黒石城(くろいしじょう)
黒石城の基本情報
通称・別名
- 黒石陣屋、烏城
所在地
- 青森県黒石市内町
旧国名
- 陸奥国
分類・構造
- 陣屋
天守構造
- なし
築城主
- 津軽信英
築城年
- 明暦2年(1656)
主な改修者
- -
主な城主
- 津軽氏
廃城年
- -
遺構
- 横堀(空堀)跡
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
浅瀬石城(青森県黒石市)[3.3km]
田舎館城(青森県南津軽郡)[3.6km]
大光寺城(青森県平川市)[6.5km]
浪岡城(青森県青森市)[8.3km]
中野不動館(青森県黒石市)[8.4km]
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和徳城(青森県弘前市)[9.9km]
高屋敷館(青森県青森市)[10.4km]
黒石城の解説文
[引用元:Wikipedia「黒石城」の項目]
黒石陣屋(くろいしじんや)は、青森県黒石市内町(陸奥国津軽郡)にあった弘前藩から分知した交代寄合旗本黒石津軽家(5千石)の陣屋。城壁が黒かったことから、烏城(うじょう)の異名がある。
概要
陣屋は明暦2年(1656年)交代寄合旗本であった津軽信英により築かれた。8代当主親足の代の文化6年(1809年)、加増により1万石を領し大名に列し、黒石藩として立藩した。11代承叙の代に明治維新を迎えている。明治4年(1871年)7月の廃藩置県と黒石県の成立、9月の弘前県への吸収合併により、存在意義を失い廃城となった。
南側には浅瀬石川が流れ、陣屋との間には宇和堰があり、地形的にも自然の要塞を呈していた。大手門近くには、町令所や太鼓櫓があった。さらに、中門、無常門、御制札場などが北側にあった。西側には馬場、南東には津軽信英を祀った御廟があり、南側には蝦夷館(えぞだて)と呼ばれる地が置かれている。御門内に入るためには、大手門か西門を通過しなければならないが、これらは典型的な枡形門となっていた。陣屋の東側には、空堀があったが、明治の初め埋め立てられている。陣屋内には、御殿、台所、御蔵、焔廠蔵が配されていた。浅瀬石川に臨む段丘は比高13mの高さがあり陣屋地では唯一の要害である。
陣屋跡は明治6年(1873年)8月28日、黒石小学校が建設され(後に現在地に移転)。市民文化会館や中央スポーツ館の敷地などとなり、馬場跡が黒石公園(後に御幸公園)となった。
その他
明治6年(1873年)黒石小学校が建設されたため、多くの建物が破却されたと思われるが、津軽信英御廟前に建立された廟門が神門として黒石神社に移築されたことで、江戸時代の建築物としては唯一の遺構となっている。
蝦夷館周辺には、空堀や土塁と思われる盛土も一部見ることができる。
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黒石城の口コミ情報
2024年08月16日 駄目太政大臣政宗
黒石城
屋敷周りは木塀で囲われて昔の佇まいを感じさせます。
2021年05月03日 tk
黒石城
黒石城 黒石藩は弘前藩からの4500石の藩米で成立した関係で表向きの城郭は無い陣屋であったそうです。当初は津軽黒石家分家であった。1万石の大名になったのも近年です。
2019年06月10日 くらやみ志摩守☘️
黒石城
黒石陣屋の大手門近くにあった廟門を、黒石神社創建時に神門として移築したそうです。祭神は藩祖・津軽信英公。本家とは家紋が微妙に違います。
2019年04月28日 さすらい
黒石陣屋絵図・城址石碑[黒石城 碑・説明板]
説明板の表には絵図が、裏には文章が書いてあるので、忘れずに。
2018年08月02日 隼人佑ひーろ
黒石城
南側は断崖10M以上あり、浅瀬石川が天然の水堀となりそれなりの防御機能があるとみる、北側一帯は城下町となっている、今は市街地。東に徒歩2,3分に黒石神社があり、神主さんは、黒石藩15代現当主です。
2010年10月19日 足軽越中守一歩
黒石城
城跡は公園というより、広い空き地か。そこに黒石城跡の石碑あり。
市街地と城跡側、川と田んぼ側は、どちらも平地であるが、20メートル程?の高低差がある。当時は天然の要崖だったかも知れない!?