大野城(おおのじょう)

大野城の基本情報

通称・別名

長井城、長井大野城

所在地

兵庫県美方郡香美町香住区大野城山

旧国名

但馬国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

阿瀬重家

築城年

天正年間(1573〜1592)

主な改修者

主な城主

阿瀬氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、堀切、竪堀

指定文化財

再建造物

周辺の城

轟城(兵庫県豊岡市)[11.4km]
温泉城(兵庫県美方郡)[13.5km]
村岡陣屋(兵庫県美方郡)[14.6km]
豊岡城(兵庫県豊岡市)[19.1km]
楽々前城(兵庫県豊岡市)[19.6km]
久美浜陣屋(京都府京丹後市)[24.3km]
八木城(兵庫県養父市)[24.9km]
山名氏城館(兵庫県豊岡市)[25.8km]
白岩城(兵庫県養父市)[26.1km]
朝倉城(兵庫県養父市)[26.6km]

大野城の口コミ情報

2025年10月15日 SHIN
市午城[大野城  周辺城郭]

2025.10.12リア攻め。餘部駅でQRコード取得のため下車し、時間調整の1時間で行ってきましたが、アプリの城マークまでは行けていません。白仙寺境内から階段で白山神社に参拝し、神社右手の斜面(道なし)を登ること数分で郭のような削平地があり、ここが目的地かと思いましたが、マークと少しズレがあります。さらに斜面を登りましたが、方向はさらにズレて山陰自動車道(トンネル)の真上になってしまったので、ここで撤退しました。マークの東か北のどちらかから攻めるのが正解な気がします。南側(白山神社)西側(神社の上の削平地)からは近づくことはできませんでした。

高低差では、白山神社の方が城マークの位置より高く、その上部の削平地を含め、こちらはこちらで城らしい雰囲気はありました。

2025年09月11日 ᴿᴱᴰ 副将軍
館山城(無南垣城)[大野城  周辺城郭]



山名氏家臣である塩冶氏の居城🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

無南垣城(むながきじょう)と読みます。

築城年代は不詳。在地土豪である塩冶氏の居城とされ、無南垣港を守るために築かれたとされます。
塩冶氏は、出雲守護である佐々木氏の系譜とされ、室町時代は幕府の奉公衆であったとされます。
1391年、山名氏が室町幕府に対して起こした明徳の乱において、山名氏が幕府に敗れると塩冶氏も随従して敗走。山名氏本宗家の家臣として室町時代、戦国時代は仕えました。
無奈垣城の塩冶氏は、芦屋城の塩冶氏とは同族であり、1493年に山名政豊と山名俊豊の父子が争った際には、無奈垣城に俊豊の御主殿を建てるために塩冶氏の領民が動員されています。
また、1540年には佐津川の対岸にある林甫城の長氏と争い、塩冶左衛門尉は山名祐豊と共謀して長善秀を此隅山城で自害させています。

見所
佐津川左岸にある標高82mの丘陵上に築かれています。北側と西側は日本海に面した崖地となっており、丘陵全体に城砦ⅠからⅣの4つの区域で構成され、多数の郭群からなる大規模な城郭です。
南東部の金比羅神社から登ることができ、改変を受けた神社のあたりが城砦Ⅳであり、西へと城砦Ⅲ、城砦Ⅱ、城砦Ⅰと続いています。
要所は堀切で分断され、尾根上に郭が連なります。
城砦Ⅲには畝状竪堀群がある様ですが風化したのか視認はできませんでした。
城砦Ⅱと城砦Ⅰは無数の帯郭が連なり、想像以上の巨大山城であり、予定時間を大幅にオーバーしました。
最低1時間は見ておいた方が良いかも。周辺に駐車場はございません。

2025年08月14日 国府左京大夫城介
館山城(無南垣城)[大野城  周辺城郭]



山名氏に仕えた但馬塩治氏の居城

【歴史】
塩治氏が明応2年(1493)に、山名俊豊のために御主殿を築いたのが始まり。

塩治氏は、出雲守護佐々木氏の子孫で、室町幕府の奉公衆であった。明徳2年(1391)に起きた明徳の乱で敗走した山名氏に追従したのが但馬塩治氏で、山名氏宗家の家臣として、備後支配に携わったという。明応2年に起きた山名政豊(山名宗全の孫若しくは子)と俊豊親子における内乱では、俊豊のために館山城の前身である「御主殿」を、芦屋塩治氏(鳥取城の戦いで活躍した塩治高清の系統)と共に築いた。
但馬塩治氏は、隣接する林甫城主の長氏と長年争っていたが、天文9年(1540)に、塩治左衛門尉が山名祐豊と共に、長善秀を此隅山城で謀殺している。
弘治3年(1557)の「但馬国にしかた日記」によれば、館山城に「せう殿さま」が居住しているとの記述がある。
天正7年(1579)頃になると、親毛利派の垣屋豊続(竹野轟城主)により、竹野から諸寄(豊岡市から新温泉町)の間に、「5~6ヶ所の要害」を設けており、館山城もその一つと考えられている。

別名:無南垣(むながき)城

【遺構】
大野城から北東約8.1kmに位置し、佐津川の左岸にあり、日本海に面した丘陵(標高82m/比高70m)に築かれている。
城は、4つの城砦郡で構成され、西から城砦Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳと呼ばれている。城域は東西約450m、南北約250mにもなる大城郭で、多くの段曲輪を有し、堀切や畝状竪堀の遺構が残る。

城砦Ⅰは、丘陵の西端にあり、城内の最高所(標高82m)である曲輪1を中心に、三方向に伸びる尾根に多数の曲輪群が配置されている。

城砦Ⅱは、城砦Ⅰの東側に位置し、曲輪8(標高56.2m)を中心に尾根筋ではなく、両斜面に曲輪を配置している。また、曲輪8の西側下には、堀切(幅4m、深さ2.5m)がある。城砦Ⅰ方向には、土橋状の尾根があり、その先にも堀切がある。(縄張り図には記載されてなく、「魚つき保安林」という看板があることから後年造られた道の可能性がある)

城砦Ⅲは、城砦Ⅱの南東にあり、曲輪10(標高56.8m)を中心に3段の曲輪で構成されている。城砦Ⅱとの間には、深い堀切(幅6m、深さ6~7m)がある。南側には岩盤を削った土塁があり、その斜面には竪堀と3条からなる畝状竪堀によって守りを固めている。

城砦Ⅳは、東端にあり、城内で最も広い曲輪14(標高41.4m)があり、以前は金毘羅神社があった(現在は登城道途中に鎮座している)。この曲輪14に「御主殿」が建立され、その後は塩治氏の居館があった場所と考えられている。北東と西側に大きめの曲輪があり、海側には複数段からなる帯曲輪がある。

※文中の曲輪の名称は、「香美町の城郭集成」(2015年3月発行)から引用しています。

【感想】
山名イベントで初めて訪れた城で、思った以上に広大なお城です。4つの大きな区画に分かれており、城砦Ⅳから順に東へ進んで城砦Ⅰを探索することとなります。城砦Ⅰ、Ⅱは多段の曲輪を設けるなど室町時代の造りをしており、城砦Ⅲ、Ⅳには竪堀や畝状竪堀があり戦国時代の造りをしている。

海の側ということもあり、藪はあまりなく、畑等の造成もないことから遺構の残存具合は良好である。しかしながら、海沿いの岸壁に築いた城であるため、転落すると危ない箇所も散見されるので注意して探訪してください。特に、城砦Ⅰの主郭部へ向かうルートの内一つは急崖の細い道を歩く必要があり、足を滑らすと海面に落ちることとなるので、気を付けてください。なので、稜線を辿る直登ルートの方が安全性は高いと思います。天候が悪い日は、城砦Ⅱまでで留めておくとよいと思います。

今回の訪城では電車の待ち時間がかなりあったため、細かな曲輪まで探索したため、3時間位かかっているが、主要部だけを探索するのであれば、60~90分程度で十分周れると思います。

【アクセス】
佐津駅から徒歩5分。

【写真】
①遠景(東側から)
②城砦Ⅳの段曲輪
③畝状竪堀
④城砦Ⅲから見た竪堀
⑤城砦Ⅱと城砦Ⅲの間の堀切
⑥城砦Ⅱの西側にある堀切
⑦城砦Ⅰと城砦Ⅱに間にある土橋状の尾根
⑧城砦Ⅰの曲輪

2025年05月03日 佐吉
養山城[大野城  周辺城郭]

主な遺構は土塁、建物礎石、虎口等で、主郭には城主供養塔や五輪塔が建てられている。また、その他の遺構として、戦没者忠魂碑や海難者供養塔が建てられている。

登山道の入口は城の南側で、民家の間に「史跡養山城跡 ●登山道 ココ入る」との表示があり、非常に分かりやすい。今でも地元の方によってきれいに整備されているため、子連れでも登山可能である。

2025年05月03日 佐吉
養山城[大野城  周辺城郭]

養山城(美方郡香美町香住区上計字城山)

養山城は上計集落北側、西から東に延びる尾根が柴山湾に突き出した、標高約55mの丘陵突端部に所在する。比高は約53mある。城域は東西約120m・南北約90m。
伝承では、城主は長氏。正平9(1354)年4月、初代城主長次郎左衛門尉長宗は南朝方の山名時氏配下として上洛し、将軍足利義詮の軍を攻め敗走させた。同年5月、長宗はその功によって丹生の地頭に補せられ、養山城を築城したという。
5代丹生美作守長近は境界を巡って無南垣・館山城主塩冶左衛門尉秀国と争いが絶えず、享禄2(1529)年11月23日、長近42歳初老の宴を張っていたところ、秀国の奇襲を受け、長近は自害、城は落城した。
一家は離散したが、永禄元(1558)年3月18日、訓谷貴船川の合戦で、次男熊之助が塩冶秀国と争い、遂に仇討ちを果たした。
慈悲の殿様と民から慕われていた長近の死を憐れみ、この地域では今でも42歳の初老の宴は行わないとされる。

2024年05月21日 tracer_azu
釣鐘尾城[大野城  周辺城郭]



釣鐘尾城主であった野石氏は塔の尾城主の長氏と計って志馬比城の篠部有信を攻め落としたといわれています

戦国時代末期に毛利氏と同盟をむすんで織田氏に抵抗した垣屋豊続が 改修の手を加えたものとされ、文書も残っているようです。

釣鐘尾城は北方の志馬比城と連携しながら、 東方から押し寄せてくる織田軍を意識した垣屋氏の防衛ラインを担う城だったと思われます。

2022年10月17日 鈴木剛
志馬比城[大野城  周辺城郭]



688年~1336年 主な城主 志乃武王・篠部有徳
有馬皇子が紀伊には行かずこの地にたどり着いたと言う伝説があるそうでその子孫だそうです。
1750年には石津甲斐守が城主だったようです。

大野城の周辺スポット情報

 曲輪(遺構・復元物)

 曲輪(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 曲輪(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 石積(遺構・復元物)

 曲輪(遺構・復元物)

 志馬比城(周辺城郭)

 釣鐘尾城(周辺城郭)

 館山城(無南垣城)(周辺城郭)

 無南垣愛宕山城(周辺城郭)

 塔の尾城(周辺城郭)

 井上城(周辺城郭)

 高木城(周辺城郭)

 勢多端城(周辺城郭)

 林甫城(周辺城郭)

 養山城(周辺城郭)

 市午城(周辺城郭)

 桑野本城(周辺城郭)

 駐車場(駐車場)

 登城口(その他)

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