八木城(やぎじょう)

八木城の基本情報

通称・別名

八木城[八木土城(八木古城)・八木城(八木石城)]

所在地

兵庫県養父市八鹿町八木城山他(地図は八木城を示す)

旧国名

但馬国

分類・構造

城館遺跡群

天守構造

築城主

閉伊頼国[八木土城]、八木氏[八木城]

築城年

平安時代後期[八木土城]、戦国時代[八木城]

主な改修者

八木豊信[八木土城]、別所重宗[八木城]

主な城主

閉伊頼国、八木氏[八木土城]、別所重宗[八木城]

廃城年

慶長5年(1600)[すべて]

遺構

曲輪、土塁、堀切[すべて]、石垣[八木城]

指定文化財

国史跡(八木城跡)

再建造物

碑[すべて]、説明板[すべて]

周辺の城

朝倉城(兵庫県養父市)[4.4km]
白岩城(兵庫県養父市)[7.2km]
楽々前城(兵庫県豊岡市)[7.7km]
建屋ウスギ城(兵庫県養父市)[10.5km]
糸井陣屋(兵庫県朝来市)[12.3km]

八木城の解説文

八木城(やぎじょう)は、兵庫県養父市八鹿町八木にあった山城。国の史跡に指定されている。

概要
八木城は、標高409mの「土城山」と、そこから南東へ約450m離れた尾根伝いにある標高303mの「城山」の二か所がある。この尾根を登っていくと、兵庫県下では最高峰の氷ノ山(1520m)へ続いている。八木集落の中央を旧山陰道が東西にあり、それに平行して八木川が流れている。城山にある方は「八木城」、土城山の方を「土城」(別名「八木古城」)と呼称されており、八木城は八木氏が、土城は閉伊氏が在城していた。しかし『ひょうごの城紀行』によると「近年の発掘研究では織豊期に改修されている」とし両城とも同時期に改修していると指摘している。八木城、土城を合わせて「八木城」と呼ばれているが、「八木石城」、「八木土城」とも呼ばれることもある。

但馬国には約220の城が存在している。このうち豊臣政権時代には古文書から4か所しかなく、更に徳川政権時代には出石城の1か所のみとなり、陣屋は豊岡陣屋、村岡陣屋、更に生野代官所の3か所となる。八木城は豊臣政権時代まで存在していた城である。
この城の歴史は古く鎌倉時代からの城として重要な遺構が残っていることから、1997年3月6日に国の史跡に指定されている。

沿革
八木氏時代
伝承によると1063年閉伊頼国が前九年の役で功労があり、源頼家から但馬国が与えられ、八木の地に築城したのが始まりではないかと言われている。しかし『日本城郭大系』によると「確かな史料はない」とし不明としている。その後1194年に朝倉高清が源頼家から但馬国を与えられ朝倉城を築城し、朝倉氏と閉伊氏の間で何度か合戦があり、朝倉氏は閉伊氏に勝利し、朝倉高清の第二子、重清を八木城の城主とし、八木の姓を名乗られ八木重清となった。以後八木氏は15代、300年以上にわたりこの地で栄え、第六代城主八木重家は但馬国守護山名時氏、山名時義の重臣となり太田垣氏、垣屋氏、田結庄氏と共に山名四天王に数えられた。

第15代城主八木豊信になると但馬国の状況にも変化がでてくる。但馬国守護山名氏の勢力が弱体していくと、織田氏と毛利氏が但馬国に手を伸ばしてきた。『八木豊信書状』によると天正3年(1575年)11月に八木豊信は吉川元春に但馬国の状況を報告し、出兵を懇請している記述が見受けられる。また織田信長の命に従い羽柴秀吉を総大将に1577年と1580年の二度に渡って侵攻してきた。これに伴い1578年時点では織田勢に属していた田結庄是義、垣屋光政、山名祐豊と、毛利勢に属していた垣屋豊続、太田垣輝延、八木豊信に勢力が二分したようである。八木豊信は表面的には毛利勢に属していたが、後に態度が変節していったと思われている。『ひょうごの城紀行』によると「天正四年段階には八木氏は、はっきりと毛利派であったが、天正六年段階では消極的になっていたようである」と解説している。

第一次但馬国侵攻は、天正5年(1577年)11月上旬開始されたが、上月城の城主上月政範が謀反したため、羽柴秀吉軍は但馬国を撤兵、同年11月27日に上月城の攻城戦を開始しわずか7日間で落城した。この時播磨国と但馬国に戦線が拡大するのを恐れた羽柴秀吉軍は、但馬国に関してはそのままの状態となり、八木豊信もそのまま留まった。しかし、翌1578年には羽柴秀吉は竹田城にいた。『信長公記』によると、
羽柴筑前は但馬国へ相働き、国衆前々のごとく召出し、竹田の城に木下小一郎入置かれ候キ
と記している。つまり6月には、羽柴秀吉軍は竹田城に入城しており竹田城を拠点として但馬国の奪取を企て、恐らく八木城周辺が織田軍と毛利軍の最前線となっていた。天正7年(1579年)7月毛利軍に属していた吉川元春隊は、垣屋豊続の要請により竹野まで出軍してきたが、南条氏が後方で離反したため撤兵した。これにより、八木豊信は毛利方から織田方に寝返り羽柴秀吉軍の軍門に降ったと思われている。その後羽柴秀吉に従って八木豊信は因幡攻めに参戦し、天正8年(1580年)5月21日鳥取城の攻城の拠点として八木豊信は若桜鬼ヶ城に入り守備していた。しかし天正9年(1581年)3月18日鳥取城に吉川経家が入城すると、吉川元春は活気づき巻き返しを開始、若桜鬼ヶ城に攻城し支えきれず但馬国へ退却してしまい、八木豊信はその後行方不明となってしまう。

別所氏時代
1585年、八木城の城主となったのは別所重宗で1万5千石で登用された。別所重宗とは三木合戦で亡くなった別所長治の叔父に当たり、東条城を本城とし、屋口城を支城としていた。別所長治は毛利氏についていたが別所重宗は織田氏に属していた。しかし、東条城が1581年の羽柴秀吉の「城割」となると、別所重宗はしばらくの間本城は持っていなかったようである。別所重宗が入城するとただちに改修にとりかかり、織豊勢力のシンボルとして石垣の城に改修した。
...

八木城の口コミ情報

大野伊賀守道犬様[2016年04月23日]
下八木登城口から登りました。主郭まで休みつつ30分、その奥、八木土城はさらに15分険しく道も落ち葉で滑りやすいので登城口にあるストックをお借りした方が帰りは安全です。本丸まで登ったなら土城まで行ってみてください。大人で往復2時間ぐらいですね。
帰りに地元の八木城交流館で気軽に甘えさせでゴロンとしてもいいですよ。

カーネル様[2016年03月05日]
山陰線の八鹿駅から全但バス鉢伏線(他にも下八木を通過する系統多数あり)で下八木バス停で下車

進行方向に目を向けると、八木城の標識がでてます

住宅街に入っていくと城の縄張り図と登り口の説明もあります。散歩中の親子に生暖かい眼差しで見送られて山中へ
道はほぼ直登だけど、傾斜が緩いので山城の中ではぬるめの設定と思いました

ただ、体調が最高に悪かったのと、下山してもバスがないので、ゆっくり歩き本丸で1時間くらいくらい寝てから降りてきました

それもあり3時間でバス停に戻りました

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです

♡まぁ♡様[2015年07月14日]
城めぐりでは
周辺に駐車場はないと書かれていますが
今は、下八木登城路から北の信号を渡ると、八木公民館と八木城交流館に駐車できます。

八木城交流館では、予約をすると
無料での宿泊が可能!
自炊も可能!
お風呂もありますが、温泉が近くにあるので、温泉に行かれる方が多いとの事!

登城路は、下八木、中八木、上八木と
ありますが地元の方は下八木から登られるそうです。

石城、土城ともに綺麗に整備されていますが、枯れた笹の葉が多く滑りやすくなっています!ご注意を!

常陸入道ねんさい美作守様[2014年03月21日]
登城路は下八木、中八木、上八木登城路の三路あるが下八木登城路が説明板があるので分かりやすい。
下八木登城路のすぐそばには駐車場はない。下八木公民館か八木城交流館に駐車場がある。八木城交流館にはトイレもあり、パンフレットもある。八木城の西側にさらに登った場所に八木土城がある。

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