高畑城(たかばたけじょう)
高畑城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 青森県平川市高畑熊沢
旧国名
- 陸奥国
分類・構造
- 連郭式平城
天守構造
- -
築城主
- 滝本重行
築城年
- 室町時代後期
主な改修者
- 不明
主な城主
- 平岡氏、乳井氏
廃城年
- -
遺構
- 土塁、堀
指定文化財
- -
再建造物
- 碑
周辺の城
-
乳井城(青森県弘前市)[1.3km]
大光寺城(青森県平川市)[2.7km]
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高畑城の解説文
[引用元:Wikipedia「高畑城」の項目]
高畑城(たかばたけじょう)は、青森県平川市高畑・吹上にあった戦国時代の日本の城(平城)。
概要
高畑城は、本郭・二郭・三郭によって構成される。本丸は、長方形で東西約100メートル、南北約70メートルである。二郭も長方形で東西約30メートル、南北約70メートルである。三郭も長方形で東西約80メートル、南北約60メートルである。各郭の四周には堀がめぐらされていたが、平城で防御力も弱かった。
歴史
戦国時代、乳井薬師堂の乳井城(大隈館)の館主にして、乳井福王寺の別当である乳井玄蕃は、周辺に武威を振るい周辺の南部氏とも対立していたが、玄蕃は大光寺城主・滝本重行に永禄8年(1565年)6月5日暗殺される。だが、玄蕃の子・乳井建清は、まだ若年であったため、仇討ちを自重していた。
高畑城はこのころ滝本重行が建清への備えとして築かれ、家臣の平岡盛影が入った。元亀2年(1571年)、大浦為信(津軽為信)は石川城・和徳城を急襲し、石川高信をうちとった。建清もそれに負けじと高畑城を急襲し、平岡盛影を討って、高畑城主となると、大浦為信に臣従した。そのため、為信を討とうと南部信直が勢多石隠岐守の軍を送り攻め込んだが、建清は善戦し、その間に兼平綱則が兵150人で応援に駆けつけた。さらに九戸政実の謀反の噂が届いたため、勢多石勢は三戸に引き上げた。
天正7年(1579年)7月、比山六郎・七郎、北畠顕則・滝本重行らが平賀郡に侵入した。この時、城主建清が留守であったため、急襲され落城した。この時、乳井城・乳井茶臼館・乳井古館も落城している。しかし、大浦勢と六羽川で激突した比山勢は六郎が討ち取られ、大館に撤退している(六羽川合戦)。その後の高畑城については明らかでない。
参考文献
- 菅英志 1980『日本城郭大系』新人物往来社
- 沼館愛三 1981『津軽諸城の研究』伊吉書院
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高畑城の口コミ情報
2021年05月05日 tk
高畑城
高畑集落の交差点敢えて 此処では(高畑十文字)を山手に入ると神社入り口に案内柱があります。