楽々前城(ささのくまじょう)

楽々前城の基本情報

通称・別名

佐田城

所在地

兵庫県豊岡市日高町佐田字城山

旧国名

但馬国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

垣屋隆国

築城年

応永年間(1394〜1428)

主な改修者

主な城主

垣屋氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、堀切、竪堀

指定文化財

再建造物

周辺の城

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竹田城(兵庫県朝来市)[18.8km]

楽々前城の口コミ情報

2023年12月01日 RED副将軍
楽々前城



全国屈指の畝状竪堀群が見事な山名四天王のひとつ垣屋氏の居城🏯

オススメ度 ★★★★★

応永年間(1394年〜1428年)に垣屋隆国により築かれたと云われます。
山頂部は楽々前古城とも呼ばれ、垣屋氏以前に安田氏の居城であったともされますが定かではありません。
垣屋氏は、山名氏の庶流とされ南北朝時代に垣屋重教が山名氏に従って但馬へ入部したのが始まりとされます。守護代を務めた重臣であり、大田垣氏、八木氏、田結庄氏と合わせて山名四天王と称されました。
当初は奈佐亀ヶ崎城を居城としていましたが、垣屋重教の孫にあたる垣屋隆国が楽々前城を築いて移ったとされます。
その後も垣屋隆国の嫡男である煕続が家督を継承し、次男の国重は宵田城、三男の国時は轟城、四男の永喜は知見村に分知されて郷士となり垣屋氏は勢力を広げました。
垣屋煕続の嫡男である垣屋豊遠とその子の宗続は1485年に蔭木城で播磨守護の赤松政則と戦って討死。
播磨での抗争に嫌気をさした山名政豊は、垣屋氏の反対を押し切って但馬に撤退。このため守護職の山名氏と守護代の垣屋氏との対立が顕在化していきます。
その後、後継者の垣屋続成は足利将軍家の直参となり山名家中での発言力が増大。永正年間(1504年〜1520年) に鶴ヶ峰城を築いて拠点を移しましたが、楽々前城は依然として重要拠点として機能した様です。
1569年、織田信長の命により羽柴秀吉が但馬に侵攻し、此隅山城の守護職である山名祐豊を降して但馬を制圧し、1577年に中国攻めを始めると、垣屋光成は織田信長に従属。しかし、垣屋一族の一部は毛利方に付いて楽々前城に籠城し羽柴秀吉と抗戦するも落城。その後、廃城になったと考えられています。

見所
稲葉川右岸の標高307mの山頂に築かれています。
城域は大きく北城と南城に分かれており、北城がいわゆる楽々前古城であり北側から登り始めて最初に現れる遺構です。尾根上に郭が連なり竪堀や切岸が認められるプリミティブな連郭式です。
更に尾根を南へ登れば南城に辿り着きますが、南北に600mにおよぶ大規模な城郭です。まず最初に到達すると現れるのが堀切に折れの伴った土橋で、土塁囲みの馬出し状の郭など動線を意識したなかなかの縄張りで楽しませてくれます。圧巻なのは西側斜面の特大畝状竪堀群で全国屈指の規模で最大の見所です。
さらに進むと主郭部でピークに主郭を配し、周囲に高く鋭い切岸の郭群が南を除く三方に展開されております。北西部に石垣が認められますが積み方が新しいので畑跡か鹿垣の様に見えました。

行き方は、城域北側の静修小学校を目標に設定。更に進むと墓地があり、そこから尾根に取り付きます。登山道として整備はされていませんが迷うことなく辿り着けると思います。
比高は約230mで距離がある上に城域もかなり広いので3時間程度はみておいた方が良いと思います。

2022年05月06日 ひろ弾正少弼
楽々前城



噂通りの素晴らしい畝々でした!全て見ようものならかなり時間がかかるので余裕を持って登るのが良いかも。

2019年07月07日 大隅守
楽々前城

もう一つの登城口
北近畿豊岡自動車道から国道482号線を神鍋高原方面へ静修小学校前の交差点を左折し、小学校の横を通ります。
通りに出ますので そこを渡ります。
道場区公民館を通りすぎ道なりに赤い橋を渡ると墓地が見えますのでそこに車を停めます。墓地の裏から尾根筋を目指して斜面を直登、数分で尾根筋に出ますのでそこからひたすら頂上を目指して 縄張り図を片手に 曲輪を直登します。遺構は良好に残っています。
超おすすめな城跡です。

2019年07月03日 
楽々前城

登城の一つの標として記します。国道482号線の久田谷交差点を川の方向へ曲がり、そのまま道なりに進むと関西電力の門で行き止まります。その手前の広場に駐車できます。車を停めた裏山が既に城内で、縄張り図を見ると楽々前城の北西麓に位置する【西方寺跡】になります。
ただ、明瞭な登城道は確認できなかったため鉄塔の裏斜面を直登することになりますが、ものの数分で西方寺跡の郭。苔玉にしか見えない石積みで仕切られた幾つもの郭がそこかしこにあります。面白いことに、谷側の郭に円墳様の遺構が残り、中央には石室跡を見ることができます。寺院の祭事用の何かだったのかもしれません。

ひととおり【西方寺跡】 を探索した後は、比高約230mの南城を目指します。が、ここにも明瞭な山道はなく目印となるピンクテープも見当たりません。倒木が多いものの藪漕ぎすることもなく、ひたすら上を目指すとなだらかな広い空間に。そこから一旦下りますが、さらに斜面を登ると踏み跡が明瞭な尾根筋に出ます。これを左に下ると【北城】と呼ばれる郭群に繋がります。もしかすると、北城を通る明確な登城道があるのかも知れません。

さて、尾根筋を右に辿り登って行くと、やがて連続する段曲輪を目にすることができれば、そこは南城の城郭エリアです。堀切、竪堀、土橋、切岸が綺麗に残り、楽しませてくれます。圧巻は西側の連続竪堀。見事な土木量に目を見張ります。また、主郭下の郭には石積みも見れます。

時間を忘れるほど遺構がしっかり残ってる一方で、特に主郭周りの整備はほとんどされてません。郭間や主郭に至る城内道はないと思ってください。足場を頼りに切岸を登ったり、或いは片足分の獣道を辿ることもしばしば。山登り用のしっかりしたシューズでないと辛いかもしれません。また、案内板、説明板の類いは一切ないので、縄張り図がないと迷う恐れ大です。

しかし、そう言うリスクを差し引いても、訪れる価値あるお城と思います。

2012年05月05日 パパ刑部卿たこ
楽々前城

山名四天王の一人、垣屋播磨守隆国が築いた城です。羽柴秀吉に攻められて天正8年(1580)に落城しています。有名な言い伝えとして、魚屋の「カキやコノシロ、ドコウ」と言う売り声を「垣屋、この城どこう」と聞き違えたという、落城を風刺したものがあるそうです。

2011年08月13日 きんくろ
楽々前城

読めないですね〜

楽々前城の周辺スポット情報

 楽々前城(北城)主郭(周辺城郭)

 登城口(その他)

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