津田城(つだじょう)

津田城の基本情報

通称・別名

国見山城

所在地

大阪府枚方市津田

旧国名

河内国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

津田(橘)正信?、三好氏?

築城年

延徳2年(1490)?、戦国時代?

主な改修者

主な城主

津田氏?、三好氏?

廃城年

遺構

曲輪、土塁、堀切

指定文化財

再建造物

周辺の城

交野城(大阪府交野市)[3.3km]
高山城(奈良県生駒市)[4.4km]
水主城(京都府城陽市)[6.5km]
枚方城(大阪府枚方市)[6.6km]
草路城(京都府京田辺市)[6.7km]
稲八妻城(京都府相楽郡)[7.2km]
北田原城(奈良県生駒市)[7.4km]
岡山城(大阪府四條畷市)[8.7km]
田原城(大阪府四條畷市)[8.8km]
楠葉台場(大阪府枚方市)[9.3km]

津田城の解説文

津田城(つだじょう)は大阪府枚方市津田にあった城である。

遺構 

交野山から続く山稜の北端、国見山の山頂に位置する。別名、国見山城ともいう。

山頂を中心として階段状に曲輪が存在し、東・西・南の三方に土塁が巡る。北側にはほとんど防御施設が見られない。

城域は比較的大きいものの土塁や堀切などの造成は多くなく、全体として山の自然地形を利用した縄張りとなっている。

また、津田城跡現地説明板では、国見山城に加え、出城である城坂砦、後に麓に築かれた本丸山城を総称したものを津田城と呼ぶ、としている。

歴史 

延徳2年(1490)、津田正信によって築城され、その後、津田氏4代約100年の居城となったという。

しかし、『週刊日本の城』ではこの説を否定し、戦国期に三好氏・松永氏が陣城として構築した可能性が高いとしている。津田城が、大和・河内・山城の三国の国境に位置することを考えると、大和から河内への進出を狙う三好・松永勢がその拠点として取り立てたとしても違和感はない。

また、現在見られる遺構から、有力国衆が長年本拠として使用したというよりも、戦国の動乱の中で臨時的に構築された城郭という見方の方が首肯できる点が多い。

いずれにせよ津田城は、天正3年(1575)4月に織田信長の河内侵攻によって落城している。発掘調査ではその時のものと思われる焼土層が見つかっている。

交通 

・JR片町線(学研都市線)津田駅から車で約10分

参考文献 

・『日本城郭大系 第12巻』新人物往来社、1980年。
・津田城跡現地説明板。
・『週刊日本の城』デアゴスティーニ・ジャパン、2013年。

津田城の口コミ情報

2023年04月22日 大納言Z武蔵守369
本丸山城[津田城  周辺城郭]



津田城主、津田正時は津田城を織田信長に攻め落とされたが、羽柴秀吉に赦されてこの場所に本丸山城を築いた。

ところが、本能寺の変が起きると明智光秀に従い山崎の合戦後、本丸山城は秀吉軍によって焼き払われた。

現在は宅地化されていて、津田馬場谷霊園から花見の丘公園にかけてが主郭だったようである。

2023年03月21日 そろり秀左衛門
津田城



JR津田駅から歩いて約1時間の所にある国見山頂上目指してください

2022年08月28日 はぎ摂政じゅんいち
津田城

山の頂上にありますが、遺構は何も確認できませんでした。

2022年04月23日 大納言Z武蔵守369
津田古城[津田城  周辺城郭]



古城と呼ばれていますが、読み方は「ふじろ」で、古い田んぼや畑を意味するそうです。平安時代からこの地に勢力を持っていた中原氏の居館跡と伝えられていますが、発掘調査の結果、居館は確認されず、むしろ弥生時代の居住跡が確認されました。

2021年10月31日 真田能登守幸貞
津田城



山ですが、比較的登りやすいです。時間は1時間あれば登れると思います。土塁、堀、堀切のようなものは見つけれました!景色は、京都から大阪まで見渡せます。

2021年04月28日 天道式部卿早雲
登城口[津田城  駐車場]



国見山(津田城跡)登山口です。4台分ぐらいのスペースがあります。

2020年03月27日 ( *¯ ³¯)っ旦
津田城

津田城が出てくる資料「三之宮旧記」「当郷旧跡名勝誌」「国見城主歴代略縁」など津田村村人が編纂した資料で、しかも17世紀末以降の資料。
村外の資料では「五畿内誌」などでも見られるのは18世紀以降の資料のみ。
戦国時代の資料には津田氏の名前は出てこない。
城としても城下側は防備施設が無く城跡とは考え難い。

・何故、津田城が作られたのか?
津田郷の三之宮神社の宮山であった津田山が、江戸時代に山間部開発によって新しい村が次々と生まれ、津田郷が新しい村である穂谷村の中に立地することになってしまう。
しかし三之宮神社の宮山で津田郷の守神であるために津田郷の物にしか山の支配権が与えられなかったため、穂谷村が支配権を主張。
この問題は元禄七年、京都町奉行所に持ち込まれるのであるが、この時を境に「三之宮旧記」など先に挙げた資料が続々と「古書を元に編纂された」という形で世に出てくる。
ここに初めて津田城が出てきて、三之宮神社の古くからの氏子である津田郷が有利になるかのように昔から津田城があったかのように記載されていた。
しかしその古書は見当たらず、この書物の名前自体が他の書物に見当たらない。
おそらくこの時期に津田郷の依頼によって作られた偽書で「椿井文書」の一つである。
それまでは「津田」という地名、名前がつくのは「津田郷」のみであった可能性がある。
よってここは山城の可能性は低い。

・では遺構は何なのか?
国見山は元を正すと「高峯」と呼ばれていたのであるが、この高峯があるのは生駒山山系であり、山岳修験の場である可能性が高い。
鎌倉時代の「諸山縁起」には交野山と尊延寺との間に「高峯」という宿坊が記載されていることから、津田城は生駒山修験道の山岳寺院という可能性が高い。

・山城の可能性の有無について
松永久秀と三好三人衆との争いのとき、
松永久秀が河内方面を攻めるとき、
逆に三好勢が大和をせめるとき、
共に津田を足がかりにしている事が文献から確認できる。
これが「曲輪」跡の可能性はある。

よって津田氏という領主はいなかった可能性が高い。
(馬場隆弘「椿井文書」より)

2019年04月06日 河内守ささき
津田城

※ ( *¯ ³¯)っ旦様の口コミと比較すると面白いです

この城は当時この地を治めた津田氏の居城です。1490年頃、初代正信が国見山に築城されたと伝えられてます。3代目正明の時に三好長慶に従い津田氏の勢力は最も強大となりました。1564年に長慶が死去すると三好家は三好三人衆方と松永久秀方に分裂し、4代目正時は松永久秀方についたがため、三好三人衆に攻められて城を追われました。その後、正時は城主に復帰するも1575年に織田信長が機内平定に乗り出して津田城を攻撃、僅か4時間で落城したそうです。現在はハイキングコースとして整備されており国見山の山頂から見る景色は「市民が選ぶ枚方八景」に選ばれるほど絶景です。
アクセス JR津田駅から徒歩40分で国見山山頂。JR津田駅付近に駐車場有り。
遺構 土塁・曲輪・堀切・竪堀・虎口・土橋?・石積?

津田城の周辺スポット情報

 土塁(遺構・復元物)

 本丸山城(周辺城郭)

 長尾陣屋(周辺城郭)

 天王畑城(周辺城郭)

 津田古城(周辺城郭)

 水取城(周辺城郭)

 夫婦石(寺社・史跡)

 登城口(駐車場)

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