を焼き払われ苦しくなり、柏原城を目指して比自山城を脱出。 翌日に織田信長勢は総攻撃をかけるももぬけの殻であったとされます。
柏原城での戦い後の百田藤兵衛の消息は定かではありません。
見所
比自山城の北側中腹部に位置し、神社の南側奥が主郭部です。
主郭は東側の土塁と塹壕状の堀が特徴的です。
東側先の尾根にも段郭が連なり土塁囲みの郭も認められます。
また主郭から比自山城への南側は大堀切で遮断。但し、後世に切通し道として改変を受けています。
堀切の先には松尾芭蕉の碑があり、比自山城へと続きます。
行き方は、長田保育園の駐車場から山側に竹の池へと続く道が付いており、そのまま進むと南端の堀切に至ります。