永慶寺柳沢家墓所
永慶寺柳沢家墓所([大和郡山城 寺社・史跡])
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永慶寺柳沢家墓所の口コミ情報
2024年10月23日 百済門徒衆修理大夫とら
柳沢家歴代当主を祀る。永慶寺は元は甲府にあり、徳川綱吉の側用人から大老格まで上り詰めた綱吉政権ナンバー2で絶大な権力を誇った初代柳沢吉保が建立した。
2代吉里の時、柳沢家は甲府から大和郡山に入部し、その時、永慶寺も一緒に移転された。
以後最後の藩主柳沢保申(やすのぶ)まで柳沢家が大和郡山の藩主を勤めた。
柳沢保申は、英明な藩主で、明治の殖産産業で金魚の養殖を行い、現在も金魚の町として有名である。また資産の1割を出して現在の郡山高等学校を設立している。しかしながら、若くして亡くなったからか、名があまり知られていない。
柳沢家の祖先の柳沢信俊は、武川(むかわ)衆という甲斐武田氏の家臣であったが、武田氏滅亡後に徳川家康の家臣となる。その後、柳沢吉保の時、仕えていた館林藩主綱吉が将軍となった事で大出世する。そして吉保は、武田信玄の次男で浄土真宗の僧となっていた龍芳の玄孫武田信興を綱吉に引き合わせ高家武田家としてお家再興させている。
その後も、武田家と柳沢家の関係は続き、明治時代に養子縁組で親戚関係となっている。
柳沢家の家紋は武田菱を模した柳沢唐花菱である。そして、柳沢家から柳沢吉保が造った六義園を買い取ったのは、三菱の創業者岩崎弥太郎である。柳沢保申の三女·武子が岩崎家に嫁いでいる。