越賀城(こしかじょう)
越賀城の基本情報
通称・別名
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所在地
- 三重県志摩市志摩町越賀字城山
旧国名
- 志摩国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 越賀隼人
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 越賀氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、井戸跡
指定文化財
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再建造物
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周辺の城
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波切城(三重県志摩市)[9.9km]
五ヶ所城(三重県度会郡)[13.8km]
一之瀬城(三重県度会郡)[21.5km]
田城城(三重県鳥羽市)[21.9km]
鳥羽城(三重県鳥羽市)[25.5km]
坂手村砲台(三重県鳥羽市)[26.4km]
田丸城(三重県度会郡)[30.2km]
斎宮城(三重県多気郡)[35.2km]
三瀬砦(三重県多気郡)[37.4km]
三瀬館(三重県多気郡)[38.4km]
越賀城の解説文
越賀城の口コミ情報
2024年08月03日 日向夏隠岐守
越賀城
駐車場は城の東にある港へ。城域は完全に藪の中で、北側に通路となってる堀切跡が認められます。
2021年12月24日 RED副将軍
越賀城
志摩十三地頭衆の一人である越賀氏の居城🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。
藤原氏の末裔を称する越賀氏三代の居城。1570年頃に九鬼氏と三年に渡り争うも、九鬼氏に降り、九鬼嘉隆の時代には家老となって朝鮮の役、大坂の陣に従軍したと言われています。
見所
海に突き出た岬にある絶壁の高台に狭小な曲輪が残ります。丘上の城内はヤブ化してました。
2021年12月06日 泰遠江守
越賀城
標柱の所から岬へと歩いていくと、民家の裏側と丘陵の間に、切通のような細い道があるので、そこへと右へ入ります。すると左手に丘陵上へと上がっていく道があるので登ります。この頂上が城跡で、土塁がしっかり残っていますが、すごい草木で写真ではただの藪にしか写りません。ただ、北東隅の土塁上に、横穴式石室の側壁裏側と思われる石組みがあり、祭ってありました。
2021年09月15日 イオ左衛門佐
和具城[越賀城 周辺城郭]
和具城は、詳細は不明ながら室町期に青山氏(和具氏とも)によって築かれた城で、青山豊前守は九鬼嘉隆の侵攻に対して越賀城の越賀氏らとともに抵抗した後、和睦して九鬼水軍の一員となり、九鬼氏がお家騒動で転封された際には、青山氏も和具を離れて摂津・三田に移りました。
和具城は和具漁港東側の丘陵地に築かれた城で、南に太平洋を見渡せる位置にあります。駐車場はないので丘陵西麓の道路脇に路駐して登城開始。西麓の登城口から民家に至る舗装道を上って行くと、ほどなく目前に主郭西辺の切岸が現れます。切岸をよじ登り、土塁の上から主郭内部を見ると、下調べでは畑とのことでしたが、時季的にもすっかり藪の中…。この前に登城した越賀城の笹藪よりは遥かにましですが、藪蚊が飛び交う中を突入する気力もなく、主郭西部の虎口とその脇の石積みを確認して退散しました。
2021年09月14日 イオ左衛門佐
普門寺[越賀城 寺社・史跡]
普門寺は、越賀城主・越賀隆春が父・隆政のために建立したとされる越賀氏の菩提寺で、境内には越賀氏三代の墓所があります。普門寺の寺紋は越賀氏の家紋と同じ桧扇(七本骨扇)のようですが、門の脇には桧扇紋の瓦が並べられていました。
2021年09月14日 イオ左衛門佐
越賀城
詳細は不明ながら、室町期に越賀氏によって築かれた城で、九鬼嘉隆の侵攻に対して、越賀隆俊は越賀城に籠城して抵抗した後、和睦して九鬼水軍の一員となり、隆政、隆春と三代にわたって九鬼氏に仕えました。
太平洋に突き出た小さな岬に位置し、三方を海に囲まれた単郭方形の城で、北側の集落との間を堀切で断ち切っています。
堀切の西端に主郭に至る登城路が設けられていますが、時季的に藪に沈んでいて突入するのはためらわれます。それでも勇を鼓して、藪をかき分け蜘蛛の巣を払いながら進んで行くと……主郭もやっぱり藪の中でした。先人の口コミでは曲輪内は畑とのことですが、もう何年も放置されているようで、笹藪が激しく茂っていてとても入り込めません。かろうじて北東隅の土塁に石組みの穴(井戸? 古墳跡?)が見られたくらいでした。
2020年09月14日 ぷれ
越賀城
崖崩れの箇所があるため、通行止めになっている所有り。
2015年05月09日 【隠者】史学会帰新参
越賀城
城跡の東側の海岸に車を駐めるといいかと思います。
城跡は岬の突端にあり曲輪、土塁、堀切が残ります。曲輪は畑になり、土塁部分は草木が生い茂っているの分かりにくいです。曲輪の大きさが50Mもないので規模の小さな城です。北側の堀切は今でもはっきり残ります。
城跡には説明板や名称板、石碑はないみたいです。
2014年01月03日 ひろり
越賀城
現在は畑になっています。
元は堀切だと云う坂道を登って入口に立つと、郭をめぐる土塁が(一部分)確認出来ます。
左に少し行くと土塁上に小さな祠があり、無断で入るのは憚られるのですがお参りだけさせて頂きました。
立地
志摩半島の西寄り、太平洋に突き出た小さな岬の突端に位置する。城は北に広がる集落の南端に接する。比高は8mである。概要
細く延びた岬を掘り切ることで城域を独立させている。現在は郭内へ入るように通路が設けてあるが、土塁に破壊痕が残ることから随分と改変されているようである。主郭は23×45mのやや歪な方形で、西以外に土塁(高さ0.3~2m)がめぐる。西にも痕跡が残ることから、本来は四周にめぐっていたのであろう。北東部分と南中央は肥大するが、特に北は二段構造となり、北東隅は方形の櫓台状となる。高さは北東隅が最高位となる。南東隅に開口するが、虎口としては規模が小さい。
越賀城は集落のはずれで三方を海に囲まれる。潮流を考えると攻め口は北方に限定されてくるから、防御の面からは適した占地といえる。
交通
国道260号線を御座方面へ進む。越賀漁港の西方に突き出る丘が城。国道を外れ海沿いの進むと右手に通路となった堀切が見えてくる。駐車は可。参考文献
・『再発見 志摩、南伊勢の城』伊藤徳也、2015年。