丸山城(まるやまじょう)
丸山城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 三重県伊賀市枅川
旧国名
- 伊賀国
分類・構造
- 連郭式山城、丘城
天守構造
- 複合式?[3重?/1578年頃築/破却]
築城主
- 北畠具教
築城年
- 天正4年(1576)
主な改修者
- 滝川雄利
主な城主
- 滝川氏
廃城年
- 天正12年(1584)
遺構
- 曲輪、天守台、櫓台、土塁、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
千賀地氏城(三重県伊賀市)[5.5km]
桜町中将城(三重県名張市)[5.7km]
百地丹波城(三重県伊賀市)[6.4km]
伊賀上野城(三重県伊賀市)[8.2km]
石打城(奈良県奈良市)[9.6km]
畑城(奈良県山辺郡)[10.8km]
名張城(三重県名張市)[11.0km]
下山甲斐守城(三重県名張市)[12.2km]
柏野城(三重県伊賀市)[13.1km]
柏原城(三重県名張市)[14.0km]
丸山城の解説文
[引用元:Wikipedia「丸山城」の項目]
丸山城(まるやまじょう)は、三重県伊賀市枅川(ひじきがわ)[1]にあった日本の城。
概要
丸山城は伊賀盆地の中央に位置し、標高180-210mの独立した丘陵に築かれた。城名については、城山が丸い形をしていたことから名づけられている。周辺の水田との比高は20-60mで、丸山の最高所213mに天守台を設け、丘陵全体に大小の曲輪を配置し、当地域では最大規模になる。伊賀国の中世城郭は単郭方形構造の中心に居館を持つのを基本形式にしているが、本城は軍事施設としての大規模な城郭で、比自岐川、木津川が堀として機能を果たし、天然の要害でもあった。また比自岐川の対岸には、滝川三郎兵衛城、嵯峨尾主馬城と呼ばれる小規模城郭が認められる。
沿革
伊賀国で国司の北畠具教が隠居城として1575年(天正3年)に築城を決め、同地域の土豪を説得、翌1576年(天正4年)正月より人夫衆を動員し作事を行ったが、織田信長と不和になり三瀬館に引き上げた。
北畠氏の養子となっていた織田信長の次男・北畠信意(織田信雄)は、伊勢国を掌握すると伊賀国の領国化を狙っていたが、1578年(天正6年)2月、伊賀国の郷士下山甲斐が北畠信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た。北畠信雄は同年3月家臣滝川雄利に丸山城の修築を命じた。
これを知った伊賀国郷士衆は驚き、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがった。この時の様子が、「丸山城指図 山城也、此山根置周取廻六百九十六間、山下地形よ里山までの高サ三十間有南方を正面とす 麓より二の丸へ越登道九折にして六十九間 山下整地広さ南北四十四間 東西二十五間 右整地之内に三層の殿主あり天守台六間四方台の高さ三間四方石垣なり」(『伊賀旧考』) とあり、3層の天守や天守台は石垣で固められ、また二の丸への登城道は9回折れているなど、規模壮大な城であったと記されている。
これに驚いた伊賀郷士11名が集まり、完成までに攻撃することを決めた。丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、同年10月25日に攻撃を開始した。不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、昼過ぎには伊勢国に敗走した。
翌天正7年(1579年)9月16日、北畠信意は8000兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し北畠信雄軍を伊勢国に敗走させた。第一次天正伊賀の乱と呼ばれている。
敗戦の報を知った織田信長は激怒した。天正9年(1581年)9月3日、再び北畠信意を総大将に5万兵で伊賀国に侵攻、同月6日より戦闘が開始され、各地で進撃し同月11日にはほぼ伊賀国を制圧した。同年10月9日には織田信長自身が伊賀国に視察に訪れている。第二次天正伊賀の乱と呼ばれている。織田信長は阿拝郡、伊賀郡、名張郡を滝川雄利に、山田郡を織田信兼にそれぞれ与えた。
廃城
廃城は不明である。1578年(天正6年)の丸山城の戦いで廃城になったという説もあるが、「残る遺構から判断して築城半ばに廃城になった城とは到底考えられない」としていたり、平定の後、信雄比城を滝川三郎兵衛尉雄親に給ふ、其後、雄親当国の諸士と累月戦ひ、国中悉く平きしかば信雄其考を感じ雄親を以て当国の守護とす(『諸国廃城考』)と記されていたりする。滝川三郎兵衛尉雄親とは滝川雄利の別名で、丸山城は滝川雄利に与え伊賀国の守護としたとある。これらの考察により、「伊賀の乱後伊賀守護となった三郎兵衛によって、本格的な築城が行われたと考えるのが妥当である」とし、丸山城の戦い後も存続していた可能性を示唆している[2]。丸山城に滝川雄利が居城し続けたとした場合、織田信雄と豊臣秀吉の対立が進んだ1584年(天正12年)に滝川雄利が伊勢国松ヶ島城の城主として入城していることから、この時に放棄されたと考えられている。
城郭
丸山城は、後世の開墾等で改変を受けた箇所が若干あるものの、三重県でも非常に保存状態の良い中世城郭である。丸山の最高所に位置する天守台周辺が本丸と考えられ、ここから派生する西、南、北の尾根と丘陵斜面などの地形を利用し、大小の平坦地を設けた城郭となっている。本丸周辺は防御がかなり意識された縄張りとなっているが、本丸周辺外では単調な縄張りとなっている。
本丸
本丸(主郭)は東西幅最大で約60m、南北幅最大で約70mの不整形な平坦地となっており、西部分に高さ約4mの天守台を築いている。本丸周辺のには高低差約4mの帯曲輪が巡り、特に南側では2段からなる帯曲輪があり防御性を高めている。本丸の明瞭な虎口は東側で、その周辺には2条の土塁と横堀によって防御された武者隠しがあり、侵入経路を所々屈折させ横矢が効くようにされている特徴がある。これは本丸から西方向には曲輪がなく、防備が弱い谷から登ってくる敵に備えている。このように築城形式は安土桃山時代の城郭にその特徴を見ることができる。また本丸から北側にも虎口があり、その先には堀切と土橋からなる馬出し状の16m×26mからなる曲輪に出て、更に北側には8mの高低差をつけ小曲輪に繋がっている。
天守
天守台は上端部が12m四方が築かれている。天守台の南と北には一段低い方形の張り出しが認められ、付櫓台を添えて複合天守が推定される。天守台斜面には、栗石が認められ周辺に大きな石も散在しており、当初は石垣を築いていたと思われている。『三重県の城』によると「以前は周囲に野面積みの石垣があったが伊賀鉄道の架設の際に持ち運ばれたと伝える」としている。
その他曲輪
本丸から南側の尾根上に鞍部を利用した曲輪を設けている他、先端部の西と東に高低差がある平坦地を築いている。また西側の尾根の最先端には現在「丸山簡易水道排水池」があり、西の丸と呼ばれている。本丸と西の丸中間地点には、土塁や腰曲輪を持つ曲輪があり、重要な建物があったと想像されている。この周辺には2つの櫓台があり、特に北側の櫓台は円墳を利用したと思われている。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- 伊賀鉄道 伊賀線 丸山駅
- 徒歩 約20分
- 車でのアクセス
- 名阪国道 上野東IC → 国道422号
- 周辺に駐車場無し
参考文献
- 【書籍】「上野市史 考古編」
- 【書籍】「丸山城跡」
- 【書籍】「伊賀の中世城館」
- 【書籍】「日本城郭大系 第10巻 三重・奈良・和歌山」
丸山城が登場する作品
- 忍びの国 - 築城直後に伊賀衆に爆破された。
[続きを見る]
丸山城の口コミ情報
2024年07月19日 RED副将軍
桐ヶ谷城[丸山城 周辺城郭]
阿保氏一族の居城と考えられる城跡🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代や築城主等の詳細不詳。
伊勢、伊賀、志摩を調査した三国地志には「桐谷堡」と記載があるくらいです。織田信長による天正壬午の乱に際しての記録もありません。
伊勢国司である北畠氏の重臣であった阿保氏の阿保城から近いこともあり阿保氏一族の居城との説もあります。
見所
丘陵の西側中腹に築かれた単郭方形です。
周囲を土塁が巡り西側に虎口が開口。土塁の外側には西を除く三方を空堀が巡りますが斜面上に築かれているため北側と南側は竪堀状です。また南側の空堀には石積みが認められました。
主郭内部は土塁の表土が流出しており風化が進んでいました。
行き方は、城域北西部の県道29号沿いに山腹に取り付く登城路が付いています。但し案内板等は一切ありません。
駐車場は無いため少し離れた邪魔にならない場所に路肩駐車しました。
2024年06月20日 RED副将軍
城氏城[丸山城 周辺城郭]
伊賀には複数の城氏城がありますが、今回は伊勢路にある城氏城です。
背後を堅める土塁と空堀が見事な城氏の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等の城史は不詳。城氏の居城と伝わります。
富増氏の掛田城から東へ300mしか離れていない丘陵上に位置し、富増氏と行動を共にしたと思われます。1581年の第二次天正伊賀の乱において攻め寄せた織田信雄により掛田城と同様に落城したと思われます。
見所
丘陵上から北側を切り込んで削平した伊賀特有の単郭方形です。
最大の見所は、東側から南側を巡る空堀と土塁であり、物見台を斜面途中に敷設しています。
主郭東側には大規模な平虎口が開口しており、こちらも見応えがあります。
行き方は禅福寺を目標に設定。南側背後の山陵が城域であり墓地を回り込む様にして尾根を進むと城域背後の空堀と土塁に辿り着きます。
2024年05月02日 RED副将軍
阿保城[丸山城 周辺城郭]
土塁囲みが整備され明瞭な阿保氏の居城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
阿保城(あぼじょう)または(あおじょう)と読みます
築城年代は不詳。室町時代に阿保氏(安保氏)により築かれたとされるその居城。
歴史は古く、元々は聖武天皇が伊勢に行幸の際の宿所として造営された阿保頓宮を阿保氏が利用した様です。
阿保氏は、伊勢国司である北畠氏の重臣であり多気御所に仕えていました。
1585年、豊臣秀吉により大和郡山城の筒井定次が伊賀に転封を命じられると、阿保城には筒井氏重臣の岸田伯耆が 入城。
1608年、徳川家康により筒井定次が改易されると廃城となりました。
見所
周囲に土塁と堀が巡る伊賀特有の単郭方形です。北側に虎口が開口し腰郭に繋がります。
北東部の土塁は櫓台状に特に大きく造成されており、北西部の土塁上には社が祀られています。
整備されており市街地の中にも関わらず遺構の残存度は良好です。
行き方は、阿保頓宮跡を目標に設定。西側が道路沿いであり比高も30mほどしかありません。
駐車場は無いので邪魔にならない路肩に駐車しました。
2024年04月20日 RED副将軍
小鴨氏城[丸山城 周辺城郭]
重厚な土塁に武者隠し状の空堀が見事な小鴨氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
別名は柏尾城とも呼ばれています。
築城年代は不詳。室町時代に在地土豪の小鴨氏により築かれたとされます。
織田信長が侵攻し伊賀惣国一揆と戦った天正伊賀の乱の際には小鴨兵衛が城主の名に残ります。
1581年の第二次天正伊賀の乱で近隣の本田氏城は激戦の舞台となり落城しており、小鴨氏城も同様に落城したと思われます。
見所
菊山明神東側の比高約30mの丘陵上に築かれています。
ここは伊賀特有の単郭方形ではなく、ピークの主郭は幅が約6mもある厚い土塁囲みで西側に小郭も併設。土塁上は櫓台であったと思われ、ところどころに石積みも点在しています。
主郭部は南側を除く三方を空堀が巡り、特に北側は武者隠しと思える空堀が認められます。南側に虎口が開口し土塁と馬出し状の郭に繋がります。
主郭東側も広い削平地が広がり、西側も土塁が付く西郭を併設。
現在の菊山明神が西出郭であったとされ、東側は二条の堀切と細尾根で防御線が張られています。
下調べもせずに、あまり期待もしていなかったのですが非常に楽しむことが出来ました。
行き方は、菊山明神を目標に設定。菊山明神の東側背後は墓地でありここに駐車スペースがあります。
2024年03月29日 RED副将軍
若山氏館[丸山城 周辺城郭]
典型的な伊賀の単郭方形である若山氏の居館🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
応永年間(1394年~1428年)に若山七郎により築かれたと伝わります。
若山氏は、平氏滅亡後に丹波より逃れてきた平忠亮が老川村に潜伏し土着。若山忠平と名乗ったことが始まりと云われます。
その後、室町時代に北畠氏が伊勢国司となると伊賀の在地豪族の多くが北畠氏に従いましたが、若山氏は独立を保ち、応永年間に若山氏城館を築いたと伝わります。
1581年の織田信長による天正伊賀の乱の際には、記録には残りませんが、周辺の在地土豪の城と同様に戦いの舞台となったと考えられています。
見所
現在も個人宅の北側から西側にかけて高さ約2mの土塁が巡り北側に虎口が開口。東側と南側は崖地となっています。
個人宅であり中に入ることは出来ませんが、道路沿いの土塁や虎口を確認することは出来ます。
行き方は、若山氏城から約100m南にあります。
若山氏城の登城後に歩いて行きました。
2024年03月28日 RED副将軍
若山氏城[丸山城 周辺城郭]
主郭背後の長大な二重堀切が見事な若山氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★★
応永年間(1394年~1428年)に若山七郎により築かれたと伝わります。
若山氏は、平氏滅亡後に丹波より逃れてきた平忠亮が老川村に潜伏し土着。若山忠平と名乗ったことが始まりと云われます。
その後、室町時代に北畠氏が伊勢国司となると伊賀の在地豪族の多くが北畠氏に従いましたが、若山氏は独立を保ち、応永年間に若山氏城館を築いたと伝わります。
1581年の織田信長による天正伊賀の乱の際には、記録には残りませんが、周辺の在地土豪の城と同様に戦いの舞台となったと考えられています。
見所
宇西谷の丘上に築かれた伊賀特有の単郭方形の城郭です。
掘り下げることで高土塁を形成する掘込式であり、南西部に虎口が開口し西側の腰郭に繋がります。
最大の特徴は北側背後の尾根基部は深く長大な二重堀切で遮断されており、堀切は主郭東側に回り込む様に竪堀となり落ちています。
若山氏城から約100m南に居館である若山氏館があり、若山氏城は詰め城として機能した様です。
行き方は、城域南東部の林道沿いに登城口があり、周辺の路肩に駐車しました。比高は約20mでした。
①〜④主郭背後の二重堀切
⑤⑥主郭の高土塁
⑦⑧主郭南東部の虎口
2024年03月13日 RED副将軍
西尾氏城[丸山城 周辺城郭]
在地土豪である西尾氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代等の詳細不詳。
在地土豪である西尾氏の居城と云われます。
見所
伊賀特有の単郭方形であり、南を除く三方を巨大な土塁で囲まれています。高さ約7mの重厚な土塁で土塁上には櫓台があったと思われます。
特筆すべきなのは土塁の西側背後は尾根沿いに明瞭な横堀が巡り、北側の土塁背後は斜面に沿って竪堀となり落ちています。
マイナーながらも遺構の残存度が素晴らしいです。
行き方は、城域南側の道路沿いから登城しました。道路沿いの電信柱脇に踏み跡があるので分かると思います。途中からヤブになりますがフェンス沿いに登ると10分掛からない程度で辿り着きます。
2023年02月13日 RED副将軍
掛田城[丸山城 周辺城郭]
比高30m、車を降りて10分以内で主郭の高コスパお手軽城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。富増伊予守が城主であったとされます。1579年の第一次天正伊賀の乱においては北畠氏の家督を乗っ取った織田信雄の軍勢を撃退しましたが、1581年の第二次天正伊賀の乱において再び攻め寄せた織田信雄により落城したと云われます。
見所
伊賀特有の方形単郭の国人領主の城跡です。主郭は西側に虎口が開口しており、櫓台と思われる高土塁を四方設けていることが見所です。東側には穴蔵式櫓台の小曲輪があり、その背後は堀切で遮断されています。小規模ながらなかなか面白い城跡です。
行き方は、Googleマップて目標設定。城域北西部にある国道165線沿いの5、6台並ぶ自販機が目印です。自販機横の細い路地が登城口で案内板の設置あり。ものの数分で辿り着きます。
朝一のウォームアップには最高の城跡でした。
写真
①主郭虎口
②虎口の高土塁
③高土塁上から見下ろす
④主郭を巡る土塁
⑤主郭と穴蔵をつなぐ虎口
⑥穴蔵の櫓台
⑦穴蔵背後の堀切
⑧案内板
2023年01月22日 tracer_azu
掛田城[丸山城 周辺城郭]
自動販売機が3台並んでいるあたりに駐車させていただき見学させていただきました。階段から上がるとすぐ城内へ。シンプルな縄張りですが、虎口へ続く道は削られ細められた城道は虎口上の土塁から狙われている^^郭内は高い土塁で囲まれ、さらに奥に穴倉なる小さな曲輪が、その上には社が祀られていました背後には空堀が設けられていました。
2022年07月09日 課長大和守Ver.B
掛田城[丸山城 周辺城郭]
掛田城は別名富増伊予城とも言われ、この地域の土豪である富増伊予守により築かれた城です。
天正伊賀の乱では最初の織田軍侵攻を防いだものの、二度目の侵攻では織田軍1万を200名の軍勢で防ぎきれず敢え無く落城したようです。
城は近鉄伊賀上津駅南方の初瀬街道に面した北側へ張り出す丘陵上に築かれ街道監視に適した立地と言えます。
縄張りは二つの櫓台を持つ主郭と虎口に付随する小郭で構成され、それぞれ周囲に土塁が見られる他主郭背後は空堀により守られています。
また主郭西側は谷状地形となっていて、谷側から城域を見上げると鋭い切岸が施されているのが分かります。
因みに主郭の櫓台の一つは土の城には珍しい穴蔵形式で往時にどのような建物があったのか非常に興味がそそられます(^^)
城へのアクセスですが、国道165号下河原バス停から西へ100m程進んだ旧初瀬街道との分岐そばにある自販機脇の民家と民家の間の路地が登城口になり、山への階段を上がった所に日本遺産選定に伴って設置された説明板が置かれています。
そこから左手(右手の虎口風の道は違います)の踏み跡を辿れば程なく城域に入ることが出来ます。
説明板の位置はおそらく地権者との調整の結果かとは思いますがせめて国道沿いに設置して欲しかったですね…(^^;
周辺は駐車場所が少ないのでクルマで来られる際はご注意下さい。
2022年05月16日 上田図書頭雪娘
丸山城
丸山駅から数分で登り口です。険しい山道でないが見どころも少ない。整備すると素晴らしさか分かる城かもです。
2022年05月08日 毘沙門天摂津守
丸山城
近辺に駐車場がありません。又、城まてあまり整備されて無く、薮で蜘蛛の巣だらけでした。
2021年03月21日 課長大和守Ver.B
龍王山城[丸山城 周辺城郭]
こちらは大和の大城郭ではなく築城、在城者不明の伊賀龍王山城となります☆
立地としては初瀬街道を眼下に見下ろす要地に構えられ、当時から街道監視の役割を担っていたと思われます。
城までのアクセスは国道165号沿いの酒屋脇から分岐する田舎道から城跡のある山を越える最高所から未舗装の林道が分岐しており、終点の龍王社までクルマで入れるようになっていました。
とは言え林道は急坂且つ未舗装でガタガタなので大事を取られたい方は林道入口付近の路肩へ駐車されるのが良いと思います(^^;
縄張りは方形区画の周辺を土塁、空堀で区切る形態で龍王社周辺に2郭、自然地形を隔てて南側に更に2郭というモノでしたが、遺構的には龍王社設置に伴う破壊や風化等で全体的には曖昧な印象でした。
ただ、南側郭では空堀と土塁に付帯する虎口が龍王社側のモノよりは分かりやすい気はしましたが…(笑)
また未確認ですが東側斜面には堀切もあったようです。
個人的には要地を押さえる城にも関わらず居館形式であることや郭間に自然地形があることに不思議な印象を持ちました(^^)
2018年05月27日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
丸山城
丸山消防署の南側に空き地に駐車し踏切を渡り集会所の前に丸山城祉の案内板を見つけて左手へ進みます。山に入ると伊賀随一と言われるだけのことはある。最初こそ真っ直ぐでしたがやはりの蛇山道。祠のある曲輪から更に北へ進むと本丸です。見所の一つの天守台は10メートル方形。高さ3メートル位。曲輪等の配置は空から見てアルファベットの(T)を右に90度倒した感じ。次の見所は東側のうねる二重堀と土累。北側の曲輪群。途中にある鳥居ですが、城趾横の削平地の戦没者供養塔建立の際に両軍弔う為に建設との事です。5メートルはある堀と土累は最大の見所です。次に本丸から西へ進みます。平坦ですが両側は急坂、途中は堀切で遮断されています。西の丸には給水施設がありますが多分、山火事とかの為の防火用水と思われます。単方形の多い伊賀にあってこの城は異形異質です、この城建設は伊賀国人に喧嘩売ってるみたいなもの•••多分そうだったんでしょう。父親にいいとこ見せようとした信雄。しかし気は優しいが剛直な伊賀人達が黙って見逃す筈もなく国中を挙げての反抗に大火傷する織田信雄軍でした。
信雄「楽勝やと思ったのに~畜生!」
2016年07月10日 カーネル
丸山城
伊賀鉄道丸山駅を背に左へ南下
最初の路地で左折して踏み切りを渡り、1つ目の路地で右折して再び南下します
小川を越えて農道を歩くと左に山が近くなってきて、細長いコンクリートが3本渡された橋があり、渡ると↑丸山城址0.4kmとあります
ここは城の西になります。害獣避けの電線があるので腹ばいになってくぐり山に入ります
5分ほど急登がつづき給水塔を超えると緩やかになって、駅をでて20分弱で本丸到着です
お城は小ぶりながら、メリハリのある地形が残ってます
下りは反対側から降りました。主郭の標識では、登山道がいくつかあることを示していますが、丸山地区へ降りました
途中にでっかい平場があり社がぽつんと建っています。道はわかり易いです
住宅街にでて、反時計回りに歩くと先人の方々が書かれる鉄の橋と、奥に登山口が見えます
丸山駅に戻って1時間ちょいでした
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです
2016年05月23日 まるき〜陸中守
丸山城
アクセスの方法が難しい
丸山城のある山の周りを一周してみて南側のお墓のある所から登城するも竹藪の倒木、クモの巣、見た事ない大きさのスズメバチにも出くわし恐怖を感じたので退散。
次、北側に丸山建設という会社近くの川の下に人一人が渡れる鉄橋をみつけ川を渡りその奥に登城口の案内が…(;^_^Aココをみつけるのに40分ほどかかりました、とてもわかりにくいです。ここからは道なりに300メートル、ウロウロしながらも15分程度で本丸まで、途中崩れた鳥居や堀切、堀切は二重に、郭の区切りもわかりやすく城址碑もかなり大きな物が据えられています、(高さ4〜5メートル)ただ行く季節によっては投稿されている写真の場所でも草木が生い茂り自分がいる場所を見失い迷子になりそうで怖かったです
ここに限らず山城攻めは夏場でも長袖、手袋は必須だと思います。
駐車場無し、少し離れた橋から入った所に停めて置けそうな所を借用しました。
2012年05月13日 信幸備中守
丸山城
リアル行軍では丸山消防署の隣の空き地に車をとめるのが無難です。登城口は4〜5ヶ所あり。登りは反対側の城山さん宅の横から登るのがオススメです。20分かからずに石碑まで行けます。
PS
丸山消防署の皆さん有難うございます。ルートや地図などを親切に用意していただいて
2011年05月05日 三河守コーキしゃん
丸山城
川沿いを右手に歩いていると鉄の板の橋があるので、その先に小さな案内板があります。
本丸の虎口周辺にある武者隠しという遺構がまだ分かり易く残っています
他にも土塁や空堀が良好に残ってて楽しめました
丸山城の周辺スポット情報
掛田城(周辺城郭)
阿保城(周辺城郭)
龍王山城(周辺城郭)
柏尾城(周辺城郭)
本田城 (東)(周辺城郭)
本田城 (西)(周辺城郭)
矢具島氏城(周辺城郭)
中原氏館(周辺城郭)
山村氏城(周辺城郭)
夷山城(周辺城郭)
川上出羽城(周辺城郭)
川上砦(周辺城郭)
川上南砦(周辺城郭)
城氏城 (阿保)(周辺城郭)
福森氏城(周辺城郭)
桐ヶ谷城(周辺城郭)
岩野氏城(周辺城郭)
城氏城(周辺城郭)
西尾氏城(周辺城郭)
若山氏城(周辺城郭)
若山氏館(周辺城郭)
小鴨氏城(周辺城郭)
桐之木2号城(周辺城郭)
桐之木3号城(周辺城郭)
小嶽氏城(周辺城郭)
上ノ坊城(周辺城郭)
峯出城(周辺城郭)
奥ノ谷城(周辺城郭)
嶋野氏城(周辺城郭)
五日城(周辺城郭)
松山氏城(周辺城郭)
早山氏城(周辺城郭)
山之下城(周辺城郭)
城之越遺跡(寺社・史跡)
山の神遺跡(寺社・史跡)
掛田城 登城口(その他)
登城口(その他)