豊岡城(とよおかじょう)

豊岡城の基本情報

通称・別名

亀城、木崎城、城崎城

所在地

兵庫県豊岡市京町(神武山公園)

旧国名

但馬国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

山名持豊

築城年

室町時代

主な改修者

宮部継潤

主な城主

山名氏、宮部氏、木下氏、尾藤氏、福原氏、杉原氏、京極氏

廃城年

遺構

曲輪

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

山名氏城館(兵庫県豊岡市)[7.5km]
久美浜陣屋(京都府京丹後市)[10.0km]
出石城(兵庫県豊岡市)[10.1km]
轟城(兵庫県豊岡市)[10.8km]
楽々前城(兵庫県豊岡市)[11.9km]
亀ヶ城(兵庫県豊岡市)[14.1km]
朝倉城(兵庫県養父市)[17.6km]
大野城(兵庫県美方郡)[19.0km]
八木城(兵庫県養父市)[19.5km]
糸井陣屋(兵庫県朝来市)[19.8km]

豊岡城の解説文



豊岡城(とよおかじょう)は、但馬国城崎郡豊岡(現・兵庫県豊岡市京町)にあった日本の城。別名・亀城。

沿革 

伝承では、永享年間(1429年〜1441年)、山名持豊(宗全)により、此隅山城の出城として、標高約49mの亀山に木崎城(城崎城)[1]が築かれたとされる。山名氏のもとでは、山名四天王に数えられた垣屋氏が配されたとする。

天正8年(1580年)、織田信長の命を受けた羽柴秀吉による第二次但馬征伐で但馬国の山名氏が一旦滅ぶと、秀吉配下の宮部継潤が2万石で入城した。宮部氏は、城崎を豊岡と改め、城を改築したとされる。このとき城下町も整備され、これが現在の豊岡の町の基礎となった。

その後、天正11年(1583年)、木下助兵衛尉、天正12年(1584年)には尾藤知宣、天正13年(1585年)には2万2千石で明石則実、文禄4年(1595年)には福原直高と城主が替わった。なお、いずれも代官とみられている。

慶長2年(1597年)、杉原長房が2万石で入封した。豊岡藩三代・重玄に嫡子なくして無子改易となり、一旦廃藩となったため、豊岡城は廃城となった。

寛文8年(1668年)、丹後国田辺から京極高盛が3万5千石で入封し、再度豊岡藩が置かれる。城主大名の格式ではなく、山城の維持費もかかるため、山の麓に陣屋(豊岡陣屋)が建築され、藩政は陣屋にて行われた。

現在、豊岡城跡一帯は神武山公園として整備されている。

交通アクセス 

  • JR山陰本線・京都丹後鉄道「豊岡駅」より徒歩15分

参考文献 

  • 【書籍】「戦国人名事典」
  • 【書籍】「角川日本地名大辞典 28 兵庫県」
  • 【書籍】「織田信長総合事典」
  • 【書籍】「兵庫県の地名Ⅰ」
  • 【書籍】「兵庫県の歴史」
  • 【書籍】「日本の城辞典 日本全国一万三十八古城址総覧」

豊岡城の口コミ情報

2024年03月02日 RED副将軍
備後衆山砦[豊岡城  周辺城郭]



鶴城の出城とされる城跡🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代等の詳細不詳。鶴城の出城と考えられていますが定かではありません。
鶴城は永享年間(1429年〜1441年)に山名宗全による築城とされ、山名四天王のひとりである田結庄氏の居城です。備後衆山砦も山名氏による築城と考えられます。
備後衆の山内氏の城郭であったことから備後衆山砦と称されたと考えられており、1456年に山内泰通は山名宗全から亡父の所領の知行安堵を受けています。

見所
六万川東岸の標高26mの河岸丘陵上に築かれています。
現在は正福寺の境内となり、頂部の主郭は方形で祠が祀られています。主郭から南と北東に伸びる尾根のそれぞれが堀切で区切られ、その先に二郭、三郭が配されていますがいずれもヤブです。
北側斜面には三条の竪堀が落ちており見所です。
忠臣蔵で著名な大石内蔵助の妻である理玖の墓があることで有名です。

2024年01月31日 RED副将軍
豊岡城



但馬平定後に宮部継潤が改修したとされる山城🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

永享年間(1429年〜1441年)に山名持豊により此隅山城の出城として築かれたのが始まりとされます。
1580年、織田信長の命により羽柴秀吉が但馬に侵攻。有子山城の山名氏が滅亡し、但馬を平定すると羽柴秀吉家臣の宮部継潤が豊岡城に入城しました。
1582年、羽柴秀吉は中国攻めにおいて鳥取城を落とすと宮部継潤は鳥取城に入城。代わって豊岡城には木下重堅が入り、その後は1584年に尾藤知定、1586年に明石則実、1595年に福原道高が入城し、1598年に杉原長房が入城するまで城主は次々と入れ替わりました。
1600年の関ヶ原の戦いにおいて杉原長房は西軍に付き細川幽斎が守る丹後田辺城を攻めましたが、東軍に内通し浅野長政の婿かつ北政所の従弟であることから所領は安堵されています。
1653年に三代当主の杉原重玄が没すると嗣子が無かったため杉原氏は改易。豊岡は天領となり、豊岡城は廃城となりました。
1668年に京極高盛が入封すると再度豊岡藩が置かれ、麓に豊岡陣屋を築き藩政を行ったとされます。

見所
円川左岸にある独立丘陵の神武山に築かれています。
ピークに主郭を配し、東西の稜線に郭を階段状に敷設。主郭西側の貯水タンクがある郭には笠の丸、その北側の郭は萩の丸の名が残っています。
主郭の北西隅には天守台、東側には虎口の石垣があった様ですが消失しています。
現在は神武山公園となり水道施設もあるため、かなり大きく改変を受けていますが、郭と切岸は確認できます。
麓の豊岡市立図書館には豊岡陣屋の陣屋門が残存しています。

2024年01月10日 ときは今
豊岡城



歩いて行ける距離でした。小高い山でした。今は公園として整備されています。遊具を等を作り直していました。

2023年04月17日 tracer_azu
加陽城[豊岡城  周辺城郭]



登ってすぐに城域のお手軽城です。北側に堀切、竪堀と横堀が複雑に交わるジャンクションがあり遺っていますが、倒竹と竹で写真では映えないのが残念です。

2023年04月17日 tracer_azu
鶴城[豊岡城  周辺城郭]



山名四天王である田結庄氏の城で、垣屋氏に攻められ自刃したようです。一部改変されたような跡もありましたが、さすが山名四天王の城なだけあって城域は広く堀切、竪堀また織豊期の遺構のような外枡形虎口とオレのある土塁もあり見どころ多くありました。

またきふね神社の裏にも壮大な堀切があるので行かれる際はお見逃しなく。

2022年06月04日 RED副将軍
加陽城[豊岡城  周辺城郭]



但馬最大の堀切と、横堀と竪堀が複雑に入り組んでいます。

オススメ度 ★★★★⭐︎

加陽城(かやじょう)と読みます。

築城年代等、詳細不明。加陽氏の居城と伝わります。加陽氏は山名氏に属し、南北朝時代から戦国時代にかけて存続していた様です。

見所
出石川沿いの丘陵地北端部に築かれています。現在は加陽水辺公園の一部ですが、城域は竹林に覆われています。最高所の主郭は、北側に櫓台が配され、南側背後は二重の大堀切で分断されています。深さは12mで鋭い傾斜の切岸も特徴的です。大堀切は写真に入り切らない程の規模です。

堀切の西側下も横堀と竪堀が複雑に入り組んでおり見所のひとつですが、竹に覆われ写真では伝わりません。

2022年05月16日 たぬきち但馬守
鶴城[豊岡城  周辺城郭]



標高112mの愛宕山にある山名四天王の一人、田結庄氏の居城。15分くらいあれば愛宕神社のある曲輪までは行けると思います。そこに案内板、井戸跡などあります。気軽に登れる城です。

2021年09月23日 金兵衛
豊岡城



公園になっています。公園入口から入りましたが、少し北側にも入り口があり、階段で結構上に出ます。上からは景色良し。公園の中にトイレがあります。

2016年09月14日 柳生兵庫助如雲斎
豊岡城

城自体は1653年に破却されており遺構は見られませんが、本丸跡からは豊岡市街が一望出来ます。

豊岡城の周辺スポット情報

 豊岡城下絵図(碑・説明板)

 鶴城(周辺城郭)

 加陽城(周辺城郭)

 備後衆山砦(周辺城郭)

 図書館駐車場(駐車場)

 登城口(その他)

 公園入口(その他)

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