枝吉城(えだよしじょう/しきつじょう)

枝吉城の基本情報

通称・別名

新城、明石城、吉田砦、吉田遺跡

所在地

兵庫県神戸市西区枝吉

旧国名

播磨国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

明石尚行

築城年

永享元年(1429)前後

主な改修者

主な城主

明石氏、高山右近?

廃城年

天正13年(1585)

遺構

曲輪

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

船上城(兵庫県明石市)[2.3km]
明石城(兵庫県明石市)[2.3km]
魚住城(兵庫県明石市)[6.3km]
小寺城(兵庫県神戸市)[6.5km]
舞子台場(兵庫県神戸市)[6.6km]

枝吉城の解説文

枝吉城(えだよしじょう または しきつじょう)は、兵庫県神戸市西区枝吉4丁目付近にあった、平山城、丘城。

概要
印南台地が東西に張り出している低い丘陵地に枝吉城が建っていた。枝吉城の南には山陽道が走り、明石と三木を結ぶ三木街道が通る要衝の地で、戦略的にも重要であった。また明石氏は、赤松氏の被官で明石郡を中心とした勢力を持っており、明石氏が枝吉城を築いたと言われて、古くは吉田砦とも言われていた。このような重要な城であったが、史料には殆ど登場せず江戸時代に作成された地誌で推察できる程度である。その中で『岩屋殿雨請記録』(太山寺文書)によると、天正3年(1575年)6月災天が続いており、その時に、枝吉城の明石氏が太山寺で雨乞いを実施した断片的な記録は残っている。現在遺構として本丸の一部が残っているだけで、1965年から始まった土地区画整理事業で城郭のほとんどは無くなってしまった。

沿革
明石氏については、近年様々な研究がなされているが、史料がほとんどなく明確なことは解っていない。石田善人『明石と明石氏』によると、明石氏は古い時代から明石郡で力をもっており、荘園を管理する地頭で、赤松氏の台頭と共に、年寄りに列せられたとしている。また『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』によると、建長7年(1255年)には明石尾張守という名前がみえ、長禄2年(1458年)には明石修理亮なる人物が応仁の乱でも戦っている。明石氏の変遷は、菅野城(神戸市西区櫨谷町)から下津橋城(神戸市西区玉津町)そして枝吉城へ勢力を拡大していったようで、山間部から平野部に本拠地を替えていった。枝吉城の築城時期は明確ではないが、『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』によると枝吉城の正面にある報恩寺が永享元年(1429年)に建てられたことから、その前後ではないかとしている。

第一次枝吉城の戦い
天文7年(1538年)に尼子晴久軍の侵攻により淡路の岩屋城に避難していた赤松晴政であったが、阿波の細川持隆の支援を得て、翌天文8年(1539年)に船で明石に上陸した。

この時の戦いの様子を『赤松記』によると、赤松晴政・細川持隆連合軍は、人丸塚(現在の兵庫県立明石公園)付近に布陣し明石長行がいる枝吉城を攻囲した。この圧倒的大軍をみた明石長行は、抵抗するのは不利と思えたのか「和談にいたし」とし降伏を申し出た。これに対して晴政は「明石御赦免」とし和睦を受け入れた。

次いで赤松・細川連合軍は御着城がある常楽寺に布陣した。しかし『赤松記』によると
すでに御著に御敵居申候
とあり、御着城には尼子軍の拠点となってかなりの大部隊がいたらしく、赤松・細川連合軍は別所就治を頼って三木城に移動した。

第二次枝吉城の戦い
第一次枝吉城の戦いで明石氏は赤松晴政に降伏した後、晴政は細川晴元方となっているので、明石氏も晴元方に属していた。

一方三好長慶は、江口の戦いで晴元配下の三好政長を討ち取り、晴元を畿内から追放した。畿内をほぼ収めつつある長慶ではあったが、阿波には弟三好義賢、讃岐には十河一存、淡路には安宅冬康、そして摂津と京都には自身がおり、阿波から京都への補給路を確保するため、中間地点にある枝吉城が晴元方に属しているのは問題があった。...

枝吉城の口コミ情報

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