一之瀬城(いちのせじょう)

一之瀬城の基本情報

通称・別名

一之瀬御所

所在地

三重県度会郡度会町脇出字城山

旧国名

伊勢国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

愛洲太郎判官

築城年

南北朝時代

主な改修者

主な城主

愛洲氏、宗良親王

廃城年

遺構

曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)

指定文化財

町史跡(一之瀬城東の城跡・西の城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

五ヶ所城(三重県度会郡)[10.4km]
田丸城(三重県度会郡)[15.9km]
三瀬砦(三重県多気郡)[16.1km]
三瀬館(三重県多気郡)[17.0km]
斎宮城(三重県多気郡)[20.8km]
越賀城(三重県志摩市)[21.5km]
大河内城(三重県松阪市)[22.3km]
阪内城(三重県松阪市)[23.7km]
田城城(三重県鳥羽市)[25.7km]
松坂城(三重県松阪市)[25.7km]

一之瀬城の口コミ情報

2023年09月14日 山城守吉川
一之瀬城

学校横にしっかりと看板があるので分かりやすい。

2023年03月28日 RED副将軍
一之瀬城西の城[一之瀬城  周辺城郭]



尾根を多重堀切で分断した愛洲氏の拠点🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

築城年代は不詳。南北朝時代に愛洲太郎判官により築かれたと云われます。花山院に幽閉状態であった後醍醐天皇は脱出し吉野に南朝を樹立。後醍醐天皇は、皇子達を各地に派遣し体制の立て直しを図りました。1337年、その中の皇子のひとり天台座主尊澄(宗良親王)は後醍醐天皇重臣である北畠親房に伴い伊勢へと降り、迎えられたのが愛洲氏の一之瀬城とされます。その後、還俗した宗良親王は南朝復興のため各地を転戦しました。宝徳年間(1449年~1552年)には愛洲氏は居城を五ヶ所城へ移したため一之瀬城は支城となった様です。1575年、北畠氏の家督を事実上乗っ取った織田信雄は田丸城を居城としたため、田丸城主であった田丸直昌と田丸一族は城を出ることとなり、田丸直昌は岩出城、その父の田丸具忠は一之瀬城に移りました。その後の一之瀬城は不明ですが、しばらくして廃城となった様です。

見所
一之瀬川に流れる二本の支流の間の丘陵上に築かれています。東西に伸びる尾根の東端山頂部に主郭を配し、主郭東下の二郭とは堀切で区切られ外側に土塁が付いているため横堀状になっています。さらにスロープ状の土橋が付き虎口を形成しています。主郭西側背後は四重堀切で遮断。更にその先には二条の堀切が確認できます。東の尾根にも連続堀切を設けられており、東西に伸びる尾根を堀切で刻んでいる縄張りです。縄張り図にはありませんが、連続堀切を越えた西側鞍部は大きくクランクした搦手の虎口にも見える箇所もありました。

行き方は、一之瀬公民館を目標に設定。ここが西の城の駐車場です。公民館から案内板が出ており迷わずに行くことが出来ます。

400mほど東に行けば東の城もあり、こちらも見応えあります。併せての訪城をオススメします。

2023年03月27日 RED副将軍
一之瀬城



登録地である一之瀬城東の城の口コミです。南伊勢の有力土豪である愛洲氏の居城🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

築城年代は不詳。南北朝時代に愛洲太郎判官により築かれたと云われます。花山院に幽閉状態であった後醍醐天皇は脱出し吉野に南朝を樹立。後醍醐天皇は、皇子達を各地に派遣し体制の立て直しを図りました。1337年、その中の皇子のひとり天台座主尊澄(宗良親王)は後醍醐天皇重臣である北畠親房に伴い伊勢へと降り、迎えられたのが愛洲氏の一之瀬城とされます。その後、還俗した宗良親王は南朝復興のため各地を転戦しました。宝徳年間(1449年~1552年)には愛洲氏は居城を五ヶ所城へ移したため一之瀬城は支城となった様です。1575年、北畠氏の家督を事実上乗っ取った織田信雄は田丸城を居城としたため、田丸城主であった田丸直昌と田丸一族は城を出ることとなり、田丸直昌は岩出城、その父の田丸具忠は一之瀬城に移りました。その後の一之瀬城は不明ですが、しばらくして廃城となった様です。

見所
一之瀬神社の北側が主郭で、主郭の周囲は横堀が巡り、北側は更に堀切が連続します。神社の南側には見張り台もあり、小規模で後世の改変により一部が削られていますが、気軽に登城できる高コスパな城跡です。行き方は、一之瀬神社を目標に設定。駐車場もあり、散策ルートの案内もあります。

400mほど西に行けば西の城もあり、こちらも見応えあります。併せての訪城をオススメします。

2022年04月17日 大島美濃守光義
一之瀬城

遺構が割と残ってます。見晴らしも良くて気持ちいいですよ。

2022年01月23日 VTR美濃守シゲ名城オフ会
一之瀬城



旧一ノ瀬小学校にある駐車場に、東の城から登城。トイレも登城口直ぐ横に有りありがたいです

神社裏に登城路有り、と言うより既に本郭の切岸ですね、北側の堀切に土塁は見応え有り。桝形虎口状の郭を経て本郭へ

見張り台の大岩は南側の展望が効きます。少し木々が邪魔しますが😅

戻って西の城へ入って来た道路反対側です案内甲板有り。こちらも遺構が良く残っていて主郭周りの空堀、土塁、西に続く連続空堀が見どころです

2021年11月09日 ko+
一之瀬城



一之瀬神社が鎮座する丘に東城、その西約400mの尾根先端部に西城があります。

東城、西城それぞれに駐車場がありますが、トイレ、解説板があり、縄張図を置いて下さっている東城から訪城される事をおススメします。
西城の資料は他で探してもあまり出て来ませんので、こちらの解説板と縄張図はとても有難いです。

【東城】
神社神殿の北側に主郭が置かれ、その主郭の周囲をコの字状に堀、土塁が巡る。
堀は、北側では多重の堀切となり、東側では竪堀となって丘裾へと流れる。

【西城】
尾根先端に高低差を利用して造られた郭群、横堀が連なる。
城域ピーク、まとまった広さを持つのが主郭、その背後尾根続き西側には連続6条(7条の可能性も有り)の堀切が残る。

南朝方を支えた豪族愛洲氏が五ヶ所城に移るまでの本拠地、一時、後醍醐天皇の皇子宗良親王が在城したとされ、平成27年、度会町指定文化財に指定。

駐車場、道案内板、そして城域そのものをとても綺麗に整備して下さっています。
城域は何処を撮影しても、必ず手作りの案内板が写るほど。
文字だけではなく、案内板の背景に空堀、土塁等の形状が描かれていて、遺構をわかりやすく案内しようという地元の方々の思いが伝わってきます。

特に東城は、駐車場からほとんど登らずに遺構を楽しむ事が出来、「土のお城は難しい」「山登りはちょっと苦手」と感じておられる方にもオススメです。

2019年05月24日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
一之瀬城



歩くこと30分以上でようやく一番奥まで来ました。まるで龍が上下に身を動かすかのような城の姿です。怖い城です···。

2019年05月24日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
一之瀬城



ようやく主郭(笑)。しかしこの奥にはまだまだ続きがあるようです。どこも細長い曲輪です。

2019年05月24日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
一之瀬城



どこまで行ってもこのジェットコースターみたいに続く空堀群と曲輪の連続です。面白い!

2019年05月24日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
一之瀬城



こんな感じで空堀とその造成で出た土を使い作った土塁。

2019年05月24日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
一之瀬城



入り口から真っ直ぐに上がると空堀群と曲輪の往復ビンタです。

2019年05月24日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
一之瀬城



一之瀬神社の道路反対側に西の城。尾根上に細く細く続く曲輪群。

2019年05月24日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
一之瀬城



主郭。ここで宗良親王が東国へ旅立つ固めの拠点。京から離れていくことに、内心は心細い面持ちではなかったか?

2019年05月24日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
一之瀬城



一之瀬神社裏に東の城の一番の見所の空堀です。

2019年05月13日 シバヤン左兵衛督肝胆相照
一之瀬城



南朝の後醍醐天皇の皇太子、宗良親王の忠魂碑でした。この城から信濃を中心に東国各地に転戦した。父親の為に人生を戦乱に身を投じた彼の幸せはあったのか···。

2013年04月23日 足利駿河守泰光麁正
一之瀬城

県道22号と県道721号の脇出交差点、一之瀬郵便局有り、付近の学校奥に一之瀬神社があります。

2012年03月13日 三河守コーキしゃん
一之瀬城

一之瀬神社手前に駐車スペースがあります。
神社の裏側が主郭部になっていて周りを空堀が巡っています。

一之瀬城の周辺スポット情報

 一之瀬城西の城(周辺城郭)

 番場城(周辺城郭)

 一之瀬神社駐車場(駐車場)

 西の城駐車場(駐車場)

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