三瀬館(みせやかた)
三瀬館の基本情報
通称・別名
- 北畠具教三瀬館、三瀬御所
所在地
- 三重県多気郡大台町上三瀬字大戸地1012他
旧国名
- 伊勢国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 北畠具教
築城年
- 元亀2年(1571)
主な改修者
- -
主な城主
- 北畠氏、森氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石垣、堀切、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(北畠具教三瀬館跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
三瀬砦(三重県多気郡)[1.0km]
阪内城(三重県松阪市)[13.2km]
九曲城(三重県松阪市)[14.3km]
大河内城(三重県松阪市)[14.3km]
多気北畠氏城館(三重県津市)[16.6km]
一之瀬城(三重県度会郡)[17.0km]
枳城(三重県松阪市)[20.5km]
阿坂城(三重県松阪市)[21.1km]
松坂城(三重県松阪市)[21.3km]
田丸城(三重県度会郡)[21.4km]
三瀬館の解説文
三瀬館の口コミ情報
2023年06月14日 装鉄城大膳大夫乱怒
三瀬館
国道42号線上三瀬バス停近くの点滅信号交差点を北の方へ。そのまま案内表示進むと田園の中に一台ほど止められる駐車スペースがあります。ここから歩くと5分ほどで三瀬館に着きました。ただ見張り台の方は行けませんでした。
2023年02月25日 RED副将軍
茶臼山砦[三瀬館 周辺城郭]
三瀬館の東側に築かれた砦跡🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
1571年に北畠具教が隠居するために新たに築かれた三瀬館と同時期に築かれたと思われます。見張り台として機能しました。
見所
現在は、公園となっており三瀬館から歩いて行くことができます。堀切を挟んで南北二郭の削平地が残っています。
2023年02月24日 RED副将軍
三瀬館
北畠具教の終焉の館跡🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
1571年に北畠具教により築城。
1569年に伊勢に侵攻してきた織田信長と大河内城の戦いで激突。
最終的には織田信長の次男である織田信雄を養子とし家督を譲る事で和睦しますが実質的には家督乗っ取りです。
北畠具教は笠木館に移り、1571年に隠居するために新たに築いたのが三瀬館でした。
しかし、1576年に北畠具教は織田信雄の刺客により暗殺されてしまいました。
その後、三瀬館は織田家臣の森清十郎が居住したとされます。
こうして一旦は北畠氏は滅亡してしまいましたが、出家していた北畠具教の弟が還俗して北畠具親て名乗り、北畠氏再興を目指すこととなります。
見所
現在は整備され、階段状に九段ほどの削平地と石垣が一部残っています。
北畠具教公の胴塚も近くにあります。
2022年08月07日 RED副将軍
五箇篠山城[三瀬館 周辺城郭]
北畠氏滅亡後、北畠具親と旧臣達が再興を目指した拠点⚔
二重堀切が見事です✨
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。
南北朝時代は、北畠氏の支配下にあった様で南朝方に付き、1343年には伊勢国守護の仁木義長が攻め寄せた記録が残っています。
室町時代になると、北畠氏家臣の五箇氏が居城としていた様ですが、謀反を起こすも滅ぼされてしまいます。その後は北畠氏家臣の野呂氏が入城し代々の居城としました。
1569年、織田信長による伊勢侵攻にて野呂氏は九鬼氏と対峙するも敗れて滅亡。
1576年に北畠氏は、信長の三男である織田信雄を養子に迎えることで和睦。信雄は北畠具豊と名乗り、事実上の乗っ取りで北畠氏は滅亡。すると北畠具教の出家していた弟が北畠具親と名乗り、北畠氏再興の兵を挙げますが、北畠具豊(織田信雄)により鎮圧されます。
1582年に本能寺の変で信長が没すると、再び北畠具親は五箇篠山城を改修して北畠氏再興の拠点として挙兵しました。しかし、2日で五箇篠山城は攻め落とされ再興は叶いませんでした。
見所
櫛田川南岸の標高137mの丘陵上に東西に曲輪を並べた連郭式山城。
各曲輪は深い堀切で分断され、特に主郭東側の二重堀切は中央に瘤状の高まりが残る珍しい構造です。
行き方は、ゆとりの丘を目標に設定して下さい。広い駐車場もあり、公園として整備されています。
登城路も整備されており10分程度で気軽に登ることができます。
2021年03月11日 左近衛中将かめかめ
五箇篠山城[三瀬館 周辺城郭]
多気町立勢和図書館前または、野球場横の駐車場に車を停められます。その脇に登城口があり、10分程で主郭下の虎口に着きます。虎口を入れば主郭、入らず帯郭らしき所を直進すると素晴らしい遺構があなたを待ってます。特に東端にある堀切は生唾もんです。帯郭は途中で途切れますが行く価値ありです。
帰りも同じ道を通ることをオススメします。本来の登城路はこっちだろと勝手に推測して2郭南辺りから下りると大変なことになりますので(でも楽しかった)。
写真は左から1,2・・・,8 になります。
写真1:麓にある竪堀
写真2:土塁に囲まれた主郭
写真3:城郭東端の郭下にある竪堀
写真4:城郭東端の郭西にある強烈な堀切
写真5:3郭と4郭間の堀切
写真6:堀切に見えるがよくわからん
写真7:主郭下の切岸
写真8:主郭下の段郭
2020年08月16日 梅鉢近江守Silvine
五箇篠山城[三瀬館 周辺城郭]
五箇篠山城は多気町古江の比高70mほどの低山に築かれた城で、北畠氏家臣であった野呂氏の居城と伝わります。
城へは多気町立勢和図書館を目指していけば、図書館の向かい側に駐車場と登城口、説明板があります。10分もかからず主郭にたどり着けるでしょう。
城は小高いこの山上を堀切で分割し、東西4つの曲輪を並べる形です。西端の曲輪のみ二段になっており、西に土塁が、東には二重堀切も残るため、主郭と考えられます。主郭は木も伐採されよく整備されていますが、東に行く程に雑木林となり、遺構の確認が難しくなります。季節によっては主郭東の二重堀切も草に覆われて確認困難です。
2019年05月08日 美濃守ヒーロー
茶臼山砦[三瀬館 周辺城郭]
三瀬館から東側、茶臼山砦の堀切^ ^見張所の役割を担う砦跡。公園化され歩きやすく館跡から割と近くです。
2019年05月08日 美濃守ヒーロー
三瀬館
北畠具教、終焉の地。山腹を階段状に広く削平された館跡が残る^ ^
2019年05月06日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
三瀬館
三瀬館を散策した私、具教卿の胴塚も見たし次の城へ行こうかな·····?···胴塚はあったけど首塚は何処や!?。三瀬砦にて行政管理人と鉢合わせ出来てたくさんのお話を聞かせてもらい感激しました。もちろん具教卿の首塚の場所も含めて。
天正4年11月25日織田信長の差し向けた刺客によって北畠具教は謀殺されました。享年49(織田信長と同じ享年!)。三瀬館で具教の謀殺を知った家臣は刺客と格闘、主君具教の首を取り返して霧山城へ駆けた。刺客達は追いすがり斬り合いになる。時間稼ぎに残る者は捨て石に、霧山城へ駆ける家臣は怒りと悲しみを堪えながら駆けに駆けた。馬の尾を持ちながら峠の下りで握力が抜けて馬の尾をはなした事からここを尾放峠と呼ばれる様になりました。しかし追いすがる織田方も執拗でこのまま首を持ったままでは追いつかれると思い無念ながらこの尾放峠の林道で主君具教の首を埋めて多気霧山城へ報せを優先させどうにか追ってをまいたそうです。
殺された北畠具教、さぞかし無念であったでしょう···。
北畠具教の首を取り返した者、犠牲になった者は以下
首を届けようと駆けて芝山出羽守に渡した。
大宮多気丸。
多気丸を逃がそうと織田の追手と戦い亡くなった者
松井新九郎、松井新次郎の兄弟。大久保清左衛門。
芝出出羽守秀定は追手を打ち払い具教の首を野々口山に葬って渓谷に入水自殺。
北畠具教が魅力ある武将でなければこんなに必死に取り返したりしなかったろう。
主の具教も家臣と共に生きて笑って苦しい時も励ましの声を掛けて三瀬館に逼塞してからも顔を出すこれら家臣に我が友よと談笑したりしていたんだろうな。
上下関係はあっても心通わす刎頸の友だったのでしょうかね。あんな酷い時代でも腐らず一生懸命に生きた熱き漢に感動です。
三瀬館の後、一度北畠具教卿の首塚を訪れてやって下さい。具教の(おう、よう来たな)明るい声が、聞こえてくるかも。
五輪の塔が具教の首塚の供養塔ですが、その後ろの小さな石が集まった所が本当の首塚との言い伝えらしいです。具教と家臣が集まって楽しく酒盛りしてるようでほっとする石の配置の首塚です。
2019年05月06日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
三瀬館
北畠具教の首塚のある尾放峠のある、野々口林道の入口です。五輪の塔が北畠具教の墓碑となったてますがその後ろのロープで囲まれた中の小さな石の集まり部が本当の具教の首塚ではないかと言われています。
2019年05月06日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
三瀬館
もしかしたら三瀬館の下は城址はあるがダミーでほんとはここが北畠氏の住居兼城やったのではないかなと思う。毎日あの山を見ては捲土重来を考えていたのではないかなと。南北朝時代より北畠の歴史はしぶといからまだまだ諦めてない、ここに立つとそんな彼の後ろ姿が見えるのですが、真実はどうなのでしょうか?
2019年05月06日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
三瀬館
北畠神社の案内板。最近直したようです。
しかしこれがなければまさかここが北畠神社とは分からないでしょう。
この後の多気北畠氏城館とは大違い。
2019年05月06日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
三瀬館
三瀬館の傍には北畠神社。ここは北畠具教を祀る由緒ある所との案内板。ここも寂しく悲哀情感漂う場所。外の晴天を見紛うほどに暗く冷たい。社殿敷地は広いが社殿以外は特に遺構は見当たらない。
2019年05月06日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
三瀬館
展望台···いえ三瀬館の見張り櫓から見る素晴らしい眺望。正面の山は(こうもり山)と呼ばれています。こうもり···鳥を見ては動物と言い動物を見ては鳥だと言う···去就をはっきりさせない、北畠具教の事かと··具教山を揶揄したか?
しかし農家の水田に朝霧たなびく素晴らしい世界が広がっています。三瀬館来たら展望台で見て下さい。
2019年05月06日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
三瀬館
何かを祀る社殿か?広いです。後で聞きましたがここは三瀬館の見張り台との事。具教は隠居生活に入ったとはいえ心穏やかな時はなく常に何かに備えていた。
2019年05月06日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
三瀬館
三瀬館は茶臼山の斜面にありその茶臼山に展望台に上がりました。子供の憩いの森公園と思いましたが、違いました。
2019年05月06日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
三瀬館
三瀬館にどのような館が建っていたのかを想像する、平屋の武家屋敷を。障子を開ければこの梅や桜が彼を境遇を慰めたのか···。
2019年05月06日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
三瀬館
三瀬館の川沿いの脇に胴塚の案内あり。それに連れられて進むと具教の胴塚碑。映画忍びの国で見たイメージとはかけ離れた悲哀に包まれる。この時はそのまま離れて次の三瀬砦に向かったが···。
2018年10月12日 ジャスティ大納言タイラー
三瀬館
館の一つ下の道を西に向かうと、北畠具教公がご祭神の北畠神社がご鎮座なさってます。
神社までの道が少し狭いですが、車でもなんとか入れると思います。
神社手前に駐車場あり。1台は停められそうです。
管理なさっておられる方はいらっしゃいそうですが、御朱印等は無いと思われます。
2012年03月13日 三河守コーキしゃん
三瀬館
「上三瀬バス停前」信号を左折すると案内板があります。
館前に駐車スペース有
館は階段状になっていて胴塚などがあります。
遊歩道を登って物見台まで行くと三瀬の町並みが一望できます。
2011年04月08日 古楽侍従広家
三瀬館
北畠具教の終焉の場所
そして、ここに館を築き、松阪の大河内城から移った具教は、天正4年(1576年)に謀殺されるまでの4年間、居住していた。
しかし、敷地のどこに、どのような造りの家に具教が住んでいたのか、資料が発見されていない現在では、明らかではない。
館跡の西と南側には、万一の防備に役立つ深い谷川が流れていて、東と北側は山の急斜面になっている。
また、南側は開けており、三瀬一帯と宮川を隔てて舟木や度会の山々を見渡せることができる。
青年のころに具教は、当時「剣の達人」と言われた塚原ト伝から「一の太刀」の秘伝を受け、師匠の卜伝との居合わせでは、互角だったという話も残っている。
このように武道に秀でた具教にとって、名門の流れをくむ北畠家が、日に日に凋落していくのは我慢ならないことだった。
具教、熊野街道が通り、宮川流域の山深い要害の地(上三瀬)に館を築いて移り住み、機会があれば北畠の勢力を復興しようと、いろいろと画策したようである。
当時の伊勢地方の戦乱の様子を書いた「伊勢軍記」に、具教の三瀬隠居のことが次のように述べられている。
「具教卿は城を多気郡三瀬に立て、之に居住し給う。故に三瀬御所と号す。此谷、宮川の上、大杉山にありて、熊野、吉野、川上に続きて嶮難無双(たいへん山が深く険しいこと)の地なり。兵乱あるときは此の山中に入らんが為なりと言う。」
具教の三瀬隠居は単なる隠居ではなく。北畠氏復興の決意を胸に秘めてのことだったようである。