船上城(ふなげじょう)

船上城の基本情報

通称・別名

明石城、明石古城、林ノ城

所在地

兵庫県明石市林崎町、林、田町、船上町他

旧国名

播磨国

分類・構造

平城、海城

天守構造

望楼型?[3重?/築年不明/破却(廃城)]

築城主

別所吉親

築城年

永禄年間(1558〜1570)?

主な改修者

高山右近

主な城主

蜂須賀氏、高山氏、池田氏、小笠原氏

廃城年

元和6年(1620)

遺構

曲輪、横堀(水堀)、土塁、移築長屋門

指定文化財

市文化財(長屋門)

再建造物

説明板

周辺の城

明石城(兵庫県明石市)[1.6km]
枝吉城(兵庫県神戸市)[2.3km]
松帆台場(兵庫県淡路市)[5.0km]
舞子台場(兵庫県神戸市)[5.6km]
魚住城(兵庫県明石市)[7.2km]

船上城の解説文

船上城(ふなげじょう)は、播磨国明石郡(兵庫県明石市新明町)にあった城で、明石川河口の西側、明石海峡に面した部分と明石川の湿地帯に築城された平城、水城でもある。

沿革
この城の築城については二説ある。別所吉親が林ノ城として築いた城と、高山右近が船上城として築城した城とがある。林ノ城が一旦廃城となり、その後右近が新たに築城しなおしたのではないかと考えられている。

林ノ城時代
永禄年間に三木城主別所氏の支城となり、別所長治の叔父別所吉親が築城したと言われている。この城の城下にある浄蓮寺に別所吉親が本尊と伝わる観音像が安置されている。その後大屋肥後守が城主となり天正6年(1578年)の三木合戦に織田信長方の稲田植元に占領され、天正8年(1580年)に蜂須賀正勝に与えられ、生駒政勝に城主が移り天正13年(1585年)に一旦廃城となった。

船上城時代
豊臣秀吉は四国征伐で長宗我部元親を降して関白となり、大規模な国替えを実行することになる。「天正の国替え」と呼ばれている。この時の国替えで明石則実に代わって明石郡を与えられた高山右近は、高槻城から一旦枝吉城に入城し、船上城の築城と城下町の建設に取り掛かる。この時林ノ城をベースに改修した説と全く新しい城を築城した説がある。しかし『ひょうごの城紀行』によると「新しい資料が発掘でもされない限りは決着されそうにない」としている。天正14年(1586年)には城と城下町は完成したのではないかと考えられている。

高山右近は武将で茶人で名築城家でもあったが、キリシタン大名でもあった。高槻城の周辺では領民のみならず僧侶までもがキリシタンとなっていたため、明石郡の寺院は無くなってしまうのではと危機感を覚えた僧侶達は、仏像を船に運んで秀吉の母大政所がいる大坂で窮状を訴えた。この時の様子をルイス・フロイスの『日本史』によると秀吉は「右近は領主としてそこで自由に振舞ってしかるべきである」と取りあわず、仏像は天王寺に移され、僧侶達は明石から追放されたと言われている。城内にあったと思われている宝蔵寺は空き家となり教会として使用され外国人宣教師が数人常駐していた。『郷土の城ものがたり』によると高山右近が船上城に在城中に二千名が信者となったそうである。

船上城は水城でもあった。船上川の河口部に港を築き、秀吉から大船二艘(もしくは小舟二百艘との説もある)を与えられ、宣教師から便も含め、瀬戸内航路を利用して堺に行き来する貿易船の中継港としても使用されていた。

その後右近は天正15年(1587年)に発令されたバテレン追放令によって船上城を追放されてしまった。築城後わずか2年間で退城したことになる。右近は前田利家に迎え入れられ、築城家としての技術を見込まれ『日本城郭大系』によると金沢城を修築し、高岡城富山城を築城されたと言われている。また武将としての力量もあったらしく前田氏の武将として数多くの合戦に参加し多くの武功をあげた。その後鎖国される前年、慶長19年(1614年)のキリスト教禁止令によってマニラに追放され翌慶長20年(1615年)に没した。63歳であった。

右近の追放後は秀吉の直轄領となり何人かの城番が置かれたようである。文禄元年(1592年)3月、肥前名護屋城に向かう秀吉が船上城に立ち寄ったと思われている。この時期城下町は東西に更に拡張されたと考えられている。

関ヶ原の戦いの後、播磨は姫路藩52万石が立藩、池田輝政が領有することになり姫路城を居城とし、領内に7ヵ所の城を所有し船上城は支城としていた。その中で池田輝政の8男利政が城主となった。その後慶長13年(1608年)には輝政の甥の由之が明石郡の4万石で治めることになる。
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船上城の口コミ情報

明石伊勢守難波12/9様[2017年05月08日]
これといった遺構はほぼ皆無と言っていいでしょう。わずかに本丸の天守台?の高台が残る程度で、往時の様子は伺うべくもありません。明石城が出来なければ、こちらのほうが明石市の中心地になっていたはずなのですが。

若狭守次郎吉様[2017年02月09日]
城めぐアプリが地図で示している場所は伝・本丸跡である。木に覆われたコンモリとした台地が本丸跡だ。本来はもっと広い曲輪であったらしい。本丸跡には祠があり、石碑と説明板があるそうだが、本丸跡の北側の公園に設置されている城跡説明板には「私有地につき立ち入りはご遠慮ください」と書かれている。

本丸跡の西側にある宝蔵寺付近が大手門跡だと云う。本丸跡の東側から北側にかけて流れる古城川が内堀跡で、明石川は外堀として利用していたようだ。

課長勘解由長官様[2016年05月16日]
分かり辛いと評判の城跡ですが、確かに住宅地の脇から畦道伝いの登城ルートはかなり心細いモノでした。
本丸跡の一部という台地には古城大明神という祠があり、なんと祠の地下に城跡碑がありました。
帰りがけに城跡の北側の公園に新しい説明板を見つけたのですが、その中に(本丸跡は私有地につき立ち入りはご遠慮下さい)の文字がっΣ(゚д゚lll)
事前に得た情報にあった本丸跡の説明板が見つからなかった理由が此処でようやく分かりました…

皆さんも見学される際はご注意を。

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